05、とりてん、でこぼこ影法師-11
午後の業務が始まった。仕事終わりにケンちゃんに会えると思うだけで、無条件にウキウキしてきます。
蕾ちゃんが要入力スタンプを押した書類を、どっさり抱えてやって来た。
「入力作業、慣れました?」
興梠さんは、ぺこりと頭を下げた。
「す、少しずつ」
「無理しないで、ゆっくりやってくださいねー」
「はい」
興梠さんが蕾ちゃんを見つめる視線は、とてもまぶしそうだ。
わたしよりも一個下の高梨蕾ちゃん、美人しかいないと名高い経理部から異動している。シミひとつない白い肌と濡れたような瞳のきれいさは、日々の努力の賜物だろう。
新人さんは蕾ちゃんの後ろ姿を眺めつつ、ため息を漏らした。
「どうしたんですか?」
尋ねると「たいしたことないんですけどね」そう言った。
「若いって、いいなあって。それだけで、きれいですよね」
「なに言ってるんですか。興梠さんだって、かなりイケてますよ」
何気なく応えると、興梠さんの頬がみるみるうちに赤く染まった。全身から動揺していることが、手に取るように伝わってくる。
「のっ野々村さん……っ! し、仕事をしましょう! 仕事です!」
「じゃあ、入力する届出書類を増やしてもいいです?」
「はいっ」
……それから。
本格的に入力をはじめた興梠さん、だいぶリラックスしながらタイピングできている様子だった。時折マニュアルを見ているくらいで、サクサク進めているようだ。
他業界の入力業務は、どうか知らないけれど。ヒトミ食品の人事情報部での入力は、タイピング速度を求めない。とにかく、間違いがないように……ということだけだ。文字のタイピングをしながら、電話応対をしなければならないということもない。
だから、きっと。真面目に出勤してきてくれたら、様々な書面を入力するときに「見るべきところ」もすぐに理解ができるだろう。
あとは派遣更新時に、長く勤務してくれるように。わたしは、そのためにがんばるだけ。
がんばっていたら、おきつね男子・ケンちゃんが癒してくれるから。それでいい。
もうすぐ終業時刻になるというころ、東堂係長が声をかけてくる。
「興梠さん? 片付けをはじめてもいいですよ」
「えっ、でも。まだ、こんなに」
新人派遣がパソコンモニタ前の、書類の山を指さした。係長はそれを見て、頬をゆるめる。
「出産届とか死亡届は、入力を急がないんだ。慣れるには、ちょうどいいんだけどね」
「そうなんですか」
興梠さんは、ホッと肩の力を抜いた。
「あとは野々村さんに任せていいよ、疲れたでしょ。今日は、ゆっくり寝てくださいね」
「ありがとうございます」
わたしは言った。
「今から片付けをして、タイムシートに係長のサインをもらったら。ちょうど定時だと思いますよ」
「はい」
いそいそと書類整理をしている興梠さんの姿が、自身のヒトミ復職当時とダブって見える。
あんな感じで、必死だったなー。
彼女が退勤してから「今日中」と、言い渡されていた書類を片付けていく。終わったころにフロアを見渡すと、東堂の他に三人ほどが残業している。
「お先に失礼します」
そう言って、執務室を出た。朝寝坊はしたものの、遅刻せずに一日を終わることができた。ちょっとだけ、あわただしかったけど。これはこれで、今からケンちゃんに話すネタになる。
腕時計は午後六時半を、少し過ぎたあたりをさしている。社屋を出た途端に、つめたい風が顔にあたった。
「熱々の、きつねうどんが食べたいな」
ケンちゃん手打ちのコシのある麺に、上品にからまる出汁の味わい。立ちのぼる湯気と共に、つうんと鼻先をくすぐる鰹と昆布の香り。麺の上に載っている油揚げにも、しっかり味付けがしてあるの。
思い出すだけで、口の中が唾液でいっぱいになる。急がなくっちゃ。
左右に行き過ぎる車が、路地の奥から伸びている橙色の灯りを遮っていた。それを見ると、なぜだか胸が一杯になる。
どんなつらいことも、あの灯りの元に行けば。癒されそうな気がするんだ。どんなに悲しい記憶があっても、あの灯りの元に行けば。安らげそうな気がするんだ。
もしかしたら、わたしは。
ケンちゃんに会うことが必然だったのかもしれない。