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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

異能短編

詩紡遊戯

作者: 留龍隆


        #


 時が明治に移り変わり、この国における剣の時代は一ツの所に圧縮された。


 事実はどうあれ、少なくともクロウ・グレゴリーはそう考えていた。


 西欧列強に近代化を迫られ、国家としての在り様を大きく変えたこの時代。日本国に息づいていた侍の存在は、著名な者たちとその一派を除いてこの島に集約されている。


 島の名を、四つ葉と云う。


 賭博犯処分規則なる法により捕えられた博徒、表向きに存在を秘匿されし異能の術師、はたまた大きな罪を背に負う咎人――要は人斬りどもを、流刑に処すための島だ。


 ……まあ、現在となっては独自の文化が発展した特殊な島と化してしまい、当初の流刑地としての構図イメエジはずいぶんと薄れてしまったのだが。少なくとも経緯ルウツはこうだった、とのことである。


 ――ともあれ。


 島には、剣客がいまも跋扈している。

 草の根に這うように本土で育まれた傍流、亜流、我流。

 吹けば飛ぶような数多の流派、交雑して生まれたその場その場の戦場剣。

 これらの担い手は本土に生き場を失い、あるいは罪により居場所を失い、この島に集められていた。


 厄災を知って群れ成し逃げる鼠のごとく。

 逃げ込んだ先が生存に適しているかも問わず。

 その身をぎゅうっと狭い土地に押し込めて、窮屈そうにその日暮らし。窮屈さが限界を迎えると、腰の物を抜き振り回して少しでも己が間合いを広げんとする。


 今日クロウの前にいたのも、そうした馬鹿者のひとりだ。

 けれどひとつだけ他の連中と異なる点があったとすれば――

 この島の内でクロウに匹敵する剣腕の、かつ大馬鹿だったということだ。


「……鬱陶しくてかなわねぇぜ。手前てめえその刀に伸ばした手はなんだ、あぁ?」


 大馬鹿が、下顎の突き出したこわい面相で下からクロウを睨みあげる。散切り頭の側面を青く肌が露わになるほど反り上げた妙な髪型で、ごつごつと筋肉の隆起する身体を伏虎の画が裾に描かれた着流しで覆った身体。


 腰には兵児帯の間に刀が挟んであり、まだ鯉口に手はかかっていないもののいまにも左手が触れそうだ。


 クロウは首をすくめ、売り物である朱塗り鞘の刀に伸ばしていた手を引っ込め、彼の威圧を肩で受け流した。


「なんだ、もなにも。この僕に合う刀かどうかを手に取り、確かめんとしていただけでしょう」


 飄々と述べる彼の居る場は、二層二区・寿谷大通りに面した高級商店の一画。刀剣屋。

 この島は多重階層都市であり、六層掛けるところの六区……全三十六区画に別れる。掛け合わせた数が十八を下回れば治安もそれなりであり、刃傷沙汰も起きにくい。

 つまり二層二区はこの島でもっとも治安の約束された地域のひとつである。


 ……だが今日に限っては、並びに位置するこの刀剣屋の一画は。

 つつかれたあとの藪、または暗く見通せぬ虎穴、あるいは発破を投じたあとの鉱道。

 とでもいうべき、常ならぬ空気が流れ治安をいまにも損ないそうだった。


 掛け台に置かれていた、朱塗り鞘に納まる刀。但し書きが真実ならば、奇匠・佐々木助真の鍛えし一品。

 この真ん前で、クロウと大馬鹿――桧原真備ひのはらまきびという腐れ剣客は、ひと振りを互いに取り合うような形で一触即発となっていた。


 クロウがため息交じりに、シャツの上に纏うウエストコウトのポケットから懐中時計を取り出す。待ち合わせの刻限まであと十分ほどだ。少しだからと店に寄った愚を後悔し、けれどすぐに「なぜ自分が後悔せねばならないのか」と苛立ちを覚える。悪いのはこの男であり、自身に瑕疵はない。


