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選ばれちゃって白妃(一)

 のどかな春の昼下がり。静かな室内には、紙をめくる音だけがかすかな音を響かせていた。

 葉紫星(ようしせい)は、長椅子に身を預けながら熱心に手元の本を手繰る。結ってもいない長い黒髪がその動きに合わせてしゃらりしゃらりと揺れ、大きな瞳はせわしなく文字を追っていた。

 部屋の窓が開いているのか、悪戯に吹いた風が紫星の前髪をやわらかく撫でていく。すると、それを合図にしたかのように、ふうと小さな吐息が紫星(しせい)の桃色の唇からもれた。

 朝からずっとこうして本を読んでいたので、さすがに根を詰めすぎたかもしれない。くるりと肩をまわした紫星は、茶で唇を湿らせ、少し上を向いて目を閉じた。

 じんわりとした充足感に身をゆだねた、その時。


「紫星……、紫星はおるか……!」


 聞こえてきたのは、ばたばたとした足音と、それから扉が乱雑に開け閉めされる音。そうかと思えば大声で呼び立てられて、紫星は閉じた目をぱちりと開いた。二、三度瞬きを繰り返したのち、その大声の主が自身の父、葉子珊(ようしさん)であることに気付いてまた目を丸くする。

 吏部(りぶ)官吏(かんり)であり、仕事の虫である父の帰宅はいつも夜半過ぎだ。こんな昼日中に声を聞くことなど滅多にありはしない。

 加えて、穏やかな気性の父がこんなふうに大声をあげるところを、紫星はこれまでに見たことがなかった。


「どうしたのかしら」

「さあ」


 独り言のように呟いた声に答えたのは、部屋の隅に控えていた年端も行かぬ少年だ。名を新宇(しんう)といい、三年ほど前、道端で行き倒れていたところを紫星が拾って手元に置いている。

 磨いてみれば見てくれは悪くなく、邸の女たちにはかわいがられ、働きぶりもいいことから重宝されているらしい。

 気が利いてちょうどいいので、紫星もなにくれとなく新宇に用事を頼むようになり、今ではすっかり側付きのようになっていた。

 その新宇と顔を見合わせたところで、再度あちこちの部屋の扉を開け閉めする音、それから廊下をばたばたと走ってくる足音がする。それが部屋の前で止まったかと思うと、扉がバン、と乱雑に押し開かれた。


「紫星、ここにおったか……!」

「どうなさったの、父さま。そんなに慌てて」


 ここにおったか、もなにも、ここは紫星の私室である。いて当たり前の場所だ。

 何を言っているのか、と改めて父を見れば、彼は額に汗をかき、肩で息をしている。よほど慌てて邸に帰ってきたのだろう、服装も乱れ、きっちり結われていたはずの鬢も心なしかほつれているように見えた。

 その姿に、紫星は思わず眉を寄せる。だが、それには頓着せず、父は口をひらくとうわずった声でこう告げた。


「し、紫星……おまえに、出仕の話が……」

「出仕……?」


 はて、と紫星は首を傾げた。仮にも葉家はそこそこの家柄の貴族である。その娘の出仕といえば、皇帝に侍る妃嬪(ひひん)になるか、はたまた上級妃嬪の侍女になるか――。


(まあ、後者かしら……?)


 なにしろ、現皇帝は既に御年五十を超える。後宮に並み居る妃嬪たちのうち、四人がそれぞれ皇子を産んでおり、うち三名は既に成人の身だ。過度な色好みだという話も聞かないし、今更新しい妃嬪を求めるとは思えなかった。

 そういえば、皇帝の四人の息子のうち、最後の一人である第四皇子・天翔(てんしょう)が今年成人を迎えるはずである。その成人の儀が終わり次第、皇太子の選定が行われるのだろう。それもほぼ、皇后の産んだ第二皇子・英俊(えいしゅん)で決まりだろうというのが、世間の見立てだ。

 なれば、その妃という可能性もなくはないか、と考えてみてから、紫星はあまりの荒唐無稽さに苦笑した。さすがに葉家程度の家柄では無理だろう。更に言うなら紫星自身、そんな大役が務まるような柄ではない。

