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ここは、何処だろう。
どうして、新幹線に乗っているんだろう。
ああ、思い出した。
白鈴さんの指示に従って、新幹線に乗った。
新横浜駅で降りて、横須賀に向かうんだったな。
すっかり忘れていた。
今は白鈴さんが、敵と戦ってくれているから、私には攻撃が及ばない。
とても、安全だ。
さて、何をしようかな。
新幹線に乗ったときは、いつも窓側に座る。
お手洗いに立つときは面倒だけれど、ここから眺める景色は、映画のようだ。
きっと、大スクリーンの劇場で公開されるような作品ではないけれど、
少しの観客しか居なくても、その少しの観客に深く感銘を与える、
インディペンデント映画だ。
やや冗長なところはあるけれど、その映像を見た人みんなで共有できる、心に刺さるコンテンツだ。
といっても、岐阜から静岡を抜けるまで起きて過ごしたことは
ほとんどないだろう。
今見ている景色は、落ち着いた地方都市の街並みだ。
少し新しめの住宅街が広がっている。
静岡を出たあたりかな。記憶にない風景だ。
でも、今回は、起きていよう。
白鈴さんに、富士山を見せてあげたい。
一緒に、富士山を見る体験がしたい。
きっと曇っていたり、よく見えなかったりで、思っていたよりも
感動しないものだろう。
それでも、その体験そのものが、楽しい経験になる。
辛くても、その経験が、支えになる。
後ろの座席から、カタカタとしたキーのタッチ音が聞こえてくる。
急ぎの仕事をやっているのかな。
少し不用心だけど、気持ちはわかる。
何処から乗ってきたのかな。
少し、ガサガサとしたビニール袋の音も聞こえてくる。
弁当殻か。何を食べたんだろう。
匂いは漂ってこない。おそらく袋の口はもう縛られている。
人が食べている弁当の匂いが好きだ。
その人が、何処から乗ってきたのか、どうしてそれを選んだのかを考えるのが、
楽しいからだ。
静岡って、どんな駅弁を売っているんだろう。
考えたこともなかったな。
家康にちなんだ、鯛にまつわる弁当とかかな。
最近なら、富士宮焼きそばとかかな。
匂いを嗅いだことがないから、あまり印象に残っていない。
美味しいんだろうか。
いつか、自分の口で味わってみたいな。
美味しくても、美味しくなくても、
そのとき、その場所で味わった体験自体が、宝物になる。
長いトンネルに入る。
退屈だが、無心になることができる。
マインドフルネスというやつか。よくわからないが。
私は、雰囲気で言葉を使っている。
白鈴さんは、今どうしているんだろう。
でも、心配はしていない。
彼女なら、絶対上手くやるはずだ。
後ろの座席からエンターキーを力強く押す打鍵音が聞こえてくる。
気持ちはわかる。やっと資料作りが終わったんだろうな。
パンタグラフ式のキーボードでこの音がするんだから、相当気持ちが入っている。
隣に居る三列シートのビジネスマンがしかめっ面をしている。
その気持ちも、わかる。
私のOSには、オフィスは付属していなさそうだから、
仕事に煩わされることが無くていい。
認識しなくても良いのが、一番楽だ。
薄暗い車内に明かりが射し込む。
一瞬、視界が真っ白になって、瞳孔が収縮する。
光が網膜に入り、視神経が信号を脳に伝達し、脳が筋肉を動かして、光量を絞る。
最初に目に映るのは、防音壁。
次に、家、電柱、陸橋。
次に、富士山。
自然に視界に入ってくる。
最初からそこに見えていたかの様に、振る舞っている。
工場とのコントラストが、日本のシンボルを際立たせている。
あれは製紙工場かな。ここには臭いが届かないから、
見た目の格好良さだけが伝わってくる。
川が見える。少し浅めだ。その奥には曲線を描く白い橋が見える。
そして、ツートンカラーで彩られた、日本のアイコンがそこに在る。
近くで見たら、もっと色鮮やかに彩色されているのかな。
今まで、こんなに晴れていたことがあっただろうか。
今まで、こんなに綺麗に見えたことがあっただろうか。
これだけはっきり見えると、流石に感動するな。
多分、初めての経験だ。
こんなに感動した覚えはない。
そうだ、早く白鈴さんにも見せてあげなきゃ。
でも、邪魔してしまったらどうしよう。
だけれど、伝えないことも出来ないな。
「白鈴さん」
『何』
白鈴さんの声は、渋い。
「今、富士山がすごく綺麗に見えるよ。」
