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さよならはナイフとともに

作者: 恵梨奈孝彦

さよならはナイフとともに



一、

二、

三、

四、

五……。

 なんとなく段を数えながら階段を昇る。

 六、

 七、

八……。

明かり取りの窓の陽光がまぶしい。

もう、初夏なのだろうか。

九、

十一、

十二…。

踊り場についた。

窓から入った陽が、床の上にいびつな四角形を描いている。

右回りに体を回転させて、次の段に足を踏みかけた。

十三…。

同時に、頭がくらっとした。

気持ちが悪い。

体が沈みそうになる。

胃がせり上がってきたような気がする。

左手で手すりを握りしめ、しゃがみこむのを耐える。

…どれだけそうしていただろう。

呼吸が荒い。

動悸が激しい。

体を上げてみた。

階段の上に、古びた白壁と、消火器と、「生物準備室」と書かれた扉が見える。

どこなんだ、ここは?


ここはどこなんだ。あたしは、こんな場所を知らない。

握りしめている手すりを見た。

古びた木製で、握るにはちょっと太すぎる。木が吸った湿気がじっとりと手の平に伝わる。

こんなものを見たこともなければ、触ったこともない。

あたしはいつのまにか知らない場所に出ていたのか?

あたし? あたしってだれだ?

あたしは、自分の名前を知らないのか?

だったら、知らない場所に飛ばされたんじゃなくて、自分の名前も自分がいる場所も、全て忘れてしまったのか?

あたしは気がついたらふらふらと階段を昇っていた。

目的があったわけじゃない。ただ、いつの間にかそうしていただけだ。

階段を昇りきると、左手に女子トイレの人型のマークが見えた。

トイレ…、鏡があるはずだ。

トイレに入って右手に洗面所があった。

その大きな鏡に映っていたのは…。

白のブラウスに紺のリボン、水色のベストに紺のスカート。この学校の制服なのだろうか。

女子としても背が低い方だろう。色白で丸顔だが、口と目が小さくて鼻が低い。

だれなんだろう。あたしはこんな子を知らない。

とめどもない不安がこみ上げてくる。

不安。そう不安だ。ここにこうしてはいられない。

だけどどうしたらいいのかわからない。

トイレを出た。

「チャイム鳴り終わったぞ。さっさと席につけ」

 後ろから声をかけられて振り返った。

 ごま塩頭で、目が大きく、鼻が高く、唇が厚い。

 腹が出ている。だけでなく、ズボンがずり下がっていて、いかにも中年くさい。

 中年男についていき、教室に入った。

 ここで授業を受けるということは、ここの生徒なのだろうか。

 空いている席に座った。

「おまえの席はそこじゃないだろ」

 見ると、もう一つ空いている席がある。あたしが移動すると、委員長らしい人が号令を掛けた。

 礼が終わって座ると隣の女子が声をかけてきた。

「どうしたの? ユリエ、顔色悪いよ」

 眼鏡の奥にぱっちりとした二重が見える。可愛い子だ。

「新田、110ページの最初から6行目の『いとすさまじ』まで読んでみろ」

 新田。あたしは新田ユリエというのか?

 しかし、この名前に、自分のものらしい懐かしさなど微塵も感じられない。

 だけど、隣の真似をして出した古典の教科書には黒のネームペンでしっかりと「新田」と書かれている。

 あたしは立ち上がって読み始めた。

「すさまじきもの。昼ほゆる犬。春の網代。三、四月の紅梅の衣。牛死にたる牛飼ひ。児なくなりたる産屋。火起こさぬ炭櫃・地下炉。博士のうち続き女子産ませたる…」

 すらすらと読める。枕草子の「ものづくし」の一つだ。なぜこんなことを覚えている?

 あたしの生涯の歴史といったら、さっきの階段で気分が悪くなって、トイレの鏡を見て、中年男に声をかけられて教室に入った。たったこれだけなのに!

「先生、ちょっと気分が悪くて…」

「そうか。ならだれか一緒に…」

「いえ、大丈夫です」

「そうか」

 心配しているのかしていないのかよくわからない中年男を残して、あたしは教室を出た。

 どうしよう。保健室?

 どこにあるかわからない。

 わかったとしても、今の状態を養護の先生にそのまま話すか?

