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1-5


 ――神。


 ここに来てようやく、その言葉が目の前の男の存在と重なった。

 この男は、神。僕らの知る神々の主神たる、ゼウス。

 妄言じゃない。ハッタリじゃない。


 この男は――神だ。


 僕はへたり込んだまま動くこともできず、ゼウスは槍を突きつけたままソフィに厳しい視線を向けた。


「ソフィ、という名を貰ったのだな。いいだろう、ソフィ。来い、我と共に帰るのだ」

「わたしがあなたについて行ったら、お兄ちゃんはどうなりますか?」


 ソフィは臆することなく、ゼウスの視線を真っ向から受け止める。

 ソフィの眼に浮かぶ感情は――怒りだ。蹂躙される僕を視界に収めながら、ぎゅっと拳を握りしめてゼウスを睨み返している。


 ソフィが僕のために怒ってくれるのは、正直すごく嬉しい。けど、ゼウスがソフィに手を出さないか心配でならなかった。もしソフィに危害が及ぶようなことがあれば、恐らく僕は正気ではいられない。

 そんな僕の内心の焦りに構うことなく、ゼウスは尊大にソフィを見下ろす。


「コレは人の子だ。我々と共に生きることはできん」

「じゃあ行きません。お兄ちゃんと離れ離れとか無理です。そんなことになったら寂しすぎてどっちにしても遠からず死にます」

「だがお前は神だ。正確には半分だけだがな。神が人間と共に暮らすなど不可能だ」

「そんなことありません。わたしは今日までお兄ちゃんと暮らしてきましたし、むしろお兄ちゃんと離れて暮らすほうが不可能です。遠からず死にます」

「今日までは、だろう。だが必ずどこかで歪みが出る」

「歪みません。わたしのお兄ちゃんへの想いは曲がり道なしの一直線です。むしろお兄ちゃんと離れた方が全力で歪んで遠からず死にます」


 ソフィは敵意を隠す気もなくゼウスに反論を繰り返す。すごく可愛いが、今はそれ以上に不安が勝る。

 だがソフィがこれだけ反抗的な態度を見せても、ゼウスが怒りに力を振るう様子はない。それは家族だからなのか、神と人の扱いの違いなのか、はたまた両方か。


「聞き分けのない娘だな。親の言うことが聞けぬというなら、無理矢理にでも連れて帰るぞ」

「‥‥! ちょっと、待ってくださいよ!」


 ゼウスがソフィに向かって足を踏み出し、あまりにも勝手な言葉に僕は、文字通り目と鼻の先の刃に慄きながらも思わず腰を浮かせる。


「黙れ、これは我らの話だ」


 ゼウスは取り付く島もなく、こちらに一瞥もくれることなく冷たく突き放す。

 その態度に、立場も状況も忘れてしまうほど、一気に頭に血が昇った。


「ふざけんな! ソフィは僕の妹だ!」


 自然、口調は荒くなり――視界が暗転し、鼻先から槍の刃が消えたと思ったら、視界いっぱいに床が広がっていた。


 遅れて、頬に凄まじい鈍痛が奔る。顔を上げ、床に倒れていることを把握してから、槍の柄で殴られたのだと気づいた。


「口のきき方に気を付けろ。斬り殺さなかったのは寛大な我の慈悲だ。有難く思え」


 脳ミソが揺れ、頭蓋骨を直接握り潰されるような痛みに五感が半ば言うことを聞かず、ソフィの悲痛な叫び声もどこか遠くから響いているように感じられる。


 吐き気を堪えながら、這いつくばったままどうにか視線だけ上げると、ゼウスはもはや僕のことなんて意識にさえ入れていないようだった。


 なんだよ、これ。


 僕は何か間違ったことを言ってるだろうか。ごく当たり前の権利を主張しているだけじゃないのか。なのに、どうしてこんな目に遭っているんだ。


 神は居た。だけど世界は理不尽なままだった。

 僕の認識は間違っていたけど、僕の知る世界は間違っていない。


 ――ああ、そうか。


 僕は目の前の、僕の世界を壊す根源たる神を見ながら気づいてしまった。

 今日まで色々な世の在り方を見てきて、神はいないと確信していた。だけどそれはあくまで、〝神は高潔で公正である〟という前提があってこその結論だった。


