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巡礼者御一考、休憩なう。苦労を好むドM集団とはいえ、体力の枯渇は避けられない。
あれから隣町の掲示板を覗きに行ったところ、都合よく『ゆる募・巡礼』という張り紙を発見したので、ありがたく乗っからせてもらったという運びであった。
現在僕らが腰を落ち着けているのは、山道の途中にある小さな川沿いの開けた場所。青々とした芝生が広がり、所々には手ごろな大きさの岩が転がっている。
各々自由に腰かけたり背を預けたり、再び歩き出せるよう体力を蓄えているところだった。
川が近いおかげで吹く風は清涼な空気を孕み、身体を休めるにはもってこいの場である。
毎日の農作業でそれなりに体力は付いているとはいえ、慣れない道を延々と歩き続けるのは想像以上に疲労がたまる。僕よりも体力的に劣るソフィの疲れはそれ以上のようで、ぐったりと項垂れて僕の横に座り込んでいた。
「ソフィ、大丈夫? ほら、水飲んで」
「うん、ありがとうお兄ちゃん‥‥」
力ない笑顔で水の入った革袋を受け取ると、こくこくと喉を鳴らして中身を小さな口の中に流し込む。わずかに溢れ出した一筋の水が口の端から流れ出し、僕はその一滴を舐めただけで心の渇きの全てが癒されそうだと、思わず凝視する。
ソフィの疲労は確かに心配だが、同様に水筒の中身も心配だった。この調子で飲んでいれば遠からず中身が尽き、渇きに苦しむことになるだろう。
とはいえ今のソフィの状態を見ていると飲むのを控えろだなんて言えるわけがなく、そこにある川の水は泥で濁っていて飲料水にはあまりにも適さない。
もちろん巡礼地までの道程で別の町にも立ち寄るし、水や食料の補給は可能だ。だがそれでもやはり、この消費ペースだと無理がある。
幸いというべきかソフィが幼いこともあり、他の巡礼者に分けてもらうことも不可能ではないだろうが、何度も頼むわけにもいかない。
神様に会いに行こうと苦行に勤しんでるんだから、ちょっとは救いの手を差し伸べてよ神様、なんて愚痴をこぼしながら、ソフィを見つめる。
‥‥‥‥神様、か。
「あの、さ、ソフィ‥‥」
思いついた内容が内容だけに、若干歯切れが悪くなる。ソフィは濃く疲れを滲ませたまま、不思議そうに首を傾げた。
「ソフィって、神様、なんだよね‥‥?」
ソフィはしばらく無反応にぱちぱちと瞬きを繰り返し、やがて「あー」と気の抜けた声を上げた。
「うーん、まあ、某変態オヤジ氏の証言によると、そうらしいです」
おー、なんとも信憑性に欠ける証言だ。しかし、どうやら本当なのだから困ったものだ。
「えーと、それがどうかしたの?」
神様だからどうかしたの?って、なかなか大それた発言だ。まあ確かに、ソフィが神様だろうが悪魔だろうが世界一可愛いって事実は揺るがないけどね。
しかし今は、気にすべき点は別にあるのだった。
「ソフィが本当に神様なんだったらさ、――〝奇跡〟とか、起こせないのかな?」
ソフィは再びぱちぱちと瞬きを繰り返し、「あー」とやはり気の抜けた声を漏らした。
「出来る、かも‥‥? そうやって言われると、わたしもしかしたら、すでに何度か奇跡やっちゃってるかもしれない。村の作物が急に元気になったのとか、奇跡っぽいよね」
なんだか、ソフィが言うと〝奇跡〟という神々しいはずの言葉がひどくお手軽に感じられる。実際、どれくらい手軽なものなんだろうか。
「もし本当に出来るならさ、試しに、この川の水を飲めるくらい綺麗にって、出来ないかな?」
僕の言葉を受け、ソフィは手元の革袋をちゃぷりと揺らす。疲労で気が回っていなかったようだが、ようやく自分たちの置かれた状況の危うさに気付いたらしい。
「うん、分かった。ホントに出来るか分かんないけど、試してみるね」
健気に頷くソフィ(可愛い)は、残りの水を僕の革袋の中に移し替え、自分の革袋の中身を空にする。
――なんたる僥倖! ソフィの飲みさしの水が入れられたことにより、この水にはわずかであれソフィ味が加えられたのだ。味気ない道中に、思考が止まるほどの至高の嗜好品が加えられてしまったではないか!
はやる気持ちを抑え切れず、若干手を震わせながら早速少しだけ口に含んでみる。――ああっ、美味しい、美味しいっ! ほんのわずかとはいえソフィの温かみと柔らかみと優しみと可愛みが練り込まれ、水とは思えない至上の甘みが口全体に広がるようだ。貴族が飲む葡萄酒に憧れたこともあったが、こんな美味い水を口にしてしまえばそんな憧れなんて山脈の向こうに吹っ飛んで深い渓谷の底に転がり落ちてしまった! ソフィ美味しいよソフィ。もう我慢なんて出来ないよ直接味わいたい!