 まだ青息吐息といったていで肩で息をしている父を見上げ、紫星は問いかけた。


「それで、どなたにお仕えすればよろしいのでしょう?」

「それが……」


 ごほごほ、と咽た子珊(しさん)に、気を利かせた新宇が茶を差し出す。ほどよく冷めたそれをごくごくと飲み干した父から、紫星は辛抱強く話を聞きだした。動揺しているのか、話があちこちに飛ぶ父の話をまとめれば、現在、皇后の宮では人手が足りないために侍女を探しているのだそうだ。そうして、なるべく早くに誰か寄こして欲しい、と言われて名が挙がったのが、紫星なのだという。

 なるほど、年頃の娘でありながら日々本を友として過ごし、勉強に明け暮れる変わり者の名をほしいままにしている紫星には、もちろん結婚の予定などない。しばしお勤めをするのにちょうどいい人材と言うわけだ。


(おそらくは、英俊さまの立太子を視野に入れて、準備を始めたのでしょうね……)


 皇后の宮で人手が足りない、などということは普通ならばあるはずがない。何か普段とは違うことを始めたからだろう。そういうことなら、期間は一年か、二年か――。そう当たりをつけた紫星は、ふう、と小さくため息をついて天井を見あげた。

 どうやら、悠々自適の読書ライフとは、しばらくおさらばしなければならないようだ。




 そんなわけで、紫星は現在これからの職場となる後宮に向かうべく、迎えに来た馬車に揺られていた。白虎城の大きな城門を潜り抜け、塀に挟まれた道をゆっくりと進んでいく。

 車内にかけられた帳をそっと押し上げて周囲を見たが、十分ほど前に見たのと同じ景色が見えるだけ。それほどに、白虎城の敷地は広大なのだ。

 帳を元に戻すと、紫星は出がけに父と交わした会話を思い出して小さなため息をついた。


「いいか、紫星。くれぐれも、粗相のないようにな……!」


 父は、紫星が女だてらに勉強ばかりしていて頭でっかちなのを知っている。余計なことは言わずおとなしく周囲に合わせるよう、この一週間耳にタコができるほど言い聞かされた。


「口答えなどするんじゃないぞ」


 はあい、と紫星はその言葉に肩をすくめて返事をした。その際の不安そうな父の顔が一瞬瞼の裏に浮かんで、唇がわずかに弧を描く。


(約束は守ってもらいますからね……!)


 きちんと務める条件として、紫星は父にとある条件を突き付けた。それは、皇后にお仕えしている間、紫星の希望する本を必ず届ける、というものである。

 ぐふふ、と年頃の娘らしくない笑い声が唇からもれた時、馬車が静かに停車した。


「到着しました」

「ありがとうございます」


 昇降台を足元に置いてくれた御者に礼を言い、紫星は目の前の建物を見あげた。仮にも皇后に仕える侍女になるということで、入宮の挨拶をするのだと聞いている。ここがその場所なのだろう。

 きちんと手入れされた朱塗りの柱に、美しく組まれた格子窓、壁の白さは目に眩しく、思わず感嘆の息が唇からもれる。


「さて」


 それはそれとして。ここから先を案内してくれる女官がここで待ってくれているはずなのだが、と紫星は周囲を見回した。だが、ざわざわと人の気配はするものの、見える範囲には人影がない。首を傾げた紫星が、中の様子を窺おうと一歩足を踏み出した時、バン、と大きな音を立てて目の前の扉が開き、青年が一人飛び出してきた。

 ぶつかりそうになって、思わずよろめく。


「わ……」

「おっと」


 転びそうになった紫星の腕を、軽い調子で青年が掴んだ。転倒を免れてほっと息を吐く。顔をあげると、思ったよりも近い位置に、彼の顔があった。

 白銀の髪に、紫紺の瞳。まだどこか少年めいた面差しは、はっとするほど美しく、一瞬視線を奪われる。


(――白銀の、髪……?)


 はっと我に返った紫星は、目を見開いた。

 白虎の守護を受けるこの国で、その髪の色はまさしく皇族の証に他ならない。

 ということは、目の前の青年は皇族の男子。年の頃から言って、まず間違いなく――。


「ん、ちょうどいい……おまえでいいか」

「へっ?」


 先程から掴まれたままだった腕をぐいと引かれる。思ったよりも強いその力に抗えず、紫星はそのまま青年に引っ張られるままに歩き始めた。

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