 けれどこの男、桧原には理屈など通じぬ。


 わずかに彼より上背のあるクロウをねめつけながら、両手をだらりと下げた――抜き打ちに入るまであと二動作という構えで――口角に泡飛ばしながら主張する。


「そいつぁ俺様が目ぇ付けてたモンだ。手前みてぇな南蛮野郎が手ぇ出してんじゃねえよ」


「……南蛮の者ではないと、この僕は何度もお教えしているのですが。いまだ覚えるに至らないその頭蓋には、酔夢の残り香と少ない罵倒の語彙の他なにが詰まっているのです」


「んだとこの紅毛あかげ紅葉もみじ頭が。手前こそ後ァ散るだけのその頭蓋になに詰めてやがんだ? 中身うどんの玉みてぇにこぼしてやろうか?」


「品の無い……この後に食事へ向かう者の身になれば、使おうなどとは考えもつかないような語を吐き出すのはやめた方が良いでしょう」


 言の葉を並べ詩歌をつくることに精を出す彼としては、聞くに堪えない彼の罵倒を耳にするのは拷問以外の何物でもない。

 桧原の苛立ちも強そうだが、クロウの苛立ちもかなりの域に達していた。腰に提げた両刃剣へと伸びかける手を、懸命に意思で抑えている状態である。

 観の目を働かせてみれば、既に周囲では人々がこの争いに気づき、店を遠巻きにし始めていた。


〝危神〟桧原真備。

〝詩神〟呉郡黒衛くれごおりくろえ――というのはこの国での通名だが。


 ともかくもこの島において強者と数えられる己らが、向き合い刃抜かんとしているこの状況。

 周囲からすれば天災のようなものだろう。現に、店主も震えながら「せめて、せめて外でやって……」と神仏に哀願するかのように両手を合わせている。


 せっかく好みの刀剣を置いている店だったというのに、今後は来づらくなりそうだ。

 もうひとつだけため息を漏らし、クロウは気持ちを落ち着けた。

 一歩引き、まだうだうだとうるさく無駄な言葉を垂れ流していた腐れ剣客に声を掛ける。


「……やるなら表が良いでしょう。一度外に出ませんか」


「なんだぁこの野郎。ここじゃ俺の喧嘩ァ買えねえってか」


「遠間の太刀を操るあなたにこの近間でやりあって、あとから文句を言われるのは面倒この上ないからです。言い訳きかぬ場と機と利で以て全霊で来なさい。でなければこの僕の寝ざめが悪い」


「上等だクソが! 咆えヅラもかけねえようにその素っ首トばしてやっから死に晒せやぁ!!」


 簡単に挑発に乗り、商品棚を挟んだ向こうの通路をずかずかと表へ出ていく。頭が痛くなるほどの頭の悪さだった。


 クロウも彼につづいて表へ出ていく。店主が「ありがたや……」と、祈っていた対象へいまにも改宗しそうな表情をしているのを横目に、石畳で舗装された歩道から、土煙立つ道へと踏み出す。


 下層の貧民街とはちがい、自動四輪車オウトモビルが頻繁に行き交う広小路。駅前の水晶広場までまっすぐにつづくこの往来へ二名が剣気を纏って進み出ると、途端に斬り合いを察した人間たちがさぁっと引いていく。いかに治安のいい区であっても所詮は流刑島の四つ葉、住まう者たちもそれなりの危機察知能力は有しているのだ。


 一五日を過ぎて松の内も終わったが門松をしまい損ねている家が散見される中、物見遊山の人影がまばらに縁をつくる円形にできた空白地帯で、クロウと桧原は向き合う。


 彼我の距離はおよそ六間――一〇・八メートルといったところ。宣言通り、彼の操る『遠間の太刀』に合わせて間合いを開けてやったかたちだ。


「ちっ、年明け早々に嫌な奴と顔合わせて胸糞悪ぃ……こうなりゃ手前の汚ねぇ素っ首、来月節分の鰯頭の代わりに楠師処うちの軒先に飾ってやらぁ」


「蛮族……」


「だれが蛮族だ紅葉頭がッ! 枯れ落ちろ!」


 悪口雑言にほとほと呆れ果てて、吐息と共にクロウは両刃剣ロングソードを抜く。祖国より持参した数少ない品のひとつだ。


 その剣身を眺め、吸った血の数を想う。


 ……つまらない死に様、つまらない斬り合いなど、本国で上からの指示により飽きるほど見た。そんなものに興味は、ないのだ。

 クロウが見たいのはただ、霊感インスヒレションを抱かせるに足る特別な経験。この国の人間が磨き上げてきた剣の先に宿る、精神性の一端だ。


 それは、命のやり取りの中にしか閃かないもので。


(……その意味で、じつに皮肉なことだ)


