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プロローグ

 

 ――それは僕が10歳の頃の話。


 僕は近所の森まで果物を採りに出かけていて、出る時は晴天だったというのに次第に空には分厚い雲が立ち込めて太陽を覆い隠し、あっという間に灰色に埋め尽くされてしまった。空気は湿り、もうすぐ雨が降るであろうことを肌で感じる。


 などと思っていた矢先、鼻先に一滴の雨粒が落ち、あっという間に天候は大雨の様相を呈してしまった。

 村の作物が育つので雨を降らせてくれるのはありがたいが、もう少し時間を遅らせて欲しかったと思わなくもない。


 自然現象というのは風や雲の動きによって偶然的に起こりうるものではなく、そこには常に神の意思が働き、その地その人に降りかかるべき脅威として発生するものである。

 それは僕が教えられてきたことであり、村の誰もが信じている常識だ。だからこの雨にも、何かしらの理由があるというのは間違いない事なのだ。


 だから僕が思うのは、知らない内に何か信心を疑われるようなことをしてしまったのだろうか、ということ。帰ったらもう一度お祈りをしようと思いながら、採った果実を抱えて帰路を駆けていた。


 泥を撒き散らしながら地面に足跡を残し、その足跡は瞬く間に激しい雨によってかき消されてしまう。いつもなら木々のささめきや鳥のさえずり、小動物たちの息遣いを感じ取れる穏やかな場所だが、今は雨音と跳ね上がる泥の音にかき消されて他の音はほとんど届いてこない。


 みるみる内に雨脚は強くなり、やがて視界が霞むほどになってきたところで僕はさすがに足を止めた。

 これが神のお怒りによる、僕の脚を止めるための罰だとしたら逆らうべきではないし、なによりこの雨ではこれ以上走るのは危険すぎる。

 僕は樹の下に避難して果実の袋をいったん樹の枝に吊るすと、ぬかるんだ地面に膝をついて眼前で手を組み、天に向かって祈りを捧げた。


 膝は泥に濡れ、前髪からは吹き込む雨が垂れ落ちる。

 もしかすると僕に至らないところがあったせいでお怒りになっているのかもしれないが、誠意を込めて祈ればきっと神様も分かってくれるはずだ。なんてったって神様だ。寛大なお方であるに違いないのだから。


 ‥‥‥‥ザバーーーッ!


 ――いのりはてんにとどかなかった!


 視覚と聴覚を覆いつくすほど凄まじい勢いで、まさに水桶をひっくり返したような豪雨は今だ降り続いている。

 マジかよ。僕の信心が実はショボいのか、神様のケツの穴が小さいのか悩みどころだ。いやいや僕の信心のせいだろごめんなさい。


「わー、どうしよ‥‥」


 神がお許しにならないなら僕はいったいどうやって帰ればいいのだろうか。もしかして僕はココで死ぬ運命なのか。いやいや、そんなのヤだよ助けて。


 もう1回、もう1回だ。多分さっきのは祈り方が足りなかったんだ。もっと全力で、祈りすぎて世界が震えるくらいの勢いで祈りまくればどうにかなるかもしれない。許してくれるまで頭は上げませんからなー!くらいの気迫で祈れば多少は光明も見いだせるかもしれない。


