05、とりてん、でこぼこ影法師-14
背中越しに聞こえてくるのは、興梠ジュニア・みっちゃんと林田さんの会話だった。
時々、息子の言葉足らずなところを興梠さんが補っているっぽい。
「へえ、みっちゃんって名前なん。いいもん食べてんね。そういや、俺。すっかり注文するの忘れてたわ」
興梠さんが尋ねる。
「忘れてた?」
「だってさ。腹減ってて、なんか知らんけど誘うようなオレンジの光が見えて。で、入ってみたらよ。まさか会社の人間と遭遇するとはね、全然まったく予想外やったもん。別に、おふたりさんとも誘い合わせて来ている様子でもなさそうやし」
林田さんの言葉に、ケンちゃんがあわてて声をかける。
「あっ、すみません。天ぷらうどんでも、いいですか」
作業着男が鷹揚に振り向く。
「ええよ……ってか、さ? お兄ちゃん?」
「はい」
林田さんの眉下の傷痕が、うごめいた。ケンちゃんは、ほんの少し身構えた感じがする。
「もう秋も終わりなのに、この近くに祭りでもあったっけ? お初天神とかで? その、頭に乗せてる」
「お面ですか」
おきつね店主が破顔する。そして湯飲み茶碗をお盆に載せて、テーブルへと寄って行った。
「外せへんの? みっちゃんくらいの子どもじゃあ、あるまいし」
「いろいろ事情がありまして」
林田さんはケンちゃんを見上げて「そっかあ。それやったら、しょうがないなー」と言った。
「オシャレのこだわりかと思った、それ」
「あは、まあ、そんなところです。じゃ、今から茹でますから。お待ちください」
ほっとした表情のケンちゃんが、テーブル席に背中を向ける。
「に、似合うてへんわけやないよ!」
林田さん、目を丸くして上擦った声を出す。いつも明るいテンションの後輩だと思っていたので、意外だ。
「林田さんでも、焦ったりするんですねえ」
わたしが言うと、彼は「そりゃ、そうやろ」と、ちいさくつぶやく。
「初対面の、しかも年下の子を傷つけるのは。俺の信念じゃない」
ああー、わかった。
ケンちゃんの気分を害してしまったかも、と考えてたのね。
わたしは左手を横に、ちょいちょいと振ってみせる。
「ケンちゃんなら、大丈夫。早く、うどんを出してあげなくっちゃって考えているだけだよ」
林田さんが、唇をぱかんと開ける。
「なんや。野々村さん、ここ常連か」
「ちょっとだけね」
林田さんは『参ったなあ』とでも言いたげに、顎をさする。
「久しぶりに大阪に帰って来てみてよ? えらく雰囲気よさげなところ見つけた、隠れ家みたいに使おうって思ったのに」
興梠さんが口を挟む。
「同じようなことを考えている人が、他にもいたっていうことじゃないですかね」
「せやなー」
林田さんが、母子ふたりに向き直る。わたしも、彼らに背中を向けた。東堂くんに、メールの一本でも入れたほうがいいのかなあ。
でも一体、なんて書いたらいいのだろう。早くおいでよ? うーん、違うな……。
ま、いっか。絶対に、東堂くんは。ここに来てくれるから。必ず、今夜中に逢えるから。
厨房からは、ねぎを刻む音が聴こえてくる。
リラックスしてきた後輩男の、軽い調子の声がする。
「仕事帰りに、こんなとこで時間潰してて。ご主人は、なにも言わんの」
とても気軽な、ごくごく当たり前のような言葉の響きだった。
「あ……わたしたち、ふたりしか家にいないから」
興梠さんの控えめな物言いが、わたしの耳にも届いてくる。
「え、あ? あっ、そうなの、ごめんなさい。コロさん、すみません。全然、俺、知らんくて」
「いえいえ、気にすることじゃないですよ。林田さん、顔を上げてくださいませんか」
そういえば。
今日あらためて興梠さんの履歴書を、ファイルから出すことはしていなかったけれども。職務経歴書にヒントが、いっぱいあったよね。
肉体労働か、もしくは。
働いたらすぐに給与が支払われるかたちの職種にしか、興梠さんは就いてきていなかったのだ。
「子どものために、安定した仕事に就きたい」
そうも言っていたよね。
さっきだって、そうだったよね。自分は少しだけしか食べないで、お腹を空かせたみっちゃんに、うどんもかやくごはんも分けてあげていたんだよね。
どうして、わたしは察してあげられなかったのだろう。
安定した仕事に就きたい――そう言っていた彼女のまなざしは、とてもやさしく温かいものだっただけに。
もっともっと、深いところに。興梠さん自身の強さも怯えもあると、もう少し早目に気づいてあげていたら良かった。
いつのまにか心の中で、興梠さんに詫びている。
もっとわたし、繊細に仕事を教えられるようになりますから。がんばりますから。そんな風に考えながら、御猪口を舐めている。
ほどなくして、ケンちゃんが林田さんに天ぷらうどんを運んでいた。
「お待たせしましたー」
「おおー! こりゃあ、美味そうだー!」
心底から、よろこんでいる様子がめちゃくちゃに伝わってくる。
テーブルを離れたケンちゃんが、わたしの肩をつつく。見ると、にやにやしながら、わたしの顔の前に親指だけを突き立てた拳を、ちらちらと振るではないか。
うんうん。
やっぱり、そんな風に言ってもらったら最高にうれしいよねー。わたしもケンちゃんと同じように、黙って親指を立ててみせた。
「みっちゃん、少し食べてくれへん?」
「いらない」
「なんでよ」
「さっき、お代わりしたから」
「へえ。それだったら、あかんね」
「おなかいっぱい。はちきれそう」
「あはは。みっちゃん、面白いこと言うね」
きっと興梠さんも、うれしそうに微笑んでいるのだろう。カウンター内側から酌をしてくれるケンちゃんの目を細める様子が、すべてを伝えてくれているような気がした。