05、とりてん、でこぼこ影法師-16
この時間になると、さすがに夜風がつめたい。
スマートフォンから、まず耳に飛び込んできたのは東堂の大声だった。
「ごめんねー茉莉ちゃん! 今、会社を出たとこー」
息を切らしているような気配もする。彼のことだ、エレベーターを待っていられなくて階段を走って降りてきたのかもしれない。
「大丈夫だよ、東堂くん」
「いやぁ、待たせてしまってるから。悪くて」
「わたしのことなら、大丈夫。退屈しながら待っていたわけじゃないもの」
「ホントに?」
「うん」
北風が、わたしの頬を撫でていく。
スマートフォンの向こう側。声の主は今頃きっと、信号待ちをしているのだろう。車が行き交う音がする。
東堂が渡ってくるだろう信号のところまで、歩こうと踏み出したときだ。興梠さんと林田さんが、わたしへと声をかけてくれた。
「野々村さん、おつかれさまでした。お先に失礼します」
「れっしたー、先輩ー!」
ふたりの声に混じって。みっちゃんのふわふわした笑い声が、わたしの頭上高く聴こえたような気がした。
あれっ、と思って見上げると。林田さんが、五歳児を肩車しているではないか。
「あっ、みっちゃん!」
気をつけて……という言葉よりも先に。
「また逢おうね」
そんな風に、話しかけていた。
みっちゃんはうなずき、顔をくしゃくしゃにして手を振ってくれた。
「おいおい、あんまり動いたらあかんよ。そこらへんに転がったら、車に撥ねられてまうからね」
「うん」
「ええ子やのー、みっちゃん」
こちらから見えるのは、どことなく幸せそうな三人の背中だけになった。
左右に延びる梅田新道を走っていくヘッドライトや信号の青い光に照らされた路地裏。滲むように浮かび上がる影法師がふたつ。ほどなくして、背丈の低い影が手を振った。
「……あっ、係長! おつかれさまでした」
「おつかれさんー」
声の主は、一瞬だけ右手を上げた。
やがて、その人はわたしへと近づいてくる。
とても不思議そうな表情をしていた。
「ねえ茉莉ちゃん? あれって林田さんと興梠さんだよね? まさか」
「うん」
うなずくわたしに、東堂は整った眉毛をひくひくさせた。
「まさか、だろ?」
「その『まさか』なのよ、実は」
「ほんとに?」
東堂は「珍しいことも、あるもんだ」と言い、うどん屋の引き戸を開ける。
おきつね店主はカウンターに、あらたな徳利と御猪口をふたつ並べていた。
「東堂さん、いらっしゃい」
「おう」
店主は待ちかねていたかのように、東堂をまぶしそうに見つめている。
わたしはふたたび、カウンターへと座りなおした。すぐ横の席では同期入社の上司が、ケンちゃんに向かって顎をさする。
「今、帰った客ってさあ」
「はい」
ケンちゃんが愉しそうに目を細めた。
「ここの店の灯りが『見えた』から。だから、来てたんだよな?」
「はい」
「俺たちだけじゃ、なくなったんだね。表の提灯が、見えた人って」
「そうかも、ですねー」
「そっかぁー」
東堂の目尻に、こまかい皺がいくつか浮かぶ。わたしはカウンターへと、ちょっと身を乗り出してみた。
「ねえケンちゃん。もう一回、聞きたいんだけど」
「なんでしょう?」
ケンちゃんが返事をしながら、徳利を差し出してくる。
「どうして、あの灯りが『見える人』と『見えない人』に分かれるのよ」
「だから、内緒ですって」
んもうー。
ぱたぱたと地団駄を踏むわたしに、東堂が肩を叩く。
「まあまあ、いいじゃないの。俺たちと同じ仲間が増えたんだぜ?」
「だって、気になるーぅ」
「とりあえず呑もうよ茉莉ちゃん!」
――その週の金曜日。朝礼後のことだった。
林田さんから、自席に戻ろうとしたところを呼び止められる。
「あのう、野々村さん?」
振り向くと、とても深刻そうな顔をしていた。まるで、この世の終わりみたいだ。
「なんでしょう? 高梨さんの『要入力』スタンプがない書類は、受け取れないことになっているけど」
「いや、あの。そういうことじゃなくてね」
林田さんの表情が、どんどん暗くなっていく。
「どうしたの」
応えると同時に、執務室から引っ張り出された。
「あ、あのね? 不思議なんよ?」
「だから、なにが」
「……ないねんやんか」
「はあ?」
「あの、うどん屋」
「え」
ぼそぼそ言う後輩エンジニアの頬が、どんどん赤くなっていく。
「昨日、コロさんとみっちゃんと三人で行ってみようと思てんけど。灯りはもちろん、店舗も見えんの。探しても、なかった。もしかして潰れた?」
「んな、まさか」
だって昨日でしょ? 木曜だもの、ケンちゃんのお店は開いていたよ?