 ――神が居ないから、世界が理不尽なのではない。

 ――神が理不尽だから、世界も理不尽なんだ。


 ものすごく単純な理屈だった。それでも真実にたどり着けなかったのは仕方がない。そもそも前提条件が間違っていたのだから。

 美しい翡翠色の瞳を眇めたまま動かないソフィに、ゼウスは焦れたようなため息を吐く。


「あまり親を困らせるものではない。人の子のことなど放っておけば良い」

「あなたはわたしの親じゃないです。わたしのお父さんとお母さんは、この家の2人です」


 ソフィは強気の態度を崩すことなく、ゼウスを睨み続ける。

 しばし、場に沈黙が落ちた。互いに無言を保ったまま、剣呑な睨み合いが続く。

 そんな中、突如ゼウスはピクリと何かに反応を示したかと思うと、虚空を見つめた。


「‥‥マズいな、邪魔が入りそうだ。ソフィ、早くしなさい」


 途端、ぞくりと部屋の温度が急激に下がったような気がした。冬の冷え込みのような肌寒さではなく、足元から這い上がって全身を絡めとるような冷気。

 それを感じたのは僕だけではないようで、ソフィも不安げに身を震わせて僕に視線を送っている。


 それが関係しているのか、先程まで不遜かつ尊大な態度を崩さなかったゼウスがわずかな焦りを浮かべている。だがそれが何か理解できない以上、反撃の糸口となりそうにはない。


「神は神らしく生きればいい。悩む必要はない。さあ、こっちへ来るんだ」

「‥‥わ、わたしは絶対に行きません。お兄ちゃんと一緒にいられないなら、死んだ方がずっとマシです」


 ゼウスは忌まわしげに舌打ちをし、苛立たしげに爪先で床を叩き、重いため息を吐いた。やはりソフィに手を上げるつもりはないようで、それだけが唯一の救いだった。


「‥‥もういい、今日のところは帰ってやる。だが、再びお前を迎えにくるぞ、ソフィ。90日後だ。その日には必ずお前を連れ帰る、覚悟しておくんだな。人の子、貴様もな」


 やがてゼウスは一方的にそう言って踵を返すと、ガチャリと玄関の扉を開け、歩き去りながらその途中でフッと溶けるように姿を消した。それと同時、先程まで感じていた寒気は嘘のように消え去り、いつも通りの土と作物の香りを孕んだ風が開いた玄関から吹き込んだ。

 その様を見届けてから、僕はギリっと歯を食いしばって感情のままに拳を床に叩きつける。


「ちくしょう‥‥!」


 溢れる感情で小さく震える僕を気遣って、ソフィがそっと背中に手を添えてくれた。


「どうして‥‥どうして――わざわざドアを開けてから消えたんだ‥‥! ドア開けっぱなしで帰りやがって、ちゃんと閉めていけよ!」


 僕の正当すぎる抗議に、ソフィはハッとして口元を手で覆い、「わたしも思った‥‥!」と思考が重なったことに少し嬉しそうだった。そうだね、僕も嬉しい。


 悔しくともうずくまったままでいるわけにもいかず、僕は気力を振り絞って立ち上がり、ひとまず玄関の扉を閉める。


 途端に、室内を静寂が包み込んだ。僕もソフィも何を言うことも出来ず、僕は玄関を閉めたままの姿勢でじっと扉を見つけていた。


「‥‥お兄ちゃん」


 背中にソフィの声がかかり、ようやく後ろを振り向いた。そこにいたのは、不安そうに僕を見つめるソフィ。

 小さな指が、きゅっと僕の服の裾をつまむ。


 僕は、なんて情けない兄なんだろう。こうして目の前にいながら、ソフィに不安な思いをさせてしまっている。本当なら、僕が側にいるから心配なんてしなくても大丈夫って言ってあげたいのに。


 ――僕は、無力だ。


 ソフィの小さな体を、そっと抱きしめる。すぐに、温かな手の平が背中に添えられるのを感じた。


「ソフィは、僕の妹だ。相手が神だろうがなんだろうが、絶対にソフィを渡したくなんてない」


 敬虔な信徒だった僕が神の存在を疑い、それでも今こうして生きてこられたのはソフィのおかげだ。神という、唯一の心の拠り所であったはずのものを失って、もしソフィがいなかったら僕はどこかで生きる気力を失っていたかもしれない。


