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垢穢狂心  作者: 葉倉千緒
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愛憎

翌朝。


「おはようございます、ルナシー」

 ノックをして、ルナシーの部屋に入室するマイス。


「うん……あっ、あっ! おっ、おはよう、マイス!」

 ルナシーはベッドから飛び起きた。


「おはようございます」

「いっ、今は何時かしら!?」

「8時10分ですが」

「えっ、もうそんな時間!?」

「はい……ご朝食の時間になってもいらっしゃらなかったので、心配になりまして参りました」

「あ、ああ……昨日は夜更かしして勉強してたからだわ。急がなきゃ!」

「あっ」

 ルナシーはクローゼットから白いドレスを押し取ると、寝間着を脱いで着替え始めた。


「ああ、私としたことが……寝坊するなんて」

「失礼します、ルナシー」

 ルナシーに背を向けたままでマイスが話しかける。


「何かしら!?」

「ご朝食を召し上がってないので、僕が軽いものをご用意いたしました」

 マイスは白い布の包みを、後ろ向きのままルナシーに渡す。


「これは?」

「サンドウィッチです。砕きアーモンドの砂糖入りバター和え、茹で卵のクリーム和えとレタスのサンドウィッチが入ってます」

「え、これはマイスが?」

「はい。時間がなく、簡単なもので申し訳ないですが」

「とんでもないわ! サンドウィッチなら、手軽に食べられるもの!」

「それは何よりです。人に見つからないよう、移動中や休憩時間にお召し上がりください」

「そうするわ! ありがとう、マイス!」

 ルナシーは机から筆記具を押っ取ると、サンドウィッチの包みを抱えて部屋を出た。


「行ってきます、マイス!」

「行ってらっしゃいませ」

「それと!」

「はい?」

「歌詞、ありがとうね! しかも、2つも! それじゃあ、急ぐわね!」

 感謝の言葉だけを残し、ルナシーは雲を霞、廊下を駆けていった。


「2つも書いたかな? 童歌を1つだけしか書いてないはずだけど……」

 マイスの頭に疑問符が浮かんだ。




:

:

 皇学院高等科。すでに教室には学友が集まっていた。高等科の人数は10人程度、初等科からエスカレーターでの内部新学者は半分で、残りは外部入学者の秀才だ。


「文学のウェダ先生はまだ来てないわね、よかった」

 ルナシーは胸を撫で下ろす。


「あ、あ! ルナシー様!」

 すると、眼鏡をかけた男子がルナシーを見つけるなり、手を振った。


「あら、ミロさん!」

 ミロは教壇の最前列に座っていた。しかし、ミロの回りは不自然に空いていた。3人掛けの長テーブルが10脚、30人は収容できる教室だ。ミロが座る最前列のテーブルを避けるように、他は教室の後部に固まっていた。


「おはようございます。お隣、よろしいですか?」

「はっ、はい! 自分は問題ないですます!」

「よかった。しかし、ミロさんは問題ないとは?」

 ミロの隣に着座するルナシー。しかし、その光景を周囲は奇異の目で見る。


「……おれ、嫌われてます。ルナシー様も、嫌われてます人間の隣に座ると嫌われることになる」

「どういうこと?」

「だがしかし……」

 ミロは教室の後方を振り返る。隣り合ったルナシーとミロをチラチラと瞥見し、こそこそと何かを呟いていた。


「……回りはフェンデルクセンかワルサワ人なのね。しかも、王族か王宮関係者の子女で内部進学者。私の顔馴染みもいるわ、初等科から一緒だった子も……」

「ルナシー様……?」

 竹馬の友にまで後ろ指を指されたことに、気分が悪くなるルナシー。


「……関係ないわ。向こうにだって付き合う人間を選ぶ権利くらいあるし、私にだってありますもの」

「お、おれのせいで……」

「ご自身をお責めにならないで、ミロさん。あなたは何も悪いことはなさってないのですから」

「はっ、はい。悪いこと、したことないです」

「きっと、外部入学で成績が優秀なあなたを僻んでいるのですわ」

 ところで、皇学院は単位制で必修以外は好きな授業を選択できる。この文学の授業は必修だ。ルナシーは自然科学系、ミロは社会科学系の授業を取ることが多い。なので、ルナシーとミロが出会うのは必修のときくらいなのだ。