 この男は大馬鹿で、口が悪く、気の向くままに生きる畜生じみた奴だが……しかし、剣の腕に関してはクロウに匹敵する。霊感の閃きを感じさせる。


 故に、殺し切れていない。

 殺され切ってもいない。

 そのようなやり取りも数年つづいている。……とはいえちょうど年明けで、気持ちの切り替えにもいい機会タイミングだろう。


 クロウは正眼に構え、左足を引いた。天から糸で吊るされたように背筋に力を通し、彼に別離を言い渡す。


「……御託はもう結構。いい加減はじめて、終わらせましょう」


「応よ。返り討ちにしてやらぁ」


 喧嘩を吹っ掛けてきたのはそちらだろう、と思いながら。

 クロウは抜き打ちの体勢で深く腰だめに構えている桧原と、はらを突き合わせた。


 さて。

 開いた間合いだが、これは桧原にとって無いに等しい。


 奴の秘剣――無尽流抜刀術・終の太刀〝無刃剣戟むじんけんげき〟。それは距離が開いていようと神速全力の抜刀の瞬間に生じる鎌鼬で遠間の相手を切り裂く、不可視の斬撃である。


 これは実体の無い斬撃であるため、対処は非常に難しい。寸分たがわず飛ぶ斬撃の在る空間・軌道へ切り込むといった動作の一致がなければ、噛み合わなかった斬撃が己を襲うこととなる。


 つまり基本は、回避一択となる。


 いかに遠き間合いへ襲いかかる飛ぶ斬撃と言えど、攻撃範囲は刃渡り分の長さしかない。見えない刀が飛んできているようなものだが、知っていれば回避できる。


(とはいえ問題なのは、それがいつ襲ってくるかわからないこと)


 六間の距離を詰めようと走れば桧原はそれを迎え撃ち、無刃剣戟を放つ。場合によってはギリギリまで引き付ける。そうなってくると回避は非常に切羽詰まった(シビア)な機を要求されてしまう。


 この選択肢の豊富さが、奴の剣の最も嫌な(優れた)ところであった。


「どした、来ねぇか……だったら〝無刃〟を、こっちからくれてやらぁっ!」


 桧原が駆け出す。さらにこちらの選択肢を狭めてくる。

 クロウは正眼に構えたままで、桧原の動きを目で追い続けた。

 無刃剣戟は神速かつ全力の抜刀。それには足を止め渾身の力を込めた振りが必要であり、必ずどこかで踏ん張りを利かせる。


 一歩、

 二歩、

 三歩、四歩、五歩。


 死線を更新しつづけながら桧原が迫る。

 そしてついに、クロウの刃圏に身を届かせそうになる。


(――――無刃は、来ないか!)


 こけ脅し(ブラフ)。飛ぶ斬撃の印象付けで機を狂わせての、普通の抜刀。

 けれど彼の流派には、その通常抜刀にもさらに技があった。


「〝天旋あまのつむじ〟ッッ!!」


 懐深くから急に出現する、天頂を指し真上に閃く刃。

 普通の抜き打ちの軌道、切り上げないし横薙ぎで来ると思わせてさらなるハッタリ。


 予期せぬ上からの奇襲の剣筋……無尽流抜刀術・かみの太刀〝天旋〟!


 頭の鉢を唐竹に割られる寸前で反応したクロウは、構えていた両刃剣を頭上に差し出すようにして切っ先を逸らした。しゃりりりり、と剣身の上を刃が鍔まで滑ると、ちぃと舌打ちしながら桧原は左手を峰にあてがい無理やり押し込もうとしてくる。