『悪いけど、それどころじゃないの』
「ごめん」
『黙って』
『私はあなたを攻撃から守ってる最中なの』
『新横浜で降りるときに連絡して。それまでは、口を閉じておいて。』
ここまで、強く拒絶されるとは思わなかった。
確かに、空気を読んでいなかったのは、私の方だ。
それでも、やっぱり、辛いな。
誰かに、経験を伝えることが出来ないのは、本当に辛い。
人から拒絶されることは、何度経験しても、慣れないものだ。
私は、誰かと体験を共有したいんだ。
どんなに些細な事でも、本当は伝えたいんだ。
私は、いつも、感動を伝えられないんだ。
そして、いつも、拒絶されるんだ。
無言の時間が続く。
車両がレールを踏みつける音と、キーボードのタイプ音だけが、耳に入る。
無機質で周期的な音が、聴覚を紛らわせてくれる。
窓に映る景色を見る必要は、もう無くなった。
座席の案内表に目が止まる。
別に、それを見たいわけではないが、ただ眼の前にあるから、
ピントが合っている。
白鈴さんのことは、信頼できる仲間だと思っているし、それは今も変わらない。
色恋沙汰とか、そういう感情がないとは言えないけれど、
そんなことより、ただ、一緒に旅がしたかっただけなんだ。
一人旅は、もう飽きたんだ。
電光掲示板に、熱海を通過したという案内表示が流れている。
せめて、企業の広告でも流れていてくれたら、気が紛れるのに。
今はネットを見ることは出来ないし、見る気もない。
自分が勝手に傷ついているだけなのはわかるが、
これからのことを考えると、不安で押しつぶされそうだ。
白鈴さんへの悪ふざけの試みも、怒られそうだからやめておこう。
いや、待て。
私は、冷静さを失っていた。
白鈴さんは、こんなキャラだったか。
「白鈴さん」
『話しかけないで!』
「今さ、三島駅を通過したんだ。」
『そんなこと、知っている!GPSで追跡してる!』
ふふん。
「熱海って、どんなところなんだろうな。私は行ったことが無いけれど、
暇があったら、温泉でゆっくり浸かって、ゆったりと過ごしてみたいな。
きっと、すごく贅沢な経験で、日常から切り離された、
楽園みたいな体験が出来るんだろうな」
『どうでもいいのよ!そんなこと!集中させてよ!』
口調に違和感がある。
過度にアイコン化された、女性らしい言葉遣いをしているように聞こえる。
彼女は、「よ」とか「わ」といった言葉使いをしていただろうか。
彼女は、もっとぶっきらぼうで、言い捨てる感じの喋り方をしていた。
「MOA美術館にも行ってみたいな。
建物自体を見てみたいし、北斎や広重もあるんでしょ。
富士山を見た後の富嶽三十六景は、きっととても美しく見えるはず。
私は、今まで見た絵の中で、”神奈川沖浪裏”が一番好きなんだ。
あの躍動感と、色彩は、実際に刷られたものを見なきゃわからない。
熱海からは少し離れたところの情景らしいけどね。」
『あなたの感想なんてどうでもいい!絵なんてただの紙切れでしょ!
見たけりゃ画像なんて何処でも見られる!
言っとくけどあんたはただのお荷物なんだよ!黙れ!』
白鈴さんは、デジタルの知識量は私より遥かに上だが、
アナログの経験値は少なそうだ。
尾行の可能性にも気づいていなかった。私が言えたことでは無いけど。
でも、私の意見を聞いて、柔軟に考えを変えることの出来る人間だ。
こちらからの意見を封殺するような言動を取るとは考えづらい。
それに、白鈴さんは、人が体験したことを聞くとき、なんだか嬉しそうだった。
興味がない話題でも、私が経験したことを聞くとき、なんだか前のめりで楽しそうだった。
「日本最後の秘宝館もあるんだろ。ああいう昭和チックなバカバカしさを、見てみたい。」
『ふざけてるの!?それに、女性に言うようなところじゃないでしょ!ああ!またDDoS攻撃が来た!』
あいつは、人を舐めたような口をきいて、いつも斜に構えていて、常に余裕を持っている。
こちらの余裕が無くなるような言葉遣いをしないし、できるだけ平易な言葉で語りかけてくる。
それに、人の書いた黒歴史ポエムを読み上げるような悪いやつだ。
きっと秘宝館にも行きたがるし、馬鹿馬鹿しい展示品を見てゲラゲラ笑うタイプの子だ。
「ええと、新横浜で降りたら、横須賀に向かえば良かったのかな。
山の方だったかな。」
『あー!もうっ!横須賀で降りたら、塚山公園に行って!そこでまた指示を出す!