「これが僕の最終奥義だ‥‥目覚めよ、我が内に秘められし信仰のチカラ‥‥。天を割り、最奥で息を潜めし太陽の光よ我が下に届け! うおおおおおッ‥‥!」


 眉間に皺を寄せて歯を食いしばり、力みすぎで全身をぶるぶると震わせながら血走った瞳で暗い空を睨み上げる。

 軽く死の危機に瀕している気がしているので、これでもめちゃくちゃ真剣である。


 脳ミソの血管がブチブチと切れる音がこめかみ辺りで響き始めてようやく、僕は祈る力を緩めてべちゃりとぬかるんだ地面に座り込んだ。


「‥‥ほんと、どうしよう」


 これだけ祈っても降りやまないということは、もしかすると僕が原因ではないのかもしれない。例えば、この近くに誰か罪人が潜んでいるとか。

 としたら‥‥マジかよ、僕は単なるとばっちりじゃないか。


 参ったな、と嘆息していると――音が聞こえた。


 雨音の隙間を縫うようにして僕の耳に届けられた、ひどくか細い小さな音。

 容赦なく地面と鼓膜を叩く雨音を出来る限り意識の外に追いやり、耳を澄ませて音の根源を追おうと神経を尖らせる。

 聞き違いか? いや、やっぱり聞こえる。雨音に紛れた、それ以外の小さな音。


 ――。――。――。


 断続的に聞こえてくる、小さな小さな‥‥鳴き声?

 何か、動物の鳴き声のようだ。猫、かな? うん、そんな感じだ。さっきからずっと、近いような遠いような場所で猫が鳴いている。


 どうにか音は捉えられるようになったが、雨のせいで正確な場所が把握しづらい。首を振り、ほとんど手探りで僕はじりじりと声を追って移動した。


 別に見つけてどうかしようと考えていたわけではない。単なる好奇心がほとんどで、この雨では僕以上に苦しいだろうから可能であれば庇ってあげようくらいにしか考えてはいなかった。


 やがて、僕はその声の主を発見する。それは思いの外近く、少しだけ奥まった森の樹の根元から発せられている声だった。

 置かれているのは、小さなカゴ。水浸しの薄汚れた布で包まれたソレは、僕が目の前に現れても変わることなく鳴き声、いや、泣き声をあげ続けていた。


 ――赤ん坊だった。


 声の主は猫ではなく、産まれたばかり赤ちゃん。僕ですら憔悴しそうなこの豪雨の中でも、力強い泣き声をどこかに向けて、誰かに向けて、あげ続けている。

 その届け先は少なくとも、僕ではないのだろう。けれどこの雨の中では声が天に届くことはなく、遥かな大地にも、隣町にも、この森の外にすら届けられることはない。


 届くのはせいぜい――目の前の僕くらいだ。


 だからせめて、目指す場所に届くことなくかき消されてしまう声なのだとしたら、唯一拾ってあげることのできる僕が受け取ってしまっても、いいんじゃないだろうか。

 恐る恐る、手を伸ばす。そっとその頬に触れると、冷えた指先にじんわりと熱が灯った。


「あったかい‥‥」


 その赤ん坊は生気に満ちていた。さっきまでの僕みたいに死を避けようとする想いではなく、もっと純粋に、単純に、一直線に、生を主張するチカラ。


 そして僕が触れた途端、泣き続けていた赤ん坊が唐突に泣き声を収めた。そして頬に触れた僕の指をきゅっと掴んで――笑った。


 瞬間、周囲の音が全て途切れたような錯覚に襲われる。少し意識を逸らせば聞こえなくなってしまいそうだった声が、その笑い声だけは、頭の中に直接響いているかのように明瞭さを伴って聞こえて来た。

 そしてふと、それがただの錯覚ではないことに気付く。


「‥‥‥‥あれ」


 いつの間にか、あれほど降っていた雨が上がっていた。大地には痛ましいまでにその痕跡が刻み付けられているが、空を見上げると豪雨が幻であったかのような澄んだ青空が広がり、太陽が僕たちを見下ろしていた。

 もう一度地面と空を交互に見てから、目の前の赤ん坊に目を向ける。


「‥‥キミは――神様なんですか?」


 思わず呟いた僕の問いに、赤ん坊は言葉を返してくれるわけもなく。嬉しそうに伸ばす手が僕の頬に触れる。今度は僕が赤ん坊の手に触れ返して、笑みを浮かべる番だった。


「放っておくわけにはいかないよね」


 カゴごと赤ん坊を抱え上げると、その子は揺れる景色を楽しむように腕を振る。


「じゃ、早く帰ろっかな」


 忘れないように果物の入った袋を首に掛けると、僕はその赤ん坊を抱いて、僕の住む村へ向けてぬかるんだ大地に足跡を残したのだった。


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