07、恋カラ豚バラ大根-08
六時半を過ぎると、ほとんどの社員が席を立つ。
今はもう、それぞれが溜まっている仕事を片付けるための時間だ。企業によっては週に一度、ノー残業デーというものがある。ヒトミ食品本社には、それがない。
蕾ちゃんに手伝ってもらいながら、膨大な入力要書類を片付けている。フロアには、わたしと彼女しかいない。黙々と履歴書や人事調書などのデータ入力をするのみだ。
キーボード入力のパチパチした音が、静まり返ったフロアに心地いい。
一時間ほど経ったころだろうか。蕾ちゃんが立ち上がって、こちらを見ている。
「休憩しましょうよ、十五分くらい」
「そうしよっか」
執務室を出ると、どちらから言い出すこともなく廊下の突き当りへと歩き出す。そこには自動販売機と、背の高いテーブルがある。
蕾ちゃんが尋ねてきた。
「先輩、十分間休憩のとき。ロッカールームに行きました?」
「行ったよ」
なにを聞きたいのか、丸わかりだ。わざと肩をすくめて両手のひらを天井に向けた。
「あんまり蕾ちゃんが言うから、たしかめてきた。スマートフォン」
「それで?」
蕾ちゃんの瞳が輝いて見えるのは気のせいだろうか。
「たしかに、昨日の日付で東堂くんからのショートメールはありました。でも一通だけ。今日は、まったくないです」
「それでそれで?」
「蕾ちゃんの期待してるものじゃなかったよ。わたしと東堂くんが付き合ってる、もしくは付き合いそうって思ってるんでしょ。違うからね」
「なんて書いてあったんですか」
不思議そうな表情を浮かべている後輩に、わたしは笑った。
「『風邪、引くなよ』だって」
蕾ちゃんが心底から呆れた、と言いたげになる。
「それ、何時頃の送信ですか」
「そこまで見てないよ」
蕾ちゃんは「ああん、もう」とつぶやき、ぱたぱたと地団駄を踏む。
「茉莉先輩、それって。わたしがお初天神で彼に告白したときに、目をきょろきょろさせてて。それで急に『おお、麻雀お誘いメールだ』って言ったあと、後ろを向いてコソコソっと送信したものだと思う。風邪、引くなって言った自分が風邪で欠勤なんて、意味ない」
「ほ、ほんとに告白したの。蕾ちゃんは」
「はい」
可愛い後輩は、ぽっと頬を赤らめてうつむいた。その表情の変化の一部始終が尊く感じられたのは、なぜだろう。
蕾ちゃんは、立ち止まったきり絶句しているわたしに構うことがなかった。すたすたと自販機まで行って、なにか缶飲料を選んだようだ。
ごとん、という音が廊下に響く。すぐに、プルタブを開ける音と蕾ちゃんの言葉がかぶさってくる。
痛いほどの視線を感じた。
「東堂係長のこと、どれくらい知ってるんですか。茉莉先輩は」
あっ、と声を上げそうになった。
同期だと思って、ずっと親しくしていたつもりでも。わたしは東堂くんに対して甘えてばかりで、なにも考えていなかったのだ。
「ど、どれくらいって」
「三歳上、くらいの認識でしょ」
「そ、そう」
蕾ちゃんは、うろたえるわたしを一途に見つめてくる。わたしは喉がカラカラに渇いていくのを感じた。
「と、東堂くんとわたしは東京採用で、半年後にわたしが休職して。復職したら、すぐにあっちが病気で倒れちゃって」
「茉莉先輩が休職期間中に、大変だったことは知ってる。その間に、わたしは経理から人事情報部に異動してきたんですけど、先輩が早めに復職してくるためにね。辞めちゃった斎藤さんと一緒に東堂係長は色々とがんばってたんですよ」
「そう」
わたしは自販機へと、のろのろと体を運んだ。滅多に選ばない、缶コーラを選んでいる。
自分が両親を介護したり、次々と見送っていたりしていた間、同期の東堂と斎藤くんが尽力していたなんて、今まで露ほども考えたことがなかった。
「つ、蕾ちゃんが異動してきたときって」
「茉莉先輩が休職して、すぐのころ。今年の誕生日の、前日でした」
「ああー、わたし三月生まれだから。学年が違うだけなんだね」
「わたしも早生まれなんですけど、年齢が同じになる期間が長い人を『先輩』と呼ぶのは、ちょっと抵抗ありますよ」
蕾ちゃんはそう言いながら、顔中をほころばせる。
「いいんです、わたし。どっちみち係長は茉莉先輩しか眼中にないって知ってたから」
「な、なんで?」
なんでそんなに勇気があるの?
そう言いたかったけど、声にならない。後輩女子が「あはっ」と、朗らかな声を上げた。
「人事情報部に異動してきたときから、いいなって思っていたんですよね」
「そ、そう」
「でも、おそらく係長も自覚していないと思いますよ。茉莉先輩のこと好きな気持ち」
「ファッ」
飲みかけのコーラを、思わず床にこぼしそうになる。
「こっちから見ていても。ふたりともアホかと思うくらい、にぶくって。イラッとくるんですよね。それで、つい。おとといの渡辺さんの披露宴でイヤなことあったせいもあって、勢いにまかせて告白しちゃった」
「イライラって」
そこまで言わなくても。
でも、気の利いた口答えのひとつもできる気がしない。
「東堂係長のフルネームも、忘れているんじゃないですか。茉莉先輩は」
ちょっと意地悪な言い方で、蕾ちゃんが迫ってくる。それだけは、わたしは強く言い切った。
「それくらい、知ってる。『太郎』だった」
蕾ちゃんがぷっ、と吹き出した。「だった、って。その言い方は、ないですよ」
わたしは何といっていいかわからず、ぽりぽりとこめかみを掻く。すると蕾ちゃんが、思い出したように言った。
「そう言えば! 係長が言ってたんですけど。路地の、うどんって、なんですか」
わあ、遂に。この質問が来ちゃったよ……。




