異言語
「ヘトヘトだわ……」
陽が沈む前にどうやら、ルナシーは板書を終えたようだ。鬼講師ドミトリルの教室を後にして、一人廊下を歩くルナシー。
「ああ、腕が痛い……」
細かい字でびっしりと埋め尽くされた黒板、むしろもう、白板といっていいだろう。それほどまでに文量多く、白墨で記述されていたのだから。
「次にあの教室を使う方、大変ね。黒板消しで、簡単には消しきれないんじゃないかしら……あ、そうだわ」
ふと、ルナシーは足を止めた。図書室の前だ。
「まだ、夕食まで時間があるわね」
ルナシーは図書室に入った。
「あら、ルナシー様」
「ごきげんよう、サンドラさん」
サンドラという老年女性の司書が対応する。
「こんな時間に珍しいじゃない? また、自然科学の本を借りに来たの?」
「いいえ、今日は人文科学よ」
「人文科学ねぇ、歴史とか哲学かしら?」
「言語学なのよ、それが」
「言語学? 統語論とか音声学かしらね」
「何かといえば、文法書が良いかもしれないわ」
「文法書、何語を勉強するの?」
「ええと……確か、カロリア語だったかしら?」
「カロリア語、ああ! セダン諸言語の一つね。南セダン語って総称で通称だけど、マニアックな言語を勉強するのね」
「うふふ、友達に南セダン語を喋る方がいるの。ちょっと気になって」
「そうなのね。ちょっと待ってちょうだい……あ、ちょうどいいのがあったわ」
サンドラは書籍の名前と所在地を書いたメモをルナシーに渡す。
「窓側の書架にあるから、ごゆっくりね」
「はい、ありがとうございますわ」
ルナシーは受付カウンターを後にした。
「HSーC255は……あった! 随分と分厚い本ね」
ルナシーは目の前の本を一冊手に取る。
『諸言語比較集
Dze Kompaerison Del Linguessen En Dze Kingdom』
「ええと、目次……これがそうかしら? なになに……」
ルナシーはミロが喋る言語についてのページを読み始めた。
『南セダン語 Souzesedanilingue
現地語ではIwgaja jdijkという。本来は我々と違う文字の表記をしていたが、セダン家領の方針に従い、我々の文字で表記をするようになった。しかし、我々の文字と音価がかなり異なる。以下は南セダン語に於いての文字の音である。
◆母音 Fovelen
A アと発音
E エと発音するが、アクセントがない場合は短いイ
I イと発音
O オと発音するが、アクセントがない場合は軽いア
U ウと発音するが、アクセントがない場合は軽いア
Y ユと発音。時にイと発音される。
W 長音ウ。時に唇音Vを伴って発音される。
◆子音 Syllabichen
特に異なるものを集めた。
C チと発音
D 我々の文字と同音だが、時にジ、ジェと発音される
J イと発音
R 喉の奥で発音される我々の音と違い、舌先を思い切り震わせる、巻き舌の音
S 我々と違って、常にシと発音される
X 喉の奥で掠らせて発音される
S' 上記Sに息を混ぜた音
◆文法的差異
南セダン語には、我々の存在動詞Seirに相当するものがない。主語+目的語で表現する。
(例)Az stydentto 私は学生(男)だ
故に、我々の現在進行形に相当する表現がなく、単純現在形で現在進行形を表す。
南セダン語の定冠詞は単語の語尾に接着する。また、我々と違って名詞に男女の性が存在する。
(例)viwlion-ta 図書館(女性名詞)
(例)porest-to 森(男性名詞)
(例)viwlioni-ate 図書館(女性複数)
(例)poresti-ote 森(男性複数)
南セダン語は過去形の表現が我々より多い。
①単純過去形
単純に過去に行われたこと。現在については問うときと問わないときがある。
「私はそれを食べた」
Az mangalj esa
②過去進行形
過去に行われていて、現在でも続いている。
「その犬は昨日から寝ている」
Cavaka esa dormiljani s'ens predie
③過去完了形
過去に行われたことで、完了したもの。現在については問わない。
「彼は10年前にそれを行った」
On impleculim esa bepo deca xewrice
南セダン語は、人称と名詞に格が存在する。主格、属格、目的格、対与格、前置詞後格といったものだ。我々は語順で行うが、南セダン語ではこの格の変化が重要である。
(例)
主格 属格 目的格 対与格 前置詞後格
Az Azi Azo Aza Aze
Porest Poresti Poresto Poresta Poreste
Viwlion Viwlionji Viwlionjo Viwlionja Viwlionje