 信じてもらえるだろうか。

 あたしは結局、さっきのトイレに戻っていた。

 ふたたび鏡の前に立つ。

 いくら見ても、こんな女の子をあたしは知らない。

 心のどこにも、この顔に対する痕跡がない。

 その時、スカートのポケットに何か入っているのに気がついた。

 取り出した。

 スマホだった。

 何かわかるかもしれない!

 まず、電話帳を開いた。

 知らない名前ばかりだ。

 どの名前を見ても何も思い出せない。

 しかし、サ行まできたとき、「自宅」という番号が出てきた!

 指をふるわせながら操作し、かけてみた。

 呼び出し音の後に帰ってきたのは…。

「ただいま、留守にしています。ファクシミリの方はそのまま送信してください。電話の方は…」

 共働きなのか、あたしの自宅にはこの時間、だれもいないようだ。

 その時、スマホが鳴りだした!

 これは…、オルゴールの音? 曲は…、ビートルズのレットイットビー!

 たまらない懐かしさとともに、頭の中で何かが爆発した!

 あたしは…、新田ユリエ。まぎれもなくこの学校の生徒だ。今日は火曜日。今日もJR東海道線に乗ってこの町まできて、いつもの坂を登ってここまできた。あの中年男は名前を望月といってあたしの担任で、国語の教師で文芸部と演劇部の顧問だ。あたしはさっき、SHRのあと、購買でジュースを買おうとして一階まで行き、購買がまだ開いていないのを確認して何も買わずに、教室に戻ろうと階段を昇っていき、たちくらみに襲われ…。

 ここまで思い出せたのに、あたしの気持ちに喜びはほとんどなかった。

 オルゴールが耳にはいってきたと同時に、すべてがわかった。

 しかし、これは本物の記憶だろうか。

 こんなにいっぺんに全てを思い出すなんて、都合がよすぎないか。

 実はオルゴールの音とともに、何者かがあたしに偽物の記憶を流し込んだんじゃないか?

 鳴り止まないオルゴールが頭のなかにわんわん響く。

 鏡に映ったあたしの顔は、十数年見続けたあたしの顔だ。

 だけど、そう思い込まされているだけだったら?

 この、今見ている視界そのものが、「見させられている」ものだったら?

 もしかしたら、あたしは植物人間で、今見えているものも病院のベッドの上で見ている夢かもしれない。

 あるいは、どこかの中年男の妄想だったら?

 レットイットビーの響きに堪えられない。息苦しくなってきた。


 視界は真っ暗だ。

 だけど目をつぶっているせいだとすぐにわかった。

 瞼を開けば見なれた天井が見える。いつもの壁紙だ。

 ベッドから半身を起こせば白い勉強机、レッサーパンダのぬいぐるみ、ハンガーにかかった制服が目に飛び込む。

 レットイットビーがまだ聞こえている。スマホに設定したアラームだ。操作して止める。

 …夢じゃないかと思っていたら、本当に夢だったのか。

「ユリエちゃん! さっさと来なさい!」

二階からママの声がする。降りるとトーストとコーヒーと目玉焼きの朝食がすでにテーブルの上に載せられていた。

さらに、皮のままのキウイが果物ナイフとともに置かれた。

「ママはもう出かけなくちゃならないから、キウイを食べるなら自分で剥きなさい」

 キウイは食べなかった。いつもの電車に乗っていつもの駅に行き、いつもの坂を登って学校についた。

一、

二、

三、

四、

五……。

 なんとなく段を数えながら階段を昇る。

 六、

 七、

八……。

明かり取りから初夏のきらめきが注ぐ。

九、

十一、

十二…。

踊り場についた。

窓から入った陽が、床に平行四辺形を描いている。

右回りに体を回転させて、次の段に足を踏みかけた。

十三…。

同時に、頭がくらっとした。

左手で手すりを握りしめ、体が沈むのを耐える。

…どれだけそうしていただろう。

体を上げてみた。

階段の上に、古びた白壁と、消化器と、「生物準備室」と書かれた扉が見える。

どこなんだ、ここは?

あたしはこんな場所を知らない。

あたしはいつのまにか知らない場所に来ていたのか?

あたし? あたしってだれだ?

知らない場所に飛ばされたんじゃなくて、自分の名前も自分がいる場所も、全て忘れてしまったのか?

