Function 017: [override] 視床下部: 脳内オキシトシン濃度を調整しています
どのくらい、眠っていたんだろう。
レースのカーテン越しに、柔らかい光が部屋に差し込んでいる。
太陽の光。
自然の色。
厳しい程に眩しいけれど、優しい、朝の色。
ずっと地下や、窓のない部屋の中にいたから、時間の感覚がわからなくなっている。
あそこで見た青い光は、ここにはない。
濃いベージュのカーテン、ドレープの影。
カーテンを通る光はセピアトーン。
大きな、クイーンサイズの木のベッド。
視界に明るいチークの格子窓。漆喰の壁は温かみのある、クリーム色。
フローリングは、オークかな。
全部、無垢材だ。
サイドテーブル、低めのチェスト、黒ずんだ真鍮の吊り下げ照明。
ヴィンテージ調で統一されていて、落ち着くけれど、生活感がまるでない。
こんな良い部屋に住んでいた記憶は無い。
けれどなんだか、見たことのある部屋だ。
何度も、何度も見たことがある部屋だ。
何処で、見たんだろう。
影が揺らいで、俺の視界を遮る。
曲線でかたどられた、優しいかたちの影。
人間の、女性のかたち。
なんだか、不意に懐かしい感覚がこみ上げてくる。
どうしてだか、心が暖かくなってくる。
「おはよ。」
……今何時?
「7時30分だよ。」
まだ、ねむい。
「休みの日なんだから、もうちょっと寝てていいんじゃない」
いや、今日は約束があるんだ。
ベッドを覆う掛け布団をめくって、身体を起こす。
ベッドのサイズより大きい、薄手の布団。端が床についている。
この手の布団は、どけるのに少し苦労する。
けれど、全身が包まれるからか、少し安心する。
「どんな約束?」
「……大切な約束だったはず。」
何の約束だったかな。覚えていない。
「忘れちゃうような約束なんて、きっと、大切な約束じゃないよ。なかったような、ものだよ。」
そのひとが、優しく肩に手を触れる。
甘くて、落ち着く匂いがする。
この女性は誰だ?
……ああ、俺の大切な人だった。
こんなことも忘れてしまうなんて、どうかしている。
「それもそうか。」
「絶対、そうだよ。」
彼女が、その手を使って、ベッドの反対側に寄るようジェスチャーをしている。
ジェスチャーに従って少し寄ると、少し間を置いた後、同じ布団の中に潜り込んでくる。
温かい。
その手が、掛け布団を掛け直す。
温かい。
そのまま、身体を寄せて、その手でゆっくりと、抱きしめてくれる。
温かい。落ち着く。嬉しい。
これが愛おしいという、感覚なのかな。
愛おしい。愛おしい。愛おしい。
愛おしくて、たまらない。
全身が、幸福で満たされる。
身体中に、嬉しさがこみ上げてくる。
目が、緩んでいく。
表情が、緩んでいく。
筋肉が、緩んでいく。
「このまま、しちゃう?」
「もうちょっと、このままがいいな。」
優しく抱かれるだけで、幸せだ。
それだけの方が、幸せかもしれない。
彼女の身体を優しく抱きしめ返す。
手と腕、全身。彼女と触れ合う全ての場所に温かみを感じる。幸せな感覚を感じる。
……おかしい。
この女性は、誰だ。
どうしてこんなに、どうしようもないほどの愛おしさを感じているんだろう。
今までの記憶の中に、この女性の記憶を探す。
[ NullPointerException ]
なんだ、これ。
[ NullPointerException ]
叩けば、直るかな?
[ NullPointerException ]
これは、罠だ。
【読み取り不可】、助けてくれ。
【読み取り不可】?
【読み取り不可】?