もう、いい加減にして!』
その公園のことは知らないが、山に向かう方角という記憶がある。
でも、白鈴さんが私を人目のないところに誘導するだろうか。
攻撃の危険性があったとしても、周囲に監視の目がない状況に
私の身を晒そうとするだろうか。
「わかった、わかった。塚山公園の、”あしながおじさん”に会いに行けば
良いんだろ。
[kerne1] microcode: Microcode Update Driver: *********
知ってる、知ってる。山からは自衛隊の基地は見えるのかな。興味があるな」
『黙れ!”あしながおじさん”って誰よ!そこに”ニシヤマ”って協力者が居るから、そこに行け!』
随分感情的だ。
キャラ作りに身が入りすぎて、喋らなくて良いことを、話してくれた。
もっと遊びたいところだけど、そろそろ、白鈴さんの声が聞こえてきた気がするな。
そろそろ、この会話を終えるとしよう。
「ああ、もう話は終わった。質問を返すようで悪いけど、君は一体誰なんだい。」
『は?白鈴よ!白鈴!あなたを助けた、命の恩人よ!』
「白鈴さんには、感謝しても、したりない。
それに、彼女のことは、人生で出会った人間の中でも一番気が合う
友人だと思っている。でも、」
「お前に、助けてもらった覚えはない。」
[kerne1] integrity: Revoking ***** certificate: **********
[kerne1] blacklist: Revoked ***** cert '***************************'
[kerne1] Th3R0ut3r: 恥ずかしいこと 言わないでよ
[kerne1] Th3R0ut3r: -0x7c89ae94a > "0xFEE1DEAD"
頭が痛い。
気を失っていたのかな。
ここは、何処だろう。
新横浜を過ぎた辺りかな。
建物の密度は高いけれど、あまり高い建物は見当たらない。
でも、首都圏に近づいている雰囲気がする。
よくわからないけれど、感覚だ。
聞き慣れた声がする。
『おっす』
「おっす」
『元気してた?』
「元気に見える?」
『死んでないなら、元気だよ。』
「ありがとね。白鈴さん。」
『え、何。いきなり。気持ち悪いんだけど。』
「助けてくれたんだろ。」
『あー、それか。それが、私の仕事だからね。』
「白鈴さんは、本当に格好いいな。」
『でしょ。』
「私が出会った中でも、最高にカッコ良くて、悪い人間だ。」
『それ、褒め言葉?あと、なんだかキャラが変わっちゃってるね。
設定ファイルを書き換えられたかな。』
「変かな。」
『変。”俺”って言え。あと私の事は呼び捨てにして。そっちの方が好き。』
「ええと、白鈴さ……白鈴。何か、聞き捨てならない言葉を聞いた気が
するんだけど、設定ファイルって何」
『みんな設定ファイルくらい持ってるでしょ。自分の人格のさ。』
「えっ」
えっ。
『……私はこういうときはどう行動するとか、私は何が好きで、誰が好きか。
何が嫌いで、誰が嫌いか。どういう立ち振る舞いをするか。
少なからず、誰でもそういう意識はあるでしょ』
そういうことは、あまり意識していなかったな。
「それは、言われなければ、気づかなかったかもしれない」
意識していなかったが、そういうことか。
確かに、それはあるかもな。
でも、この言葉を聞いて初めて、何かがおかしいことに気づく。
この違和感の原因は何だろう。
何か、言葉に出すのが、怖くなるものだ。
この違和感の理由は、きっと恐ろしいものだろう。
けれど、知ろうとしなければ、原因はわからないし、この思いは
解消されないままだ。
そして、きっとそれは、白鈴さ……白鈴でなければわからないことだ。
「ええと、白鈴さ……白鈴。ところでさ」
「俺の記憶って、何処から書き換えられてたんだ」
『……京都駅を抜けて、すぐ。』
「そっか」
きっと、そうなんだろうなとは思っていた。
あの眠気の理由が、腑に落ちた。
京都と名古屋の間の記憶も、関連付けられた枝ごと、
全部、切り落とされてたんだろうな。
『でも、あなたの思考回路は、ずっと同じもの。それは保証できる。
少なくとも、渉の感覚は家を出てからここに至るまで、ずっと同じもの。
だから、渉は、ずっと渉のまま。』
それを聞いて、少しホッとする。
でも、体験したはずのことが思い出せないのって、
寂しいな
「あの場所で経験したはずの記憶は、二度と戻ってこないんだな」
『あの場所、あの時間に見た景色は、絶対に戻ってこない。』
『でもさ、』
『生きてりゃ、いつでも見れるでしょ』
良いこと、言うね。
『それよりさ』
『富士山が見えたときの映像、撮ってるよ。見る?』
こいつ、無断で俺の目を盗みやがったな。
そんなもの、見るに決まってるじゃないか。