パレオロクソドンナウマディクス
原始人①が櫓の上から平原を眺めておりますと、そこに一頭のパレオロクソドンナウマディクスが現れました。パレオロクソドンナウマディクスは一頭だけで所在なさげに平原を歩いていたのです。原始人①は驚きましたが、しかし声はあげませんでした。平原のパレオロクソドンナウマディクスと高台の櫓の上にいた原始人①は相当な距離、とても離れていましたが、しかしそれでも油断はできません。パレオロクソドンナウマディクスは見るからに大きな耳を持っています。だから原始人①の声が聞こえてしまう可能性もありました。ですから原始人①は素早く櫓の下にいた原始人②と原始人③に手信号を送りました。②と③はすぐに分かったと手信号を返すと急いで斜面を降りて行きました。原始人①も櫓を降りて、斜面を降りて行きました。その高台からすぐの所に川が流れており、その向こう側、対岸に原始人たちの暮らしている集落がありました。原始人たちは皆そこに向かったのです。
原始人①が川の浅瀬を渡って集落に到着したころ、既に集落の前には男たちが集まっており、皆原始人①が到着したのを確認すると平原に向かいました。皆、手に思い思いの武器を持っていました。あるものは槍、先端に黒曜石を削って作った穂を付けた槍。あるものは弓矢、これも矢の先端に削って尖らせた石鏃を付けています。他にもこん棒を持つものもいれば、中にはアトラトルの原型のような武器を携えている者もいました。原始人①も原始人①の妻から手製の、ナナカマドの木を乾燥させて柄、持ち手の部分を作り、固いサヌカイトを槍先に用いた、武器を受け取り皆の後を追って草原に向かいました。
「お、お」
その背後から、原始人①の妻が火打石を打ち鳴らし用いて出立を見送りました。原始人①の妻のお腹は少し大きくなっていましたがしかし、不安そうな顔は一切しておりませんでした。原始人①も己を奮い立たせて勇ましく草原に向かって走っていきました。空は曇天に曇っており、低いところを雲が走るように流れていました。
原始人の群れはいつものように風下から近づきそれぞれ三方に分かれて岩場の陰や足高の草の陰に隠れていました。草原にはいまだ一頭のパレオロクソドンナウマディクスが居ました。パレオロクソドンナウマディクスは未だにどこに行くというどこに向かうという気も無いように、ときどき耳をパタパタとさせ、鼻を上げたり下げたりしながら茫洋と、茫漠とたたずんでいました。顔を上げたり下げたりする度に、パレオロクソドンナウマディクスの大きな立派な牙、は周りに、周り一帯にその威光を、威光を掲げているかのようでした。
地面のくぼみに隠れた原始人②達のいる側から岩の陰に隠れている原始人①達の元に手信号が送られてきました。行くぞという手信号です。そこから更に草木の間に隠れていた原始人③達の元に手信号を送ります。手信号を送る原始人①の手にも力が入りました。原始人たちの狩りはまず草木に隠れた原始人③達の弓矢から始まります。それに驚いてパオーンとなったパレオロクソドンナウマディクスの足を狙って原始人②達が飛び出していき足を狙います。それとほぼ同時に飛び出していく原始人①達は攻撃よりもまずパレオロクソドンナウマディクスが逃げないように退路を塞ぎます。それから原始人皆でぐるりとパレオロクソドンナウマディクスを囲み、その後はパレオロクソドンナウマディクスが死ぬか、あるいは原始人たちが死ぬかという戦いになります。
大抵の場合、パレオロクソドンナウマディクスは驚きその場から逃げようとします。しかし放たれた矢の一本か二本がたまたま、パレオロクソドンナウマディクスの敏感な部分の皮膚に刺さったりしたら、あるいは四本のある足の一本だけでも、原始人の放った槍が突き刺さりそれが影響してうまく走れなくなったりしたら、パレオロクソドンナウマディクスは怒りと恐怖、怯えから逃げる事をせず原始人たちを殺そうと向かってくるのです。
そしてそれはある意味で原始人たちにとっても同じことが言えました。原始人たちにとってパレオロクソドンナウマディクスは敵う相手ではありませんでした。大きさだって全然違います。原始人とパレオロクソドンナウマディクス。パレオロクソドンナウマディクスが前足を上げて立ち上がりその足をそのまま原始人たちの上に落としたら、原始人たちなど一発で死んでしまいます。あまりにリスキーな獲物でした。原始人たちの獲物は他にもシカやイノシシなんかの原型とされる生き物もいました。魚や貝をとらえて食べたりもしましたし、木の実もありました。木の実から作った酒を飲んだりもしていました。
勿論、冬前のたくわえとか、あとはまあ、狩猟がうまくいかない時期が続いてとか、そういうのはあったでしょう。が、それにしてもパレオロクソドンナウマディクスを相手に戦うというのはかなり危険な事でした。危険が無い事の方が少なかったかもしれませんが、それにしても、原始人達がパレオロクソドンナウマディクスに挑むのはかなり無謀な事でした。
それでも、原始人たちはパレオロクソドンナウマディクスに挑んだのでした。それは何故でしょうか。原始人の男達のプライドとかそういうものでしょうか。強いパレオロクソドンナウマディクスの肉を喰らう事によってその強さを我が身に得るため。そういう類のものでしょうか。
現在の研究から、そこには一つの仮説があるそうです。
古代の生物、パレオロクソドンナウマディクスの肉にはセロトニンとアマンダナイトが含まれていたのではないか。というものです。
セロトニンとアマンダナイト。
セロトニンとは幸せホルモンと呼ばれる神経伝達物質の事です。これを得ることで幸福感を多量に得ます。精神を安定させ安心感とか平常心を保つ役割があります。
アマンダナイトはアラキドン酸という多価必須脂肪酸を得ることで、ちなみにこれは植物油にはほとんど含まれていないそうです。アラキドン酸は脳内でアマンダナイトとなり、それがまたセロトニンと同じく幸福感をもたらし恐れ、不安、痛みを抑制します。
現代では牛、牛肉を食べることで多く得られると言われているセロトニンとアマンダナイト。それがどうして当時、あの時代のパレオロクソドンナウマディクスに多く含まれているのかは私にはわかりません。わかり得ない事です。が、しかし、それならばまあ、確かに、
「パレオロクソドンナウマディクスだって狩ろうとするかなあ」
なんとなくそう思うのです。
パレオロクソドンナウマディクスとの戦いは槍を折られた原始人①の最後の抵抗で終わりました。原始人①はパレオロクソドンナウマディクスと刺し違えてその額に大きな石を叩きつけたのです。
その瞬間、パレオロクソドンナウマディクスはぐらりと体を揺らしてその場に倒れました。他の皆が駆け寄ると既に息絶えていました。原始人①も同じく既に息はありませんでした。
原始人たちは皆その場で泣きました。そして泣いてから原始人①の事を土に埋めて、それからパレオロクソドンナウマディクスの肉を解体し、皆で担いで集落に戻りました。原始人①の妻は原始人②から渡された原始人①の折れた槍を見て泣きました。
その日は集落で大きな火を焚いて、祝祭が行われました。
そうしてやがて集落に厳しい冬がやってきました。
それからしばらくしてその集落に春が来て、原始人①の妻から原始人①の子供が生まれました。原始人①の子供の胸にはサヌカイト、原始人①が槍の先端に付けていたサヌカイトの槍先を煮た木の皮でグルグルにしてペンダントのようにしたものがぶら下がっていました。