08、病み上がりときつね、それからわたし-05
伏見稲荷かー。
男ふたりはずっと、こちらを置いてきぼりにして盛り上がっている。彼らを横目で見つつ、わたしはバッグからスマートフォンを取り出した。
検索サイトで「伏見稲荷」と入力して、ポチッとすると。いっぱい出てきましたよ、きつね進級試験会場に関することが。
日本全国のお稲荷さんの総本宮、伏見稲荷。
参詣に行ったことはないけれど名前と、京都にあることは知っている。それと日本中どころか世界中から観光客が訪れて賑わう場所……くらいしか、わからないけど。
載っている画像を、よく見えるようにスマートフォンいっぱいに広げた。いつのまにか東堂が首を突き出して、わたしの手元の画像を覗き込んでいた。
そちらに顔を向けて、何気なしに尋ねる。
「気軽に一緒に行こうって言うけど、東堂くんは行ったことあるの。ここ」
「うん」
なぜか東堂は、とてもうれしそうだ。
「この季節、すんごい寒いけどね。でも稲荷山のてっぺんまで登れば、結構な運動になる。汗だっくだくになるんだぜ」
「てっぺん?」
「そうだよ、千本鳥居をずーっと歩いていくと山の頂上に着くんだ。いい眺めなんだよね、これが」
「やだなあ」
わたしは顔をしかめてみせた。
「なんで神社なのに、汗だくにならないといけないのよ。お参りなのに」
「わかっちゃいねーな」
ちょっと乱暴な言葉遣いをしながらも、東堂のまなざしは果てしなくやさしい。
「あのね、社だけじゃないの。後ろに構えている稲荷山全体が信仰の対象なの。あそこは」
「そんなに広いの」
「そうだよ。山の麓に神社を置いていても、実際は山全体が神さまの敷地という形式を取っている神社は他にもたくさんある」
「意外と物知りなのね」
「そうでもないさ」
東堂は眉毛を下げて、こめかみをぽりぽり掻いた。
「あとね。稲荷山は、清少納言が頂上まで登って願掛けをしていたとも言われているんだよ」
「『枕草子』だったっけ」
「そうそう。平安時代の有名な女性だね」
冬はつとめて、の一節を思い出した。後世にも名前が残るほどの人が、心から手に入れたいものがあったということか。
ちらりとケンちゃんと東堂を見遣る。ふたりの中では、わたしも一緒に伏見稲荷に行くことは確定事項のようだった。
でも、ちょっと待って。ちょっとだけ考えさせて。
……もしもわたしが、京都行きを断ったとしたら。
ケンちゃんと東堂太郎が、ふたりきりで京都にお出かけするということでしょう?
どんな理由があるにせよ。ふたりで。
そしたらますます、このふたりは親密になる。わたしの知らない東堂の世界が増えてしまう。
しかもそれは、ケンちゃんとだけで共有するものだ。
想像しただけでも、悲しくなってきた。
なぜかはわからない、けれども「そこに、わたしがいない」ことを思い浮かべるだけで、心にぽっかり大きな穴が空いてしまう気がする。
それはイヤ。絶対にイヤ。
ふと気がつけば東堂とおきつね男子が、わたしの顔をじっと見つめていた。
「しょうがないなあ、もう。行くよ行きますよ、京都に。で? 京都の、どの辺り?」
片手を上げて、はすっぱな言い方をした。男ふたりは目配せをしながら、うれしそうにうなずく。
阪急大阪梅田駅の改札を通ると、すぐに神戸方面行き特急電車がやってきた。
一番後ろの車両に入る。腰を下ろしながら、ひとりでにつぶやいている。
「あいつら中学生か」
さっきからずっと頭の中に東堂とケンちゃんが、にこにこしている状景がぐるぐると回っている。
そこに入って行けない自分を想像するだけで、さみしい気持ちになりました。
「あっ」
思わず声に出ていた気づきを、咳払いでごまかす。彼らはまるで仔犬のように、愉しそうにじゃれついている。その親密な空気の中、無心に入って行けない自分。
やっぱり、わたしは。どこかで、さみしいんだ。
窓の外から、東堂のやさしい声が聴こえたような気がした。
――「茉莉ちゃんは、意地っ張り。気持ちは、わかるけどね」
なにが、わかるの。
――「甘えるのが下手なんだよね」
やめて。いくら東堂くんでも、そんなこと言わないで。
人知れず顔を伏せたわたしの右横に、誰かが座った。視界の隅に、グレーがかかった作業着のズボンが見える。
ほのかな汗の匂いがした。
寝たふりをして、このまま帰ろう。そう思って、まぶたを閉じたときだ。
つんつん、と右側から肩口をつつかれる。
しまった、変な人が横に来ている……あとで車両を変えようかな。そんな思いつきと同時。同僚男性の声がした。
「野々村さん? 今、帰り?」
あっ、と思って右側に顔を上げた。
安藤さんだ。