03、きつねたちのいたずら‐06
通称・お初天神こと露天神社。通勤するために毎日、境内には足を踏み入れている場所だ。と言っても、北門から南門へと抜ける程度でしかないけれど。
つくづく不思議な場所だと思う。元々、この神社の創建は千三百年ほども遡らねばならないらしい。
オフィスビルや飲食店が入居しているビルが混在する東梅田の一角に、ぽつんと存在している“ちょっとした静けさ”があると言った風情。白い踏み石と、同じような色合いの砂利が敷き詰められているといった印象しか、今までのわたしにはなかった。
ここ商店街からの北入口から拝殿に向かう道を、裏参道というらしい。参道に足を踏み入れ、ほんのちょっと歩くと即座に視界がひらける。
左に目を向けると拝殿がある。何人かの女性が、お賽銭を投げ入れていた。
心地いい風が吹きはじめる。
わたしは手水舎を探していた。お参りする前には、やっぱり手をきれいにしなくちゃね。
けれど今まで一年以上も、ここに通勤経路以外の用事で入ったことがないので少しも勝手がわからない。関心なく過ごすというのは、こういうことなのだろう。いつも見ている景色のはずなのに、見過ごしていたものがいくつもあったことに気がついてしまう。
神社の境内なのだから、拝殿に向かう前の祓い場所がないはずがない。こんなことも知らないのかと思って、恥ずかしくなる。
「あ、あった」
拝殿の真後ろだった。伏せられた柄杓が四つ並んでいる屋根付きの手水舎がある。
と、いうことは……南門から境内に入ると、手を洗ってから拝殿に行ける正式な手順になるということだろう。
何百回も境内に入っていたのに、注意力が全然なかったなあ。手水舎の場所さえも通り過ぎていたのだから。わたしは苦笑しながら、そこに向かった。
柄杓を手に取り、両手と口元を清める。それから、腕時計を見た。時刻は十時半を指している。
そのとき視界に飛び込んでくる、白いかたまりがあった。
「あれっ」
柄杓を伏せて置いたところ……手水鉢と言えばいいのか……大きな水槽の縁にちいさなきつねが五体、行儀よく並んでいる。女性の小指、第一関節くらいの大きさの陶器製の人形だ。よくよく見ると、先頭にいるきつねは、心なしか大きめだ。それは自分の後ろに続く四体のきつねを引率するように振り向いている。
観光地で展開している、ゆるキャラの類いなのだろう。それなら授与所でも販売しているかもしれないね。
どうせなら五体分の同じものが、ほしいなあ。
あらら。運悪く手水鉢の底に落ちている子がいるよ。
一瞬だけ、ためらったけど。手水鉢の底へと手を伸ばした。無事に救出いたしました。
やれやれ。
溺れていたきつねを、ハンカチで拭いて行列に戻してあげた。きつねの列の一番後ろに、置くことにする。
豆きつねを縦に並べると、とっても可愛い。
けど、これで本当にいいのか。これら、神社が考えたキャラクター人形だとしてだよ。風が強く吹いたら、散り散りばらばらになってしまうかもしれないじゃん。六体全部が手水鉢の中に落ちるのならば、ともかくとして。ましてや誰かに全部、盗られたりしたらどうするの。
けど、でも。
仮にも神社境内にあるものを勝手に持ち帰る発想は、さすがのわたしにもない。
そうだ。売ってもらえばいい。手水舎の後ろに御守りなどを購入できる授与所がある。
しかし見本品だとしても、あんなところにきつね人形を並べておくのはいかがなものか。それも、ゆるキャラ販売戦略なのか。
そんなことを考えながら、授与所の女性に声を掛けた。愛想のいい微笑みが、わたしからの一言で瞬時に消えた。
「あのう、あそこに置いてあるきつねの見本品をください」
いかにも現代風な美人が「はあっ!?」と大声を上げる。わたしは必死で手水舎の方向に、人差し指を向けた。
「ほら、あの。あそこに並べているでしょ、きつね。ちっちゃい人形よ、六個」
唇はマスクの下で、ぱくぱくと動くけれども。とにかく上手に言葉が出てくれない。
「なんのことですかぁ?」
そんなに疑わしい表情で、大声を出さなくてもいいと思うの。こっちだって、こんなこと言うの勇気が要るんだから。
美人さんは鼻を鳴らして言った。
「うちでは、きつねの人形なんて売ってません。だから、そんなものの見本品も当然ありませんけど?」
彼女は思いっきり眉を吊り上げて、おまけに疑わしそうなまなざしで、わたしの全身を上から下まで舐めるように見つめ続ける。
「えっ、だって。この神社が売り出している、ゆるキャラじゃないんですか。それが落ちたり、なくなったらどうするんですか。あんなところに置いているけど。それならわたしがあれを、か」
買いますと言いかけた言葉は、別嬪の鼻息と共にバッサリ斬られた。
「なに言うてるんですか? お客さんが指をさしているとこね。わたしら、なーんにも置いてません。ゆるキャラとか、そんなもんもありませんし!」
なんでそんなに、こっちのこと不審者扱いのような目で見るのよ。ムカッとなったわたしは振り向く。きつねの人形を全部、この女性の前に置いたら済むことだ。最初から、そうしておけばよかった。はい、わたしがアホでした。
ちょっぴり怒りの感情に任せて、振り向いたけど。授与所の女性が言った通りだった。
つまり。
そこに置かれているのは柄杓以外に、なにもなかったのだ。