「成績優秀は違います! ルナシー様……」

「社会科学には明るくありませんの、私。お友達を作るのも仕事ですが、本業は学問ですわ。ところで、ミロさん」

「はい! いかがなさいましたでしょうか?」

「ミロさんに頼みたいことがありまして」

「げ、げに!? 卑しくも、おれはルナシー様のご依頼を拝します!」

「そんな、構えないでください。頼みたいことというのは、これなのですが……」

 ルナシーは鞄から、2枚の紙を取り出す。


「南セダン語と思しき言葉で書かれていて、ミロさんなら読めるかと」

「うむむむ……」

 文章を凝視するミロ。


「イヴーガヤ、ああ! これは南セダン語ですます!」

「やっぱり!」

「1つは南セダン語の伝統的な子供たちの歌ですます。もう1つは……南セダン語でも、おれのところと違う。だがしかし、問題ないですます」

「そうですか。じゃあ、すみませんが、ミロさん。標準語に翻訳できますか?」

「可能ですます!」

 ミロは笑顔で頷いた。


「では、紙を差し上げますので、お願いいたしますわ。どのくらいで、できますか?」

「一時間の半分でできます!」

「あら……じゃあ、私が板書を代筆しますので」

「忝ないですます! ルナシー様の命を賜りました!」

 そう言うと、ミロは分厚い本を立ててバリケードを作り、翻訳を始めた。


「皆さん、ごきげんよう」

 すると、全身が黒いコーディネートの、スタイルが良い妙齢の女性が入室した。教師のウェダだ。


「さて、今日も愛について勉強しましょう」

 教壇に立ち、本を広げるウェダ。因みに、フェンデルクセンには日本の学校と違い、始業のベルや号令などの習慣はない。教師が教壇に立って話を始めてからが授業の開始だ。


「今日は前回の続き、ヘレニアの哲学です」

「あ、授業が始まったわ」

「哲学者・エンペドクレスは火や水などのエレメントを説いたことで有名で、今でも彼の学派があります。錬金術や呪術と結び付きが深いですね、フェンデルクセンにそれらを教える機関はありませんが。しかし、哲学の分野では、彼は……」

 ウェダは黒板に「ΕΡΟΣ」と書いた。ヘレニア文字だ。


「エロス、と読みます。このエロスとは、崇高なものです。愛とでも訳しましょうか? 我々の認知する愛は『Aくんが好き』という感情や母が子に注ぐもの、肉体的な結合願望、セックスですね。あとは、神からの愛であるアガペー。それらの意味も包含しますが、エロスはそれらを超えた存在であるとしています。エンペドクレスは愛について説いてます」

「愛……」

 ルナシーの頭にマイスの像が過る。


「愛の対になるもの、憎しみです。エンペドクレスは、愛は『繋ぐ』、憎しみは『切る』という提議をしています」

「繋ぐ、切る……」

「イェーズスが『隣人を愛せ』と遺して、愛することばかりが励行されてますね。しかし、愛憎は善悪や黒白のような二者択一の立場でなく、昼夜や陰陽のように表裏一体の立場なのです。昼があっての夜、陰影あっての陽光、そして愛あっての憎しみ、憎しみあっての愛。どちらかに傾注することは好ましくありません」

「表裏一体、ねぇ……」

「話の中で恋愛について出ましたが、恋愛について」

「恋愛……!?」

 ルナシーの筆を握る手が強くなる。


「恋愛関係にある男女は、他者から見たら病気に見えるんです」

「びょ、病気?」

「恋愛関係にある男女の学生、BくんとCちゃんとしましょう。Cちゃんが朝ごはんを食べたくて、シーゼリアに行きたいと言います。ブレークファストのコースを食べたいと言います」

 シーゼリアというのは、フェンデルクセンにある高級料理店だ。貴族の御用達の店で、庶民には手が届かないくらいである。


「恋愛関係にない、Cちゃんの男友達のDくんが言います。『朝ごはんくらいなら、シーゼリアなんて高い店で食べなくてもいいじゃないか、経済的じゃない。朝からコースでワインを飲むなんて』と」

「朝からシーゼリアのブレークファストコースはちょっとね……王族でもやらないわ、そんな贅沢」

 因みに、ルナシーの朝食は質素なものだ。今朝はマイスお手製のサンドウィッチだが。


「しかし、BくんはCちゃんの願いを聞き入れて、シーゼリアでブレークファストに行きます。Bくんも厭うことなく、それを甘受します。しかも、毎朝」

「ちょっと、BくんもCちゃんもおかしいわね……」

「また、BくんとCちゃんは同棲しているとしましょう。CちゃんはBくんのために、台所でサーモンを焼いていました。サーモンはBくんの大好物です」

「……一気に例え話が庶民的になったわね」

「しかし、BくんがCちゃんを部屋に呼びます。サーモンが焼けるのにまだ時間があると判断したCちゃんは、Bくんのところへ行きます。Cちゃんを呼んだのは大した理由ではありませんでした。ただ、Bくんは一分一秒でもCちゃんと一緒にいたいから」