 それが決して大袈裟ではないほど、幼い頃の僕にとって神という存在は絶対的だった。

 だから、今の僕にとってはソフィこそが神なのだ。本当に神の血を継いでいるとか、そんなことは関係ない。僕の生きる理由であり、安心を与えてくれる存在。


 それが僕にとっての――〝神〟だ。


「わたしが今ここにいるのは、全部お兄ちゃんのおかげだよ。だからわたしは、全部全部、お兄ちゃんのためのわたしで在りたいの」


 ぎゅっと、背に回されたソフィの手に力がこもるのを感じる。

 僕は無力、だけど、ソフィのことが大好きだ。だからソフィを守りたい。だけど――。


「けど、どうしたらいいんだろう‥‥。‥‥ソフィ、苦しい生活になるかもしれないけど、僕と一緒にどこかに逃げる?」


 理想ではなく現実として、神に対抗する手段など果たして存在するのだろうか。天災や恐怖の比喩としての神ではなく、実際にその力を目の当たりにして、僕はすっかり戦意喪失の状態に陥っていた。


 あれは、人間が相手に出来るような存在ではない。神話に描かれる神と対峙する英雄なんてものはきっと、ヒトが都合よく生み出した夢想に過ぎないのだろう。

 僕の消極的な提案に、しかしソフィは思いの外毅然とした動作で首を横に振った。


「ダメだよ。信じたくないけど、相手は神様なんだから。どこに逃げたってきっとすぐ見つかっちゃう」

「‥‥確かにそうだけど、けど、それじゃあどうしたら」


 いまだ動揺する僕に、ソフィは真っすぐな視線を向ける。光を受けずとも美しく輝く翡翠色の瞳の中には、うろたえる僕が映っていた。

 そしてソフィは、僕の不安な心を包み込むような強い意思のこもった声で、そう言った。


「――神様に助けてもらおう」


 一瞬、言葉の意味を理解できずに動きが止まる。先ほどのゼウスの顔が脳裏をよぎり、僕の心を黒い不快感が撫でまわす。


「神様って、だってアイツが僕らを‥‥」

「違うよ、お兄ちゃん。今、分かったでしょ?」


 ソフィが浮かべるのは、少しだけ挑戦的な笑み。


「――神様は居るんだよ」


 自身の胸に手を添えながら、ひとかけらだけ、自虐を含む。

 そしてその言葉で、僕はようやくソフィの真意に気付かされた。


「だとしたらあの人、ゼウス以外の神様だって居ると思っていいんじゃない?」


 僕が知っているだけでも、神様というのは数多く存在する。ゼウスと同列とされる神だけでも、勉強不足の僕でさえ名を知っている強大な、十二神と呼ばれる神々が存在するのだ。


「正直あの人を見て神様の存在は信じられたけど、信用はできてない。だから、他の神様がどんな人なのかは全然分からない。もしかしたら、みんなあんな風に自分勝手で最低な人ばっかりかもしれない。でも、だとしても、対抗できる手段は他にないと思うの」


 力強いソフィの言葉を聞きながら、僕は嗚呼、と天井を仰いだ。

 情けない。僕はソフィのことを守りたいと思ってるのに、結局他人頼みなうえ、その方法を自分で提案することすらできないなんて。こんなんじゃ、兄の威厳なんてあったものじゃない。


 僕はいつだって、妹を守るカッコいい兄でありたいんだ。それは単なる我がままでしかないけれど、ソフィを拾ったあの日から、この子は僕が守るって誓ったから。


 あの日、まだ僕の心に存在していたはずの高潔な神に。


 そう誓ったはずの神から守ることになるとは、いったいどんな皮肉だろう。


「うん、そうだね。そうしよう。ゴメン、僕、焦るばっかりで何の役にも立ててなくて」


 弱気な僕の発言に、ソフィは僕のお腹に顔を押し付けてぐりぐりと首を振る。


「ううん、そんなことないよ。お兄ちゃんが一緒に居てくれるだけで、わたしは頑張ろうって思えるから」

「‥‥そんなの、僕だって同じだよ」

「わたしこそゴメンね。お兄ちゃんに迷惑かけちゃって」

「ソフィのことを迷惑だなんて、一度も思ったことないよ」


 そうだ、ソフィは僕のたった1人の、僕だけの妹なんだ。何も出来なかったというなら、今から何かすればいい。それだけの話だ。

 僕に何も出来ないのなら、今だけは、出来る力を持った誰かに頼らせてもらおう。


 だから僕は、いったいいつ以来になるか分からないそんな都合のいい祈りを、どこかの誰かに向かって捧げるのだった。




 どうか、僕たちを救ってください――神様。


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