09、散らばり続ける、ともしびの下に-01
銀色フレームの眼鏡をかけた安藤さんが、わたしの右隣りに座っていた。
伏し目がちに、挨拶をする。
「こんばんは、安藤さん」
うどん屋を出てから、化粧直しのひとつもしていなかった。しかも、きっと。いや確実に。今のわたしは酒臭い。
穴があったら入ったままで帰りたいーっ。
けれども安藤さんは、にっこりと微笑んでくれる。
「お疲れさまです、野々村さん。今まで仕事?」
「あ、いえ。ちょっと晩ごはんついでに飲んでいました。安藤さんは?」
「副業。ヒトミグループ以外の企業のシステムとかね」
「すごいですよね、安藤さんって。ヒトミのような全国展開している企業の他にも見ている会社があるなんて」
安藤さんは照れ臭そうに笑んで、眼鏡を直す。
「縛られるのが嫌いでね。勝手に好きなことだけしていたいなと」
「なるほどですねえ」
安藤さんは週のうち多くて二、三日くらいしか出勤して来ない。出勤してきた日でも、自席についている姿が珍しい人だ。
「縛られるのが嫌い、そんな言葉をサラッと言える会社員は珍しいと思いますよ」
「そうかなあ」
安藤さんは眼鏡の奥の瞳を、きらりと光らせた。
「組織に就いて力を発揮できるタイプの人間もいれば、フラフラしながら上手に気分を切り替えていくことで落ち着いていく人間もいるじゃない。そうだなあ、前者はうちんとこの東堂係長みたいな? 縁の下にいて大なり小なり、他人の世話焼きがしたい感じ」
「当たっているかもしれないですねえ」
縁の下の力持ち、か。最近ではそういうタイプ、あまり報われなさそうなんだけど。そういうところも含めて、たしかに東堂っぽいかもしれない。
「その譬え話、いいですね」
「あは、一応は野々村さんよりも年上だからね」
そっか。それもそうだね。
ついさっきまで独り勝手に涙ぐみそうだった気分が、するするとほどけていく。たまたまだけど、安藤さんと隣り合わせた御蔭だろう。
そういえば入社以来、安藤さんと打ち解けた話をしたことがない。せいぜいが出退勤時の挨拶と、ちょっと前に体調を気遣ってもらったくらい。
話をする機会もなかった、とあらためて思った。
五個年上の先輩に調子を合わせている途中、ふっとケンちゃんの面影がよぎる。わたしは、しみじみと言った。
「後者のタイプは要領がよくないと、今の時代では厳しいのかな」
安藤さんが膝をわずかに乗り出してくる。
「どうしたの。そんな『厳しさ』を感じる人が身近にいるとか?」
「はあ、まあ。約ひとり、ですけど」
答えながらわたしは、こめかみをぽりぽりと人差し指で掻いている。安藤さんが目を細めたような気がした。
「野々村さんが気にかかる人というのは、どんな感じで『厳しそう』なんだろう?」
「料理好きな若い男の子ですねー」
「へえ、料理ね」
「ええ」
安藤さんの双眸が、きらきら輝いていく。
理系らしさというか探究者らしいというか。いちど興味を持ったことは、とことん追求していくところがあるのかもしれない。
「大丈夫じゃない? 他よりも突出した特技や資格があれば。昔よりも生存競争は厳しいのかもしれないけど、生活していけるくらいなら、なんとか」
「それならよかった、わたしなりに心配していたから」
わたしが言うと、安藤さんは「そんなに、その人は頼りないの?」と問いかけてくる。
「でも、ほら。なんでも極めようと一度決めたら、どんなことでもやり遂げるじゃないですか。男の子って。しかも、そのへんにいる女の子よりも遥かにクオリティーが高くなる」
正直な気持ちを伝えた。安藤さんが、かたちのよい指で眼鏡のフレームを直す。
「野々村さんって、そういう考えの人なんだね」
「そういう考え、って?」
答えは最後まで聞けなかった。あちらが降りる駅に着いたからだ。
安藤さんが立ち上がる。ほっそりした背の高い彼は、扉の閉まる前に振り向いて笑ってくれた。
わたしは言った。
「お疲れさまでした」
「お疲れさん、またね」
「はい」
手を振って、まばたきする間に。
安藤さんは、まるで煙が消えたようにいなくなっている。
あれっ。
あの人が降りたドアの場所って、そんなに改札に近かったっけ? それに、ここって一番後ろの車両じゃなかった?
何度も目を凝らしてみたけど、降りたホームを歩く人たちの中に安藤さんの姿はどこにもなかった。




