律令
フェンデルクセン王宮内にある、合同教室。ここは大人数が収容できる、皇学院の講堂だ。高等科から大学部の生徒や学生が講義をここで受ける。
「さて、今日は……私を含めて3人ね」
入室したルナシーは講堂内を見渡す。教壇の最前列に2人の生徒が既に座っていた。
「失礼しまーす」
ルナシーは出入口に一番近い席に座る。ドミトリルは板書中で背を向けているため、ルナシーの着座に気付いていないようだ。
「あ、あ、あ……」
「はい?」
着座するや否や、2人分の空席の向こうに座る男子がルナシーにおずおずと、言葉にならない声を掛けてきた。
「あ、あな……あなたは」
「私? 私はルナシーと申します。初めまして?」
男子の顔に見覚えはない、初対面だ。
「ミ、ミロ……ミロ・スラーフヴィチ」
「ミロ・スラーフヴィチさんですね? よろしくお願いいたします」
にこやかに頭を下げるルナシー。
「へ、へい……あ、間違えた! はい!」
「うふふ」
ミロという少年は緊張しているのか、言葉が淀んでいる。
「あの、緊張なさらずに。同じ学友なのてすから」
「は、はいっ! で、ですが! ルナシー様とお話し、すごい緊張です!」
「まあ」
その時、ルナシーはミロに対して警戒心を解いた。なぜなら、このミロという少年には他の男子と違って王位継承の下心が全く見受けられなかったからだ。むしろ、この緊張は他者とのコミュニケーション不足が由来するものだろうと、ルナシーは思った。
「なぜ、そのように緊張なさるの?」
「は、はいっ! お、おれ……言葉が出来ない、苦手です」
「言葉が得意でいらっしゃらないのですか」
「はいっ! だがしかし、読む書く聞くはできるですます。喋るは難しく出来ない」
「あらら、うふふ。ミロさん、お喋りになられてますよ?」
「げ、げに? ありがたき幸せですます!」
はにかむミロ。ミロは訛りが強いようだ。
「あの、差し支えなければお教え願えますか? ミロさんは、なぜこの皇学院に?」
「あ、はいっ! 身上でございます? おれ、ミロ・スラーフヴィチは現フェンデルクセン第二側室のレベチャ妃の親族です。王族ということで、皇学院に来たですます!」
「あら、そうなのですか?」
「はいっ! レベチャ妃の兄の嫁、その嫁の姉の長男ですます!」
「レベチャ? ルベシア様のご親族、ということは、ミロさんはご出身はどちらですか?」
「出生地です? 出生地はスドン家領のカロリャ・トゥヴォナですます」
「恐れ入ります、スドンというのは?」
「あ、間違えてた! セダン、セダンですます!」
「ああ、セダンね。偶然ですが、私の友人もセダンなのです」
「左様ですますか? セダンのいずこ?」
「トレーヌ村はご存知ですか?」
「トレーヌ……ああ! チリーニェ・ヴィリャですます! おれのカロリアより立派な! カスリィがある」
「カスリィ?」
耳慣れない言葉に首を傾げるルナシー。
「あの、ミロさん。言葉を喋るのが苦手と仰ってましたが……?」
「あ、はい。おれ、セダンにおいても外れに住むます。カロリアはフェンジェールフシニャと言葉が違うですます」
「フ、フェンジェールフシニャ?」
「あ、また間違えてた! フェンデルクセンです」
「ミロさん、お国訛りがお強いんですね」
「訛りが? 違いますです! フェンデルクセン語とイヴーガヤは、全然違うですます」
「イヴーガヤは、ミロさんの国の言葉なんですね?」
「はいっ!」
フェンデルクセンには前述の通り、5つの領地から成る。王国の言葉は王都で話される言葉が標準語として通用しているし、言語教育も標準語で行われる。その中でもセダン家領は訛りが強いことで知られていた。
そもそも、セダン家領は王国加盟が遅かった。隣国のザウシュタッドから流入する難民や、領内の少数民族が反乱を起こしたりと治安が安定しなかったからだ。そのせいで、領内には標準語以外の異言語が存在するようになった。
「なるほど、興味深いですわ」