気がついたらふらふらと階段を昇っていた。

階段を昇りきると、左手に女子トイレの人型のマークが見えた。

トイレに入って右手に洗面所があった。

その大きな鏡に映っていたのは白のブラウスに紺のリボン、水色のベストに紺のスカートを身につけた女子だ。

だれなんだろう。あたしはこんな子を知らない。

トイレを出た。

「チャイム鳴り終わったぞ。さっさと席につけ」

 声をかけてきた中年男についていき、教室に入った。

 空いている席に座った。

 礼が終わって座ると隣の女子が声をかけてきた。

「どうしたの? ナツミ、顔色悪いよ」

「うん」

 中年男に言った。

「先生、ちょっと気分が悪くて…」

「そうか」

 あたしは教室を出て、さっきのトイレに戻った。

 その時、ポケットの中でスマホが鳴り出した。

 オルゴールのレットイットビー?

 どこかで聞いたような気が…。

 その時、すべての記憶がよみがえった。

あたしは…、和田夏美。

まぎれもなくこの学校の生徒だ。今日は火曜日。SHRのあと、購買でジュースを買おうとして一階まで行き、まだ開いていないのを確認して何も買わずに教室に戻ろうと、階段を昇っていき、たちくらみに襲われたんだ。

 だけどなんだろう、この落ち着きの無さは。

 自分には確かに自分が和田夏美だという記憶がある。しかしそれが、本物の記憶だという保証はどこにもない。さっき自分は確かに「ナツミ」と呼ばれた。だけどその「呼ばれた記憶」さえも作り物だったとしたら? 「自分が和田夏美だ」という記憶とともに、「ナツミと呼ばれた」という記憶もまた何者かに注入されていたとしたら?

 レットイットビーのメロディーが頭に響いて息苦しい。

 目が覚めた。

 いつもの天井だ。アラームを止める。

「ナツミちゃん! さっさと来なさい!」

 降りるとママが、皮のままのキウイと果物ナイフをテーブルに置いた。

「もう出かけるから、キウイは自分で剥いてね」

 ママが背を向ける。キウイを剥いて食べ、トーストとコーヒーと目玉焼きを摂って学校に行った。

一、

二、

三、

四、

五……。

 なんとなく段を数えながら階段を昇る。

 六、

 七、

八、

九、

十一、

十二…。

踊り場についた。

右回りに体を回転させて、次の段に足を踏みかけた。

十三…。

同時に、頭がくらっとした。

ここはどこだ? あたしはだれだ?

階段を昇るとトイレがあった。

 トイレに入って鏡を見た。だれだ? この色白で背が低くて目と口が小さくて鼻が低い女の子は?

 その時、スマホが鳴った。オルゴールのレットイットビーだ。

 思い出した。

あたしは北条渚だ。

女子高生だ。

 だけど、本当にそうなのか?

 だれかがレットイットビーのメロディーとともに、あたしに偽物の記憶を流し込んだのではないか?

 実はあたしは、女子高生好きの中年男の妄想だったりしないのか? それならまだしも、自分が殺人犯だったりしたらどうしよう!

頭に響き続けるレットイットビーに耐えられない。


あたしは、見なれた階段の下にいた。

だけど、これは本物の階段なのか? 階段の夢を見ているだけじゃないのか?

手すりのしめった感触。このリアルさが夢だとはとうてい思えない。

だけどもし、脳が「視界の中に入った階段」「ひし形の光が張り付いた床」「湿った木の感触」という情報を受け取ってしまえば、実体としての「階段」がなくても、あたしはそれをリアルと感じ取ってしまう。

一、

二、

三、

四、

五……。

 だめだ。段を数えたらだめだ。さっきまでと同じことが起きる。

 六、

 七、

八、

数えたら絶対に恐ろしいことが起きる。

九、

十一、

十二…。

だめだ。意識すればするほど、数えてしまう…。

十三…。

だれだ。あたしはだれなんだ!

ここに、自分の名前さえ知らない女子が、知らない人ばかりの、見たことも聞いたこともない場所にたたずんでいる…。

スマホからオルゴールのレットイットビーが聞こえる。

あたしは、あたしは比企理恵子。

たしかに比企理恵子だ! だけど…。

レットイットビーが聞こえる。


目が覚めた。

これで何回目だろう。

あたしは、新田ユリエだった夢を見ていた和田夏実だった夢を見ていた、自分を北条渚だと思っていた比企理恵子。

だけど、この現実感の無さはなんだろう。

あたしは比企理恵子になった夢を見ている誰かではないのか?

