05、とりてん、でこぼこ影法師-13
五歳児に、そっぽを向かれてしまった。
「ご、ごめんね、ごめんなさい。変なこと言っちゃったね」
声をかけると、おかあさんの興梠さん。わたしに視線を向けて、手では我が子の頭を撫でている。
「いいんですよ、野々村さん」
「いえ、すみません。ちっちゃい子がママを迎えに来たの大変だなって思って、それで」
「わかりますよ、その気持ち。褒めてもらって、気がゆるんじゃったのかもしれない。子どもなりに」
興梠さんが、花が咲き出すように笑いかけてくれる。みっちゃんは機嫌を直したように、わたしと興梠さんを交互に見ていた。
やがて視界が、ケンちゃんの後ろ姿に遮られる。
「できましたよー。おかあさんも、ちゃんと食べてくださいね」
みっちゃんがうれしそうに声を上げる。
「あっ! 海老もある! 二個ずつだよ、さっきよりも大きい!」
「ふたりとも、おなかいっぱい食べてくださいね」
ケンちゃんの声に興梠さんの言葉が重なる。
「すみません、本当にすみません。ただの一見客なのに、こんなに良くしてもらって」
「いいんですよ。ぼくのほうこそ、ふたり分を最初から出しておくべきでした。こちらこそ、すみません」
そう言ったケンちゃんが、わたしに振り向く。
「茉莉さん、カウンターから受け取ってもらえますか」
「はーい」
ほくほくしながら、お盆を受け取る。きつねうどんを頼んだはずなのだが、海老天と。隣に違うかたちの天ぷらが乗っていた。
「天ぷらうどんだよ、ケンちゃん。これ」
「そうですよ?」
えへへ、と若い店主が白い歯を見せた。
「天ぷらを大量に揚げすぎちゃって。海老と、鶏のムネ肉です」
「あはは。そういうことなのね。でも客にはいいけど、経営感覚がない事業主は良くないな」
「まあ、そう言わずに。どうぞ」
「はい、いただきまーす」
揚げすぎた、と言うけれど。天ぷらは隅々まで、ほかほかしている。サクサクしている衣は薄すぎず、厚すぎず。熱い出汁を吸っても、かたちが崩れる様子もない。
ふたつの天ぷらの横に、刻まれた九条ねぎがたっぷり乗せられていた。これもまた、包丁を入れてからさほど時間が経っていないようだ。つーん、と緑の豊かな香りがする。
うどん屋にいる客全員が、しばし無口になっていた。うどんを啜る音と、お茶を飲む音だけ。それが、耳に心地いい。
箸を休めて、お茶に手を伸ばす。
ケンちゃんが幸せそうな表情で、母子ふたりを見ていた。
そういえば、言っていたね。ケンちゃん自身がおさないころ、冬になると。おかあさんと一緒に、屋台のうどん屋に行っていたと。
……不意に泣きだしそうになった。そのときだ。
カラカラ、と引き戸が開けられる音がした。
東堂くん、残業おつかれさま。そう言おうとした言葉を、思いっきり引っ込める。長身の、作業着。短めに刈り込んだ頭髪と、左眉の下に傷。
その人はカウンター奥の店主に「ひとりなんだけど、行ける?」と言おうとしていたのだろう。だけど、わたしを見て、ぎょっとしたように大きく目を見開いた。
「ひとり、な……あっ! あれっ? 野々村さん? へぁ? こ、コロさんも?」
おきつね店主が、うれしそうに笑いかける。
「いらっしゃいませ! 大丈夫ですよ、入れます」
林田さんは頭を掻いて「いやあ、でも悪いから」と開けたばかりの引き戸を閉めようとする。しかし、その瞬間。
興梠さんがパッと顔を輝かせて、入口の方を見た。
「林田さん!」
呼びかけられた、と感じたのだろう。林田さんは「しゃあないなー」と、つぶやく。ケンちゃんが「どうぞ、どうぞ」と興梠さんのテーブルへと目線を投げた。
「林田さん、お疲れさまでした」
「コロさんも、お疲れー」
みっちゃんは一見すると強面の作業着男の出現に、目を白黒させている。
「もしかして、コロさんの御子息さん?」
「はい」
「へえー、可愛い。コロさんに、そっくり。訂正印みたい」
「あらやだ」
興梠さんの双眸からピンク色の星が盛大に出はじめた。
……やってらんない。
心の中で両手のひらを天井に向け、カウンターへと座りなおす。
東堂くん、早く来てよ。なにしてんのよ。あー、仕事でしたね。それじゃあ、仕方ない……。
ケンちゃんが不思議そうに尋ねてくる。
「どうしました?」
わたしは顔をケンちゃんに近づけた。できるだけ、声をひそめる。
「なんで、あの人たち。この店の提灯が見えるのよ」
ケンちゃんが「ふふっ」と口元をゆるめて、わたしから身を離す。
「内緒です」
「えー、なんで」
「茉莉さんなら。いつか、わかります。だから、今は内緒」
「なによ、それ」
わざと唇を尖らせた。するとケンちゃんは、にやにやしながら徳利を置く。
「これ奢りますから。越乃寒梅です」
買収か。
「わたし、そんな安い女じゃないもん」
「でも好きでしょ?」
上目遣いの可愛いヤツめ。
「今日は勘弁してあげましょう」
「あはは、さすが茉莉さん。話が早い」
わたしの背後、テーブル席でも。なにやら話が進んでいるようだった。