「あ、ありがたき幸せですます!」
「はい、そこ。何しに来たんですかねえ?」
歓談に水を差したドミトリル。板書が終わったようで、振り向いたのだ。
「あ、あら、ドミトリル先生」
「ルナシー様、ご学友とのご交流も結構ですが、ここは学問所ということをお忘れなきよう」
苛立ったような口調で、ドミトリルは眉間に皺を寄せる。
「あ、は、はい……」
「異言語に興味を持つのも構いませんがねえ、今は法学、社会科学の時間です。人文科学の授業でなさってください」
「す、すみません……」
「話は本題に移りますよ? で、今日の法学は『フェンデルクセン合意』です。各人、私が黒板に書いた合意の抜粋を板書するように。次の授業で解釈や事例など、掘り下げた授業をします」
そう言うと、ドミトリルは黒板を顎で差した。 今日は板書だけのようだ。
『フェンデルクセン合意
◇目的
この合意は、現行の王法が補完できない箇所の補完、かつ王法の暴走を防ぎ、国王の権力の濫用および独裁を防ぐことを目的とする。
◇総則
1 この合意はフェンデルクセン家、カルマー家、ワルサワ家、ヴェネルック家、セダン家の、それぞれの代表が同意したものと見なす。
2 この合意に反しない限り、各家は自らの領地を治める法令を制定できるものとする。
3 各家の領地の法令を制定する上で、税法、刑法、その他名称の如何を問わず、現行法に反する内容の法令を制定してはならない。
◇王位
1 王位を継承せんとする者は、五家合議会に諮られなくてはならない。
1-1 王位を継承せんとするときは、王位を継承せんとする者は、2月以上の五家合議会の審議を経なくてはならない。
2 王位を有した者は、正室を含めて第三側室まで選出することができる。
2-1 正室および側室は、王位を有した者並びに他家領主の親族から選出することを許さない。
3 王位を有した者は、出身の領地に関する一切の権限を放棄する。
4 王位を有した者は、他家領主の執政に関して、領主に執政に関する情報の提示を求めることができる。
5 王位を有した者に明らかな不作為があった場合、他家領主はその不作為に対して審議する緊急五家合議会を開催することができる。
5-1 緊急五家合議会で、王位を有した者が王位を継承し続けることが不適切と判断された場合、次期の王位継承者が決定するまで五家合議会を最高執政機関とし、王政の停滞を防がなくてはならない。また、王位を喪失した者は、王政に関する一切の権限を有しない。
5-2 五家合議会が最高執政機関となったとき、15日以内に次期王位継承者の候補を選出し国民に開示しなくてはならない。
5-3 選出された王位継承者の候補は、五家合議会の15日以上1月未満の審議を受けなくてはならない。
5-4 前項で王位を継承した者は、最長6月の間、五家合議会の助言の下に執政を行わなくてはならない。
6 王位を有する者が死去した場合は、死去した後の対応から次期王位継承者選出および執政に至るまで、5-1から5-4までを適宜準用し、王政の停滞を防ぐ措置を講じなくてはならない。
◇領主
1 領主とは、領地に於ける最大権力者かつ最高責任者のことをいう。
1-1領主の任期には、一切の期限を設けない。
2 領主か治める地の市民は、領主および領主の臣下に不作為があった場合、国王に提訴する権利を有する。
2-1 国王が領主の不作為を認めた場合、不作為を認めた日の翌日から起算して15日以内に、臨時五家合議会を召集しなくてはならない。
2-2 臨時五家合議会の結果、領主の不作為が不当であると判断されたとき、当該の領主は領主の地位を辞任しなくてはならない。
2-3 領主が空位になったとき、国王若しくは国王が任命した者を、臨時で領主代理に就任させる。
2-4 臨時の領主代理が置かれた場合は、領主の臣下は次期領主の候補者を1月以内に選出しなくてはならない。
2-5 前項で選出された候補者は、臨時の領主代理の承認を得て領主になる。