「死ねや!」


「冗談でしょうっ」


 力が拮抗しあった瞬間に膝を抜き、十字に噛み合った剣から受ける力で後方に飛んだ。

 フンと横薙ぎに右片手で振り抜かれた桧原の刀は、姿勢を戻したクロウが向き合うまでにチン、と納刀されている。

 あまりに速すぎて「意識が数瞬飛んだのではないか」と疑うほどだ。けれど桧原は、この異常な技をひたすら練度を高めるだけでものにしている。


 常は畜生そのものの挙動であり、言葉は汚く態度は軽く思いは薄く到底生きていていい人間ではないと思えるのに。

 剣に関してだけは、クロウに比肩する恐るべき使い手としてそこに在るのだ、この男は。


「ウっゼぇ。斬られとけよ、手前」


「生憎とまだまだ、やりたいことがありますので」


 ぞわりとした生の実感に、霊感の高まりを感じた。

 桧原はもちろんそんなクロウの事情など知らず、斟酌せず、ああそうかよと呻いて再びの加速。

 飢虎の重たげな踏み込みを思わせる爆発的な脚力で迫り、風を纏って抜刀。

 今度はこちらから剣を合わせた。

 眼前には先とまったく同じ剣筋が現れている。


 あえての二度目、奇襲重ね。


 再びの〝天旋〟に――同じく唐竹割りで応じる。

 一拍遅れで差し出したはずの剣は相手の剣の真芯を捉え、刀身側面のふくらみであるしのぎを削り落とす軌道で振り下ろされる。

 すると桧原の剣が弾かれ、横に逸れる。クロウの頭へまっすぐ振り下ろされたはずの剣が斜めに傾き、クロウの右肩の端をかすめるように落ちていく。


「クソがっ……!」


「〝雷切落らいきりおとし〟」


 一刀流の技である『切落し』を元に磨き上げた、唐竹・右袈裟・右薙ぎ・右切り上げ・逆風・左切り上げ・左薙ぎ・左袈裟の八つの剣筋すべてへ「後の先にて必勝する」秘剣。鎬の厚みを利して相手の剣を己の外へ払う技は、相打ちの機で己のみ生き残る剣である。


 ところが相手は慮外の存在。


 剣持つ獣、桧原真備。


 頭頂に迫ったクロウの剣を前に、左へ旋巻くように転身。

 こちらに背を向けつつ頭を下げることで死地を脱し――左手に握っていた鞘の先端『こじり』の金具を鋭く斬道へ突き出すことでクロウの一刀を防いでのけた。


「〝獄廻ごっかい逆襠さかまち〟……ッッ!!」


 無尽流抜刀術・しもの太刀〝獄廻〟。

 それは通常「鞘を刀から抜く」動作で刀の位置を変えず、後ろ回し蹴りを放つような動きで鞘の鐺を相手に叩きこむ技法だがその応用なのだろう。


 次いで桧原は後ろ蹴りでクロウを突き放す。柄で受け止めていなしたクロウが正眼で向き直ろうとしたときには、背を向けたままの低い姿勢で納刀を済ませている。


「くたばれやぁぁぁぁぁッ!!」


 歯を剥き叫ぶ桧原、こちらへ身を翻す勢いを乗せ――抜刀。

 距離の空いたクロウへ絶妙の位置から〝無刃剣戟〟の不可視の斬撃が放たれた。

 寸前で横っ飛びに回避するクロウ。背後で物見遊山の客から上がる血しぶきの音。

 クロウの足が接地・姿勢の整着を終えるまでに桧原は納刀を済ませて追いすがる。


 肉薄。

 かざされる〝天旋〟。


「三度も通じると――」


「三度目の正直だぜ?」


 かぶせるように言い、獣の牙がぎらつく。

 真上から来るとしか見えない、右の手の内。

 ところが桧原の剣筋は、クロウの読みを超えて現実に顕現する。

〝雷切落し〟を合わせようと唐竹に振った軌道の剣へ――左袈裟に、桧原の剣が入る。


「なにっ?!」


 弾かれる。

 この呼吸のずれによる半拍も無いいとまに、桧原は一歩引いた足へ力をみなぎらせる。

 納刀を済ませた桧原、踏ん張りを利かせて再度の〝無刃剣戟〟。

 中距離を潰してきたため、クロウは地を蹴り宙空へ舞う。横薙ぎに飛ぶ不可視の斬撃の上を抜け、頭上から縦回転するように斬り下ろす。

 またも、互いの剣が十字に交差。

 峰に左手を添えて防ぎ切った桧原は、類まれなる膂力りょりょくで振り回すようにクロウを後方へ放り投げた。

 地面を足裏で削りつつ着地したクロウは、正眼の軸をぶらさぬように芯を保つ。抜き打ちの構えを取る桧原へ突進して、一歩の間に思考を巡らす。


 ……奴の右の手の内は確実に唐竹割りの軌道だった。

 なれば、工夫は左手にある。

 接近し、目を働かせて観察し――――


〝雷切落し〟に至ろうとした剣を止めた。


 互いに、居付く。

 紙一重。

 相打ちに陥る剣筋が視え、故に二者は凍り付いていた。

 歯噛みしながら、桧原は抜き打ちの姿勢で止まっていた。

 クロウも、切っ先越しに相手の顔を見やる正眼のままで止まっている。


「……こっちの工夫、たった一手で読むんじゃねぇよ紅葉頭が」


 嫌そうに吐き捨てて、桧原は立てていた『左の親指』を戻した。

 鯉口を切ってのち、鞘の縁に位置しているその指。これを用いて、先の不可思議な軌道変化は為されていたのだ。

 真上から振り抜く軌道で抜きはじめ、切っ先が抜けきる――その瞬間を狙い、切っ先の側面を親指の腹でわずかに押し弾く(・・・・)