「変ね。BくんがCちゃんのところに行ってもいいのに」

「BくんとCちゃんは仲睦まじく、他愛のない会話で二人の世界。しかし、台所ではサーモンがモクモクと黒煙を上げています」

「危ないわ!」

「しかし、CちゃんもBくんもサーモンのことなんか欠片も意識の中にありません。サーモンは炭と化し、台所の火は次第に広がっていきました。焦げる臭いにも気付かない二人、そこに登場したのは、二人の近所に住むDくんでした。Dくんはバケツで火に水をかけて、火事を防ぎました」

「Dくんが近くに住んでて助かったわね」

「BくんとCちゃんが恋愛関係になかったら、シーゼリアで散財することもない、サーモンも焦がさない……正常な判断ができたのはDくんでした。BくんとCちゃんの恋愛関係は病的なものと、Dくんは判断するでしょう。時に、恋愛関係は病的なものとなり、相手以外の回りが見えなくなることがあります」

「恋愛……考えるところがあるわね」

「この例え話では、Cちゃんのためを思っていたのはBくんでなく、Dくんでした。Cちゃんにとって有益な人間はDくん、しかし、BくんとDくんの立場が逆でも、このような病的な事例は起こるでしょう」

「確かにね。この後にDくんと恋愛関係になっても、また誰か異性が現れてDくんみたいな立場になりそう」

「恋愛の話はここで、終わりです。本題の、エンペドクレスの愛憎ですね。繋ぐことと切ること、これは人間関係のみならず、人間の集合体である国家間でもあり得ます」

「国家間、私には必須の話題ね」

「国家間での愛、繋ぐことといえば国交ですね。国交が結ばれた国家間では人的な往き来や、経済的援助、商業などが行われます」

「王族たるもの、覚えておいて損はないわ」

「しかし、A国とB国があったとしましょう。A国は資源に富んでいて、B国はA国から産業用の資源を輸入しています。輸入依存体質と、社会科学では言いますね。しかし、輸入だけのビジネスライクでは国交は保ちません。ビジネス以外の交流、スポーツの親善試合や楽団の演奏会とかを行うことがあります。両国とも関係が懇ろになりますね」

「国と国とも、色々とやらなきゃならないことがあるのね。だから、お父様や大使とかがいるのね」

「国家間のことについては、社会科学の政治学で学べます。しかし、様々な要素の愛で結ばれた国交に、何かしらの亀裂が入ったとしたら?」

「……断交に至るわね」

「亀裂が入ること、国交が途絶えること。これを憎しみの訪れと提議します。国交がなくなれば資源も輸入できない、人も往き来できない……敵対して、国に属する人々にも憎しみが訪れます」

「ザウシュタットについてかしら?」

「最悪の場合には戦争に至るでしょうね。戦争にならないようにするのが、外交官や政治家、国王の役目ですが。しかし、深い愛で繋がっていればいるほど、憎しみで切り離されるときには激しい苦痛が伴います。この場合の苦痛とは、経済的損失や戦争の危惧です」

「苦痛……」

 筆記が淀むルナシー。


「人間関係で、恋愛関係に置き換えてみれば分かりやすいですね。先程のBくんとCちゃん、何かしらが原因で別れたとします。お互いの心的苦痛は測り知れません。別れ際ではお互いに殺し合いに発展しかねません。強い愛には強い憎しみが訪れて、引き剥がされたときには苦痛も一入なのです。この教室で自然科学を履修している方にも分かりやすく例えるならば、強酸に対して強アルカリを加えることがあるでしょう?」

「自然科学、私ね。強酸と強アルカリを混ぜると、中和熱で高熱を発する物質もあるわ。愛と憎しみは、酸とアルカリ?」

「しかし、酸とアルカリを混ぜると中性になりますね。例えとしては不適切かもしれません。しかし、愛と憎しみを上手く組み合わせると調和が訪れるのも事実です」

「調和……」

「ところで、私の説明や板書が早いという方はいらっしゃいますか? 何か質問がある人?」

 

 ウェダは生徒たちに呼び掛けた。

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