「【読み取り不可】……」
「しらず……?女の子の名前?」
少し、俺を抱いている腕の力が緩む。
「……今、一緒に仕事をしている、頼れる相棒なんだ。そういう関係じゃないよ。誤解させちゃったかな。ごめんね。」
【読み取り不可】の名前を呼んだり、考えることはできないが、形容する言葉は思い出せるし、考えることができる。
そして、この女性は、その名前を呼ぶことができる。
……何故、取り繕っているんだろう。
この女性とも、”そういう関係”であった記憶はない。
「わたしより、かわいい?」
何故だか、この女性を傷つけてはいけない気がする。
何がそうさせているのかは、わからない。
「君の方が、好きだよ。」
ありきたりだけれど、本気でそう思っているから、すぐに言葉が出てくる。
なんで、こんなに好きなんだろう。
「ウソつき。」
その声は、優しくて、甘い。
けれど、その目は俺の表情を探っている。
目を優しく細め、口角を上げて伝えてみる。
彼女の指が、服越しに脇腹をつねる。
少し、痛い。
「そのひと、会社の同僚?」
俺の命を助けてくれた、恩人なんだ。
「どこに、住んでるの?」
ネットで知り合った人だから、まだわからない。
「あやしいなあ。」
そういうのじゃ、ないよ。
「本当だよ。だって、ここに一緒にいるじゃないか。ずっと、ここに一緒にいる。」
「わたしのこと、本当に愛してる?」
「愛してる」
「じゃあ、ここから、もう出ていかないよね?」
彼女の指が、爪が、更に身体に食い込んでくる。
その痛みすら、心地良く感じられる。
「今日はずっとこうしていたい気分だ。」
「じゃあ、このまま横になっていようよ。ギュッとしててね。ずっと。」
「そうだね。こうしていよう。ずっと。」
そのまま、並んで身体を寄せ合う。
互いに見つめ合って、抱きしめ合っているだけで、幸せがとめどなく溢れてくる。
なんだか、約束なんて、どうでも良くなってきた。
今、この瞬間の幸福を楽しみたい。
こんなに、愛おしい人とずっと一緒に暮らしていけるのなら世界がどうなろうと、関係のないことだ。
『もしもーし』
誰だ。邪魔だな。
『聞こえてるー?』
黙れ。【読み取り不可】。
『楽しい時間を邪魔してごめんねー。そろそろ起きなよ。』
「うるさい。俺達の愛を邪魔するな。」
『聞こえてんじゃん。おっす。
えっと、多分知ってると思うんだけどさ。
今、ハッキングされてるよ。』
ハッキング……
ハッキングかあ……
ハッキング?
『ソーシャルエンジニアリング。
ハニートラップ……といって良いのかな?
だいぶ、雰囲気が違うけどね。
偽の記憶が埋め込まれてるよ。
あと、愛情ホルモン《オキシトシン》の放出量が弄られてる。今、相当幸せだろうね。』
「どうすればいい」
『任せとけ』
「頼んだ」
「誰と、話してるの?」
ああ、くそ。誰だか全然知らないのに、どうしてこんなに愛しいんだ。
この人のことを傷つけたくない。
「昔のことを思い出したんだ。声に出ちゃったね。」
「今は私だけを見てて」
「見てるよ。今も、これからもずっと」
『えーと、本当にごめん。この愛と、この夢は、もう終わり。今からノルアドレナリンの放出量あげるからね』
ノルアドレナリン。闘争ホルモン。
心臓の鼓動が早まり、全身の筋肉が再び緊張し始めている。
急に、冷静になる。
これが、夢であることが、はっきりしてくる。
時間の流れが、早くなる。
今は、彼女と身体を寄せ合っている場合じゃない。
大切な約束を、守らなきゃ。
腕に入れていた力を緩めると、心地よい温かさが徐々に失われていく。
彼女の目が、不満を訴えている。
「ごめん。……今、約束の内容を思い出したんだ。本当に大切な約束なんだ。」
「それって、わたしより大切なもの?」
「比べられないけれど、今、やらなきゃいけないことなのは確かだ。」
「……そっか。気をつけてね。」
「行ってくる。」
「また、帰ってくるよね?」
「……ごめんね。」
「そっか。」
それから、二人の会話はなかった。
ここからのことは、あまり、記憶にない。
服を着替えてから、部屋を出る。
ドアを開けると同時に、冷たい風が部屋に流れ込んでくる。
閉まるドアの隙間から、誰かが、泣いている声がする。
この、急にフォーカスがぼやける感じ。
詳細な内容が、わからなくなる感じ。
……ハッ!夢か!
『おかえり』
ただいま
『いい夢見れた?』
最高だった。
もう見れないと思うと、少し残念だ。
『ずっと夢の中の方が、幸せだったかもね。』
辛くても、プレイヤーを動かせる、現実のほうが、ずっと良い。
受け身でいるだけより、参加したほうがずっと楽しいから。