Poresti Porestici Porestico Porestica Porestice……』
「うわぁ、私たちの言葉と随分違うわね。ミロさんも、戸惑うわけだわ」
「Izvinice, Lunasija? Vuj borovice ete knigo? Az xacu sejziti viwlionjota, vuj xolos'ijo? Cesa preso e 5, dobli sejzitistja. Padjalujsta ocinja」
「ふぇっ!?」
背後から耳慣れない言葉が聞こえて、虚を突かれて驚くルナシー。振り替えると、声の主はサンドラだった。
「サ、サンドラさん……」
「うふふ、ごめんね」
「いえ、ですが、さっきの言葉は……?」
「ええ、南セダン語よ」
「サンドラさん、喋れるんですか?」
「ちょっとだけね」
「セダンのご出身ですか?」
「ううん、フェンデルクセン生まれのフェンデルクセン育ちよ。ただ、旦那がセダンっ子だったの。しかも、元シンギュラー」
「シンギュラーですか」
シンギュラーというのは、王国内で母語が標準語でない者を差す。
「そう。旦那の出身地がセダン領になる前、旦那は留学生としてセダン大学に来てたの」
「セダン大学に……」
因みに、セダン大学は医学や理工学、教育学の名門大学だ。大学の敷地が一つの市を占めるほど巨大な大学としても有名である。
「そして、私は彼のチューターだったのよ。標準語を教えてたりしてたわ」
「チューターをなさってたんですね」
「そうよ。彼は頭が良くてね、標準語は直ぐに上達したの。標準語運用能力を認められて、晴れて私の人文学部に編入できたのよ」
「人文学部、サンドラさんは何を専攻してたのですか?」
「文献学よ」
「文献学?」
「そう。文献学ってのは、歴史学の一つね。ルナシー様、考古学は想像できる?」
「はい。研究員の方が遺跡を探索したり、遺物を具に観察したりというイメージですが」
「そんなイメージで大丈夫よ。それを書物や文書の資料でやるのよ。遺跡、まあ地層ってイメージして」
「はい、地層ですね。遺物を掘り出すような、断層や地面を思い浮かべればいいですか?」
「ええ。その断層や地面をシャベルで掘ったり、刷毛で撫でたりするでしょ? 文献学ではページを捲って、本や文書を目で追って目ぼしいものを見つけるの。考古学者が遺物を見つけるようにね。文献学は文章から当時の文化や風習を探る学問よ」
「なるほど、そのような学問があるんですね」
「ええ。ルナシー様もセダン大学に入学したら専攻……ああ、ルナシー様は自然科学の方が好きよね」
「ええ、正直を申しますと。地面を触るなら考古学より、地質学が好きです」
「そう言うと思ったわ。文献学専攻はかなり少ないし、将来は図書館司書が苦にならなければお薦めはできないわね」
苦笑するサンドラ。
「私もルナシー様が安全着を纏って、試験管やフラスコを揺らせてるイメージしか思い浮かばないわ。本の海に埋もれて一日中、ルーペで書物にかじりつく姿が似合わないわよ」
サンドラは自らの分厚い眼鏡を掛け直す。
「進路は王立大の理科系かしら?」
「いえ、皇学院の数学科かフェンデルクセン大学の化学科に」
「あら、フェン大? あそこは王立じゃなくて、庶民的な公立よ? まあ、自然科学なら王立大を欺く泰斗がいるけど」
「いえ、王立大はちょっと……」
ルナシーは法学の書物を抱き締める。それを目にして、サンドラも何かを悟ったようだ。
「まあ、王立大は法学の必修があるわよね」
「そ、そうなんですよね! 私、法学は苦手で」
「あら、ルナシー様にしちゃ珍しいわね。駄目よ、女王様になる人が法学を苦手にしてちゃ。まあ、私もあの人は嫌いだけどね」
あの人とは、ドミトリルのことだろう。お互いに察しがついた。
「あいつ、図書館をよく利用するのよ。でもね、最悪よ。あった場所に本は戻さないし、本に書き込みはするし、折り目はつけるし、書き損じの紙は机に放置だし」
「な、なんという……」
「国民の血税で揃えた本に何てことしてくれてんのかしら。まあ、私もたまに本であいつの頭をひっぱたくけど」
サンドラは見た目に似合わず、行動派のようだ。
「暴力はいけないかと……」
「いいのよ、いいのよ。本たちがやられたことを考えれば可愛いものよ。それにしても、あんなのが王立大で教鞭を振るっているだから始末におけないわよ。まあ、あの人はアレだからねぇ……」
「アレ、とは?」
「あら、嫌だ。ルナシー様の前で……」
口を滑らせてしまったサンドラ。どうやら、ドミトリルには何かがあるらしい。
「……しょうがないわね。ルナシー様、これから私が口にすることは他言無用でお願いよ」
辺りを見渡し、サンドラは声のトーンを抑えて語りだした。