05、とりてん、でこぼこ影法師-15
お猪口を黙々と唇に運んでいる。ケンちゃんが時々、思い出したように言う。
「東堂さん、まだですかね」
「手伝ってあげられる仕事だったらよかったんだけど」
「いろいろと任されているみたいですもんね」
「また倒れたりしなかったら、いいんだけど」
店主と会話している背中越し。林田さんと興梠さんの話が聴こえてくる。
「母親ひとりで、両親の役割も大変やろね……」
「ええ、まあ。でも、これはこれで」
「コロさん、そこ笑うとこ違う」
「うーん。でも、ですね」
「でも?」
興梠さんが吐息まじりに、わたしの後輩に応えている。
「こんなちいさい子どもにまで、暴力とかダメでしょ」
わたしとケンちゃんは思わず顔を見合わせていた。林田さんは、ひどくあわてているみたいだ。
「す、すみませんコロさん……イヤなこと、思い出させてしまって」
「慣れちゃいました、あはは」
「『あはは』て、なあ……強いなぁ、コロさんは。今日だって朝から、ずっと。がんばってましたもん……今までも、そうしてきたんやなって思った。真摯な人やなあって、しみじみ」
「そんなこと、ないです。専門知識を持って、ひとつの会社で色々と続けている林田さんのほうが、ずっと偉い」
「それは違うよ。俺には守るべきものや、育てるべきものがない。つまり、責任がない。単なる浮き草ですわ、こんなん。何年、同じ会社に居ってもさ、それだけじゃ。なにも価値がない」
「それこそ、違いますよ。やっぱり知識や技術はたくさんあったほうがいい。わたしは皆さんのように積み重ねられた知識が全くないので、足手まといにならないように……職場を移るたびに、いつも思うんですけどね」
「でも、それは。『みっちゃんのため』やん、それでよくない? それに今のコロさん。紹介予定派遣で安定できそうな仕事に就けているわけやし」
「ええ」
「だから、これからなんよ。今からがスタート」
職場での飄々とした軽い様子とは全然違う、やさしい表情が見えるようだ。きっと林田さんなりに、興梠さんを励まそうと必死なのだ。
興梠さんは心底から、ほっとしたようだ。
「林田さん、ありがとう。今日は、いい一日になりました」
「これから仕事を覚えってたら、もっといい日が続くと思うけどね?」
ふっと気がつくと、カウンターの中が空になっている。
おきつね店主がテーブル席へと、なにかを持って行っているようだった。わたしはケンちゃんの背中を追う振りをして、あちらの様子を窺ってみる。
「あのー。もしも、よろしかったら」
ケンちゃんが、お盆から下したのは大きめの急須と、ひとつの折り詰めのようだ。
「こっちは、ほうじ茶。それと、これ。みっちゃんに、おみやげです」
林田さんと興梠さんが、店主に顔を向ける。林田さんは、わたしの視線にも気づいたようだ。かなり大袈裟に頬をゆるめて、折り詰めに指をさした。
「お兄ちゃん、なにこれ」
おきつね店主が、興梠さんの隣を見遣ったのだろう。林田さんの頭が、ケンちゃんの視線に合わせて動く。
うとうとしはじめている五歳児、みっちゃんがいる。おなかいっぱいになったからだろうか。にこにこしたままで、こくりこくりと頭を揺らしていた。
「天ぷらなんですけど。今日、がんばりすぎちゃって。冷凍もできますから、早目に食べていただいたら」
「ええの?」
「はい。みっちゃんが気に入ってくれたので、ぜひ」
「俺も気に入ったんやけどね」
「本当ですか、うれしい。待っていて、もらえますか。すぐに詰めますから」
「いやいや。次に来た時に、また頼むわ。今日は、みっちゃんの分だけ貰うとくわ。お愛想、してくれる?」
「はじめて来てくれたお客さまからは、お代は取らないんですよ」
「それは、あかんでしょ。商売なのに」
林田さんは上着のポケットから、財布を出した。既に興梠さんが出していた財布を、引っ込めさせる手振りをする。
「実年齢はコロさんよりも年下かもしれんけど、会社では先輩なんで」
「で、でも。それじゃ、ずっと林田さんに甘えっぱなしだもの」
わたしはテーブル席のふたりに口を挟んだ。
「はいはい、おふたりさん? ここ、気まぐれシェフの、おみやげ付きのうどん屋だと思ったらいいんですよ」
それを聞いた林田さんが、思いっきり眉をひそめた。
「野々村さんまで、そういうこと言うの?」
「だって、わたしも。はじめて来たときは払わなかったのよ」
……ほんとは東堂くんが出してくれていたんだけどね。
たぶんケンちゃんなりの、気遣いなのだと思う。
きっと彼の中では、興梠さん親子が引き戸を開けたときから決めていたのだ。この母と子からは、お代は取らないということを。
わたしは興梠さんに向かって、片目をつむった。彼女の唇が、なにか言いたそうなかたちを作る。だが、それよりも先に林田さんが口を開いた。
「やっぱ、あかんよ。うどんも美味かったんやしね」
ケンちゃんは観念したようだ。
「そうですかねぇ」
「ん、ちゃんと払うから」
「じゃあ、千円で」
林田さんは、ゲラゲラと笑い出した。
「ざっくりしすぎやわ、お兄ちゃん。商売下手なんか上手なんか、わからんな」
「はあ」
豪快な笑い声に、みっちゃんが目を覚ました。テーブルの上の急須を見て、隣にいる母親の腕をつつく。
「お茶が飲みたいよー」
「じゃあ、みんなでお茶を一杯ずつ飲んだら帰ろうか?」
「うん」
作業着男が、みっちゃんの髪の毛をわしゃわしゃと掻き撫でる。
「起きたかー」
みっちゃんは、きゃっきゃっと声を上げる。とても愉しそうだ。
「これ。きつねさんからの、おみやげやて」
「また、おいでね」
いつのまにやら。
おきつね店主ケンちゃんはカウンターの中に入っている。さすが、あやかし。
……御猪口を彼に向けて差し出したとき。
バッグの中のスマートフォンが鳴りはじめた。取り出すと、パネルには「東堂くん」の四文字が浮き出ている。
「ちょっと、外に出るね」
スマートフォンを片手に、外に出た。