ギラギラと欲望に血走った瞳をソフィに向けると、川から濁った水を汲んできたソフィがじっとこちらを見つめていた。
ソフィは僕の手の革袋と僕の様子を見て、おおよその状況を察してしまったらしい。
ソフィはでへーと嬉しそうに笑って、そっと耳元に口を寄せた。
「あとでわたしにもお兄ちゃん味の水飲ませてね」
そうです僕らは気の合う仲良し兄弟。
「でも、奇跡って言っても何すればいいのかな」
眼前に袋を掲げて揺らしながらソフィが唸る。まあ確かに、簡単に奇跡とか言われても困るだろう。かなり無茶振りをしている自覚はある。
しかし神とは奇跡を起こす者であり、実際にソフィはそれらしきことを引き起こしたことがあるのだ。荒唐無稽な話ではないはずだ。
「とりあえず祈ってみる、とか?」
「えー、誰に祈るの? 神様はわたしなのに」
「成人の儀の時は、どうやった?」
「あ、それかも! 祈りじゃなくて、お願いする感じだと思う!」
ソフィは明るい表情でポンと手を打って、膝に乗せた革袋に向かって手を組み瞳を閉じる。格好としては祈りを捧げる時と大差ないが、願う相手が神か水かという違いがあるのだろうか。
「水よ‥‥私とお兄ちゃんに永遠の愛を与えて!」
「あっなんか違う。合ってるけど今は違う」
「はっ、ごめんなさい。奇跡を起こせるかもと思ったら欲望がダダ漏れに」
「そんなの祈らなくたって、すでに叶ってる願いだと思わない?」
「お兄ちゃん永遠に愛してる‥‥」
「僕も」
ソフィはもう一度仕切り直し、水に向かって願いを捧げる。
「水よ、お願い、私たちの渇きを癒して‥‥」
途端、革袋が眩い虹色の光を放ち一筋の光が天に向かって勢いよく噴出ゥ! 上空の雲に巨大な穴を穿ちぽっかりと開いた天空の環から幾筋もの黄金の光が降り注ぐ――ッ!
とかそんな感じの効果的な演出は得られなかったが、柔らかな風が静かに僕らを包んだかと思うと、動かしてもいない革袋の中身がちゃぷりと揺れる音がした。それは泥水の重く濁った音ではなく、涼しさを感じさせる清涼な音色。
僕らは顔を見合わせて、ゆっくりと革袋の口を開く。
その中には川と同じ黄土色の水――ではなく、陽光を照り返す透明な水が入れられていた。
僕らは再び顔を見合せ、おおぉ!と瞳を輝かせて感嘆の息を漏らした。
念のため、毒見役として僕が先にひと口だけ水を喉に通してみる。喉を潤すその水は確かに、砂利や泥臭さの含まれていない綺麗な水だった。
「おお、スゴい‥‥わたし、神様みたいだね‥‥!」
「僕にとってはずっと前から女神だけどね」
ソフィはじっと清涼な水の入った革袋を見つめ、なぜか次第に息が荒くなり始めた。
頬を紅潮させて瞳は不思議な色を孕んでぐるぐると不安定に回り、ハァハァと熱い吐息が漏れる。
「こ、これなら私、なんでも好きなことできるんじゃ‥‥!」
わきわきと指を開閉させつつ、ソフィが僕の手ごと奇跡の水の革袋を掴む。
「み、水よ‥‥! 私にお兄ちゃんの赤ちゃんを授けて‥‥!」
「えっ、ちょっと待ってなんで水にお願いするの。無色透明の液体に何を期待してるのさ」
「そ、そうだね‥‥。じゃあ、天よ、私にお兄ちゃんの赤ちゃんを‥‥!」
「待って待って、だからなんで他力本願? そんなの祈られても水も天も知らねーよって言いたくなるだけだよ?」
「あわわ、なんてこと‥‥じゃあ一体誰に祈れば‥‥」
「ほら、目の前を見てごらん。すっごく頼りになる誰かがいるんじゃないかなー」
「えへ、でへへ‥‥兄よ、わたしに赤ちゃんを‥‥」
「ヨロコンデー!」
などというやり取りがあったことはさておき、こうして僕らは、携帯の必要がない豊富な飲み水を確保できたというワケである。
当然ながら、このことは他の巡礼者にバレないようにしなければならなかった。なんてったってココにいるのは僕らのようなエセ信者ではなく、疑うこともせず本気で涙と鼻水を垂らしながら神にお祈りが出来るようなガチ信者である。ソフィが半分でも神だとバレてしまえば、この場で盛大なお祭りが開催され即席の神輿が出来上がり生贄志願者が川にダイブすること請け合いだ。
僕らは今、期限付きの悪意から逃亡を図っている真っ最中。こんなところで騒ぎを起こして時間を浪費するわけにはいかない。
僕らはひっそりと、普段通りの単なる仲良し兄妹を装って巡礼を続けることにした。
にもかかわらず、時折奇異な目で見られてしまうのはなぜか、僕らには分からなかった。