スマホのアラームを止めてベッドから立ち上がった。

ひどいたちくらみがした。

体が沈むのに耐えると、部屋を出て階段を降りる。

なんだか浮遊感がある。雲の上を歩いているみたいだ。

目に入る全てのもの、階段、手すり、天井…。現実に存在するものとは思えない。

どうにか…、どうにかしなければ。

現実の自分が、植物人間でも、中年男でも、殺人犯でもいい。

夢の外に出なければならない。

そこがどんなところでもいい。ここでなければどこでもいい!

この、悪魔のような繰り返しから出られればいい!

繰り返さないためには…。

さっきと違う行動をとればいいのか。

いや、最初は教室に入ったとき、席を間違えたが、二番目は間違えなかった。

最初はキウイを剥かなかったが、次には剥いた。

この程度の違いでは駄目なのだろう。

それでも毎回少しずつ変わっている。だんだん夢の時間が短くなっている。

ならばどうすればいいのか。

絶対に自分がやらないような行動を取らなければならないのではないか。

二階のダイニングについた。

テーブルにはトーストとコーヒー、目玉焼きが置かれている。

ママがキウイと果物ナイフを置いて背を向ける。

絶対に自分がしないこと…。

あたしは果物ナイフの柄を持って立ち上がった。

ごめんね…。

あたしはママの脇腹に思い切り果物ナイフを突き刺した!

ママはくぐもった様な悲鳴を上げて、こちらを見た。

…痛い?

ごめんね。だけど、あなたはあたしのママじゃないんだよ。あたしの夢の一部にすぎないんだ。

ナイフを一気に引き抜いた。

ブラウスが大きく裂ける。

ママの形をしたものが振り返った。苦しげに顔をゆがめている。大きく手を広げた。

手がぶつかり、棚の上に置かれていた宝石箱の形をしたオルゴールが床に落ちた。

これは、去年の誕生日にねだって買ってもらった。シングルマザーの収入にとって、安くない値段がしたらしい。

床にたたきつけられたと同時に蓋が開いた。

ビートルズのレットイットビー。

頭に直接何かが…。




あたしは、新田百合恵。



この名前はパパとママからの、最初の贈り物。

これは注入された記憶なんかじゃない、本物の思い出!


百合恵ちゃん、本当にかわいいね。

百合恵、もう遅いからさっさと寝なさい。

百合恵ちゃんをいじめた奴は、どこのだれだろうと許さないからね。

百合恵、食べ残しは許さないよ。…ママみたいな美人になれないぞ。

百合恵! なんなのこの英語の点数は!

たとえどこのだれだろうが、百合恵ちゃんの敵はあたしの敵!


ひとつひとつが、宝石みたいな思い出!

ママの脇腹を見ると、血まみれのブラウスの裂け目から、ぬらぬらした液体に包まれた、管のようなブヨブヨしたものがはみ出している。

ダイニングに生ぐさい血のにおいが充満する。

あたしはようやくママが両手を広げているのが、最期にあたしを抱きしめようとしているのだと気がついた。




いやぁぁぁぁぁっ!



5月17日早朝、血まみれのパジャマを着て、血のついたナイフを握り、裸足のまま玄関を飛び出してきた女子高校生Aを近所の主婦が見つけ、110番通報した。

駆けつけた警官がAを保護。Aの許可のもとに屋内に入ると、ダイニングで血を流して倒れているAの母親を発見した。

母親は脇腹を刺されており、すぐに搬送されたが病院で死亡した。

Aの握っていたナイフの血と母親のDNAが一致し、A自身も刺したことを認めているが、「夢と現実を取り違えた」と供述している。Aは、「ここも夢なんじゃないか」とも話しているが、ただの現実逃避とも思えないと取調官は話している。Aの尿からは薬物の反応は出ていない。

近所の人の話によると、二年前Aは父親と死別したが母親との仲は良かったという。しかし隠れた動機の可能性もあると、虐待の事実などなかったかを警察は調べている。

Aの通う高校には「数えながら昇ると記憶を失う階段」と言われるものが存在しており、都市伝説、「学校の怪談」のたぐいではあるが、これが多感な少女の心理に影響したとも考えられる。


『新聞××』の記事より


おしまい


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