なによりも、わたしは立ち寄ってるけど。東堂くんとケンちゃんと、三人で鍋焼きうどん食べたもん。
だけど林田さんのガックリ落ち込んだ顔を見ていたら、そんな言葉も飲み込んでしまう。
「……すんごい気に入ってたのに。俺も、コロさんも」
あんまりにも悲しそうな後輩に、かける言葉がなくなるとはこのことか。なんとかして相手を励ます言葉を探し出す。
「あ、あー。いつか縁があったら、見えるんじゃないかな? よくわかんないけど」
「そうかな?」
「う、うん。きっと、また行けるよ。きっとね」
でも、わたしは。
後輩を励ますための言葉を吐きながら、ひとつの予感が生まれている。
林田さんと興梠さんの「ケンちゃんのうどん屋に行きたい」願いは、もう叶わない。
何故かは、わからないけれど。
それだけは直観してしまったような。そんな気がする。
林田さんは、しょんぼりと肩をすくめた。
「いつかまた、見つけられるようになるんかな。あの、うどん屋」
「あ、ああ……う、うん。た、たぶん」
なんと言ってあげたらいいのか。脳裏に様々な言葉が、浮かんでは消えていく。
「たぶん、て。そんな言い方を、野々村さんはするけどさ。こっちにとっては大事なことやねんからね?」
林田さんは、左眉下の傷跡をひくひくさせた。なおかつ、上目遣いに見つめてこられると結構な迫力がある。
「理解できるつもりだよ」
わたしの言葉に、後輩エンジニアは「ふうむ」とつぶやいて肩を落とす。
きっと林田さんなりに、興梠さん母子に寄り添いたいのだ。彼は興梠さんたちを、しっくり励ましたり慰めたり出来る場所が出来たことが、わたしの想像以上にうれしかったのだ。
でも「あの提灯」が見えなくなってしまった。
だから林田さんと興梠さん母子は、もう訪れることができない。
それは、いいことなのか悪いことなのかわからない。でも、林田さんたちにとっては、ケンちゃんがいなくても「よくなった」ということなのだ。
うつむいた後輩に、声をかける。
「こ、興梠さんのフォローなら。わたしが、がんばるから。だから安心して」
林田さんは顔を上げた。
「今、コロさんの話はしてへんけど?」
ちょっと怪訝そうなまなざしを向けられたが、わたしはあえて笑い飛ばした。
「いやあ、興梠さんも落ち込んでいたかなって思って。みっちゃんも、気持ちのやさしい子どもさんだから」
「うん、そうなのよ。みっちゃんが、俺以上に落ち込んでてね」
「でも林田さんのほうが、やさしいんじゃないの? 苦労している興梠さんに対して、一所懸命になっちゃうんだもん」
言われた相手が、照れたように鼻の下を指でさすった。
「ま、まあね」
――俺も親父とは死別しとったから。
そんな言葉が、聴こえたような。聴こえなかったような。
ま、どうでもいいか。
だって林田さん、わたしの顔を見て言ってないもんね。たぶん、こっちの空耳でしょう。