08、病み上がりときつね、それからわたし-03
東堂が日本酒呑みを再開していた。
あれっと思ったが、あとの祭りだ。いつのまにやら彼は、徳利を奪還していたのだ。
彼は豚バラ大根を肴に、ちびりちびりと御猪口を唇に運んでいる。こちらの咎めるような視線など、ものともしない。
「東堂くん、あしたは仕事でしょう?」
「うん。でも午後から出勤にする、午前中に病院で薬をもらってくるわ」
「こういうときにこそ、同期の忠告も聞き入れてほしいんですが。それは」
「大丈夫だよ、この徳利一本で止めるから」
キュートにウィンクされたって誤魔化されるような、わたしじゃないんですけど。
それと。病院で風邪薬を処方してもらう立場の人間が、お酒なんて飲むべきじゃないと思うのですけれど。
わたしがよっぽど複雑な表情を見せていたのか、カウンターの内側からケンちゃんがとりなす。
「茉莉さんも東堂さんが飲んでいるお酒、飲んでみますか? そんなに度数は高くないと思いますけどね」
「なんていう名前のお酒なの?」
横から東堂が口を挟む。
「『豪快』。茉莉ちゃんみたいな酒」
どういう意味だよ、ついつい乱暴な言葉が出そうになるけれど。そこはグッと我慢。
「じゃあ、それ頂戴。熱燗がいいな」
「はいはい」
すぐに目の前に白っぽいくすみのある、取っ手がついた容器が置かれた。徳利とは明らかに形状が違う。
「なあに、これ」
「ちろり。錫製だと、お酒がまろやかになって美味しくなりますよ。ぼく、レディには特別に出したいから。今日は日本橋で探したんですよー」
うきうきしたケンちゃんの口調に、東堂がうらやましそうな視線を寄越した。
「いいなあ。俺には普通の瀬戸物の徳利なのに」
「いいでしょー」
軽口を叩きながら、ちろりから御猪口に注ぐお酒はことのほか美味しい。生きてきて、よかった。
わたしをよそに東堂は手酌をしつつ、おきつね男子に尋ねていた。
「ところでさ、ケンちゃん。『鍵』だっけ、探しているって言ってたじゃない? あれから、そんなに日にちは経っていないかもだけど、見つかりそう? ご両親にも会えそう?」
「それなんですけどね、東堂さん」
ケンちゃんの耳たぶが赤く染まっていた。
「まだまだ、わからないんです」
「そっかー」
東堂は、とても残念そうな声を出した。
「俺たちの立場で出来ることがあれば、どこでも行くよ? そりゃ距離とか色々な条件にもよるけどさ」
わたしも黙って、うなずいた。おきつね男子は申し訳なさそうに、ぺこりと頭を下げる。
「ぼくが神さまの使い魔だということは、おふたりともがご存知だと思うんですけど」
「ええ」
ケンちゃんはまだまだ見習いっぽいけど、露天神社にいるきつねだ。そこで、わたしたち人々が願った事柄をすべてとりまとめて神さまのところに持っていく。
「使い魔としての技術や知識の向上のために学校に通っていることも」
「知ってるよ」
東堂が、やさしいまなざしでうなずく。
「そこでね、最近。こんなぼくでも仲良くなれた同級生もできたんです。その子たちも、いろいろと心あたりを探してくれているんです。なによりも、神さまがそれを喜んでくださっているみたい」
ケンちゃんの切れ長の瞳に、うっすらと涙が浮かんでいる。
それを見たわたしと東堂は同時に、しかもちょっと茶化すように言っていた。
「なにも泣かんでもええがなー」
あはは、とケンちゃんが破顔した。
ほろ酔い東堂が尋ねる。
「学校の、どんなところが苦手なのよ」
「はあ、まあ。いろいろ」
問われた側も東堂が相手だと、素直に感情を表せるみたいだ。耳たぶのあたり、くすぐったそうにさすった。
「同級生とか?」
「ほとんどの生徒が、どこかピリピリしているんですよね。そりゃあ自分の階級というか上になったほうが、この人間界を相手にしても権威みたいなものを示せると思う。それと、ちょっとでもですね。ちょっとでも、自分のことを神さまに優秀だと認めてもらいたいという気持ちはわかるんですけど。それに周りのみんな、頭の回転が異常に早いから早口で。ぼくみたいなぼうっとしている者は、会話についていけなくて。そういう些細なことを積み重ねがいくつもあって、学校に行くのがつらくなったかなあ。あっ、でも。最近仲良くなった子たちは、ちょっと違うんですけどね。あまり競争意識がない感じ」
「ふーん」
東堂は興味深そうに身を乗り出す。
「そっちも競争社会なんだなあ。どこも一緒だ」
「誰かを押しのけて上に行くこと、苦手なんです。両親が学校の教官だったせいもあるんですけど、息が詰まりそうになる。皆さんから集めたお賽銭だって、多い少ないを競いたくないですよ。そんなことよりも、お初天神に来て陶器市を開いている人とか、お初を横切って通勤通学していく人たちが落としていくものを拾って磨いているほうがぼくの性分に合ってます」
「落としていくもの、って」
「明確な物品じゃあないんですよ。ぽとぽとっ、と境内に落としていく『気持ち』。ごく普通に生活しているみんなの、自然な気持ち」
「へえ」
「それ、どうするのよ」
ケンちゃんが「んふっ」と口元を、わずかにゆるめる。
「ぴかぴかにしてから、そうっと。次に見かけたときに、その人に返してあげるのが好き」
東堂の瞳が曇る。
「そんなの返せないときが多いんじゃないの。せっかく、がんばって磨くんだろ? でも持ち主に返せない、それは聞いているほうがせつないよ」
「それはそれ。めぐりあわせみたいなものでしょ。ぼくだけが、磨いたものを大事に取っておけばいいんですよ」
「そんなものか」
「でも、まあ。こんな考えは邪道みたいで、なかなか周りに受け入れてもらえないんですけどね」
東堂は御猪口を唇につけながら「うーん」と、つぶやいた。
「そりゃまあ、拝みに行くこちら側から言えば。バシッと強い父性を前面に出した実力溢れるの神さまの方が、頼りがいがあるかもなんだけどなあ。言い方は良くないけどさ」
ケンちゃんは苦笑する。
「そういう使い魔に頼りたい人の方が多いなあ。ぼくは決定的に、違う路線だもんなあ」
わたしは男ふたりの会話を横に、黙々とお酒を唇に寄せる。