2-6 前項で領主となった者は、最長1月の間、領主代理の助言の下に執政を行わなくてはならない。
2-7 領主の就任がなかった場合、その領地は3年の間、国王の監視下に置かれる。
2-8 前項で定める3年の期間内に領主の就任がなかった場合、領主の就任があるまで国王の監視下に置かれる。
3 領主は、正室以外に婚姻関係を結んではならない。
3-1 領主は、正室と婚姻関係を解消したときには、領主が治める地の市民に婚姻関係の解消の旨を告知しなくてはならない。
3-2 婚姻関係を解消した正室は、婚姻関係を解消した日から3年の間、領主からの扶養を受けることができる。
3-2-1 正室が扶養を拒否した場合、正室は、領主の親族に該当しなくなる。
3-2-2 正室が扶養を拒否した場合、慰謝料と生活費として、合計が1,000万Gを超えない額を領主が支払うことで、正室を即日で除籍することができる。
4 領主は、臣下および行政事務官の選任、人事、罷免に関する権限を有する。
4-1 領主によって任命された臣下および行政事務官は、自身の職務の範囲を逸脱しない限り、職務の裁量が認められる。
5 領主が死去した場合は、領主の臣下の合議で次期領主の候補者を選出し、五家合議会の承認を受けて、領主に就任させる。
5-1 前項で領主に就任した者は、任意の期間、領主の臣下の助言の下に執政を行わなくてはならない。
◇親族
1 親族とは、自身を起点に、自身の6親等以内の血族かつ3親等以内の姻族とする。
2 国王の側室は、国王の配偶者と見なす。
2-1 国王の側室は、国王の正室の嫡子立候補に於いての優劣を除き、正室と同等とする。
◇教務庁
1 教務庁とは、祭事、判事、検事、保安、監視、徴税の職務を遂行する機関である。
2 全ての教会は、教務庁の管轄下に置かれる。
3 教務庁の人事は、教務庁の裁量とする。
3-1 教務庁に於ける人事は、公示を義務としない。
3-1-1 国王が人事およびその他の情報の開示を求めたときは、教務庁は国王に情報の開示をしなくてはならない。
3-2 教務庁の最高責任者は、国王の承認を受けて就任されなくてはならない。
3-3 教務庁の最高責任者の任期は、最長3年間とし、五家合議会による審議で次期の最高責任者を選出する。
4 教務庁の本庁を王都に置かなくてはならない。
5 教務庁の支庁は、各家領地の主たる市に、職務の停滞が起こらぬように人員を配置し、かつ全ての職務の部署を設置しなくてはならない。
5-1 職務の性質上、教務庁の責任者が必要と判断した場合は、分署を支庁以外の場所に設置することができる。
6 教務庁の執務は、国王および領主の臣下の執務と同等とする。
6-1 教務庁の職務に於ける判事の執務は、国王および領主の如何なる影響を受けず、執務は独立的なものでなくてはならない。
6-2 教務庁の職務に於ける検事の執務は、国王および領主ならびに臣下の権限を受けない。
7 教務庁は、国王から改善命令があった場合、速やかに改善の命令に従わなくてはならない。』
「こ、こんなにたくさん…… 板書が終わるのが夜になってしまいますわ」
「かなり抜粋した方ですが? それに、私が黒板に書いているときから筆を動かしていれば、陽が沈む前に終わるはずです」
「そ、そんな……」
「因みに、私がルナシー様のお部屋に行く前に、抜粋の半分は書き終えておりましたが。きっちりと板書してくださいね。次の授業で困るのはルナシー様ですから」
それだけ言い残して、ドミトリルは小さくなった白墨を床に投げつけて教室を後にした。
「かたじけありません、おれが話始めたから……」
「あなたのせいではありませんよ、ミロさん。それにしても、板書は骨が折れるわ……」
「骨が折れる? ルナシー様、書くと腕折れるますか?」
「いいえ、違うわ。慣用句、物の例えよ。さて、板書を始めましょう」
ルナシーは目の前の膨大な文字の海と格闘を始めた。