05、とりてん、でこぼこ影法師-06
東堂は不思議そうな表情を浮かべた。が、なにかを思いついたようだ。机からバインダークリップで止めた書類を取り出して、一直線にやって来る。
「野々村さん?」
呼びつけたはいいものの「やっぱり、なんでもないです」と今さら言えない。なので、なんとか取り繕うことにしました。
「あ、あのですね。わたしが配属されたころに頂いた『データ入力マニュアル』アレをください」
「ああ、はい。これでしょ」
「あっ、こ、これです。これ。ありがとうございます」
ほっとしたのも束の間。係長が不服そうに唇を尖らせる。
「なんだ、マニュアルがないから仕事が進んでいないかと思ったのに。まあ、いいよ。興梠さんのためだから」
彼は興梠さんを見て「頼りにならない先輩だけど、育ててあげてね」とも言った。新人は、「は、はい」と、ちいさく返事をする。
頼りにならない、だけは余計だよ。
でも言い返せない。だって、特に用もないのに係長を呼んじゃったのは自分だから。
いや、用がないというわけでもなくって。ま、いいか。
興梠さんに『データ入力マニュアル』のプリントを渡す。部署ごとに使う画面の切り替え方法などが、大きめの字とカラー使いで記されている。
「わたしが人事情報部に配置されたときに、係長から『これで仕事ができるようになるから』って、渡されたものなんです」
「ありがとうございます」
興梠さんはマニュアルを最初のページから丁寧に読み込もうとしているようだ。
「ある程度まで目を通したら、データ入力の練習をしてみませんか」
「はい」
相手が書類から顔を上げる。
「東堂係長、野々村さんと同期入社だそうですね」
「よく知ってますねー。係長から聞いたんですか?」
「さっき、林田さんから伺いました」
「林田さんから?」
「あの人は、高梨さんと同期だと言ってましたけど」
「高梨さんは、ひとつ下の後輩なんだけど。じゃあ、林田さんも後輩になるのかー。全然まったく、今まであんな後輩がいるなんて意識したことがなかったですよ」
「あんまり、ひとつところに長く留まっていなかったみたいですね、林田さんご自身の話だと。だから同期でも先輩でも、なかなか覚えてもらっていないって言ってましたよ?」
「へえ」
わたしは、まじまじと興梠さんを見つめた。
「かなり林田さんと話が弾んでたみたいですね」
相手が照れたようにうつむき、書面に視線を戻してしまう。すうっと、息を継いだ空気が伝わる。
「たぶん、わたしがひどく緊張していたから。いろいろと話しかけてくださったんだろうと思うんですよね」
「そっかあ。林田さんって気遣いのある、やさしい人なんですね。そんな人と親しく話ができて、よかったですよ」
興梠さんがマニュアルを読むのを止めた。
パッと、わたしの目を見てくる。
「はい。わたしも緊張していたところを助けていただいたので、よかったです。少しずつですけれども、がんばってみます」
「それなら、わたしもよかったです。ちょっとずつ、書面の入力をして行きましょうか」
「はい」
こちらで、ダミーの入力画面を作ってあげた。もし万が一に誤入力があっても、決して社内データベースに影響を受けることはない。
興梠さんはゆっくりとした手つきで、自分の職務経歴書の入力をはじめた。マニュアルを見ながら丁寧に仕上げようとしている姿勢が、とてもいい感じだ。
わたしは注意深く興梠さんのモニタを見ることに注力する。
データ入力業務は、書面の文字をパソコンに打ち込んでいく単純な作業だ。けれども、たやすい仕事ではないと思う。興梠さんのように採用されて間もない人のテキストは、ほとんどが空白のページだから楽だろう。
五分ほど黙って様子を見ていたが、特に気になることもない。タイピングの速度はともかくとして、一行ずつ正確に、ヒトミ食品のデータベース書式に沿って出来ているようだ。
「マニュアルを読んでも難しいところがあったら、声をかけてくださいね」
そう言って、わたしは自分の業務に取り掛かった。向こうは黙っている。
もしかして聞こえていなかったかな、と思ったときに「は、はい」と、声が聴こえた。入力作業に手一杯になっていて、こちらの言葉に反応が遅くなっていただけみたい。
一緒に仕事ができそうな人で、よかったー。
自身がヒトミ復職をしたばかりのころを思い出す。当時は東堂の顔色がとても悪かったことに、内心で驚嘆したものだ。
データ入力をしてくれていた社員が辞めてからこのかた、上層部が派遣募集をしていたのはいいものの。配属された派遣社員が二人いたらしいが、立て続けに二週間ほどで来なくなっていたらしい。東堂は言っていた。部長以上が思うほど、定着率なんて単純じゃない……そう、嘆いていたっけ。
「十一月に採用されて、即、年末調整の業務もあって。大変だったのは理解できるんだけどな。それに、独特の雰囲気があるのが人事情報部だから、嫌気が差しちゃったのかもしれない」
わたしはあのとき、なんと返事をしただろう。
「テキトーに文字入力していたら、それで済むと思っていた人たちだったんじゃないのかな」
たしか、そんな風に応えていたはずだ。
でも、今は。どんな業態業種でも。たとえ数字だけの入力作業であっても。気楽に出来る仕事なんて、ないはずだと思うんだけど……。
興梠さんが一日でも一時間でも早く、ここの職場にも業務にも慣れてくれたらいいな。
そのために育成を任されたのだから、心機一転しなくちゃ……。
そんなことを思いながら、手を動かしている。