 これにより軌道は唐竹割りからわずかに外へ傾いて、先のような左袈裟からの斬撃となるのだ。弾く力を強めれば、横薙ぎへの変化も可能なのだろう。

 この斬道を見切ったがため、クロウは〝雷切落し〟を止めて軌道変化に応じようと構えを変えた。するとこの際の刃圏の重なり合いが、互いの動作を押し留めてしまったのだ。


 ここからの相打ちを除いた動きは、互いにもう読み切れない。あまりに詰まり過ぎた間は、なにをするにも不自由を約束する。

 この先は、もはや周囲で起こる何事かに意識が逸れるといった外的な要因が無い限り閉じた未来だ。

 そのまま、

 数瞬が過ぎ――


「なにをしている〝詩神〟」


 二人の間を鋭く風切る水の鞭が打ち薙ぎ、踏みしめ固められたはずの地面に抉りこそぐ一線を引いた。

 時が来ていたことを悟り、クロウは剣を納める。邪魔が入ったことを察した桧原も、舌打ちひとつで鯉口から手を離した。


 見れば、通りの向こうに恰幅の良い男が立ち尽くしている。

 はち切れそうな黒のスリーピースに身を押し込めて、禿頭に悔恨と苦渋を表すような皺を刻んだ人物だ。その太い指先にはぼろぼろといま正に崩れる途中の符札が握られており、足下には小さな池を思わせる水面が静かに波紋も無く広がる。

 水面の内側に、黒く太く巨きなヒレがのぞいた。


勇叉魚神いさながみ〟――その男、九十九美加登が用いる、式神の符術である。


「刻限は来ているぞ。本日は今度の百貨店事業について商談に向かうと言っておいただろう。その小競り合いがいつものことだとはわかっておるが、今日くらいは控えろ」


「……御意」


 自身属する〝赤火〟葉閥の上役に呼ばれ、仕方なく場をあとにする。

 背後ではけちがついたと言いたげな顔で、〝緑風〟所属の桧原が懐に手を入れ腹を掻いていた。


 その、鯉口。

 そこには先の技の修練の痕跡がある。


 押し弾く、指の摩擦によるものだろう。漆が剥げ落ちている一部があり、彼が何の気なしにではなく全霊で以て修得した技だということが理解できた。

 軌道変化の剣……雷切落しからすると天敵となる剣を、だ。

 だから去り際、問おうとした。技の名くらいは、聞いておこうかと思ったのだ。

 けれどそのときには既に桧原も歩き出していたため、聞けず。

 職務上仕方なく九十九についていき、それきりであった。


        #


 ……技の名は、いまも知れぬまま。


 たたん、たたん、と車体が揺れるたびに、しゃんしゃんと頭上で装飾硝子灯シヤンデリアが揺れる店内――《幻影列車》のカウンタで酒をあおっていたクロウは、まどろみから戻ってきた。


 ずいぶん懐かしい夢を見ていた、と思った。自身が一番剣に傾いていた時期の、夢だった。

 けれどその感慨は、後ろの席に腰かけたなんだかとてもやかましい客の声に、あっという間にかき消される。

 うるさく思ってむすっとしながら振り向くと、そこには緑風を仕切る〝仕立屋〟の部下であるアンテイクの面々がいた。


 緑風。

 桧原の、属した場。


「……あまり騒がれると不愉快千万。どうか心静かに料理を待ってはいかがでしょう」


 そう声をかけてから、彼らと二、三言葉を交わし。

 いつまで経っても静かにならない連中だと思いながらも、彼は少しずつ筆を走らせた。

 まどろみの内で見た光景から、思い出したことを。

 懐中筆で羊皮紙へ書きつけ、整えていく。

 あの瞬間の霊感を。

 高まったはずの、情感を。

 詩歌として吐き出して、それで、色々な整理がついた。

 羊皮紙を、丸める。


「……二代目の少女よ。緑風に人は多くあるため誰に渡すか迷ったが、書き上げたこれをきみに託す」


「え、うち?」


「きみにしか頼めないとこの僕は判断しました」


 そうして肚の内に、今後の己の生を決め込んで。


「先代危神の墓前に手向けを。お願いします」


〝詩神〟呉郡黒衛の最期への旅路が、はじまったのだった。





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