花火
俺にとって花火というものは、物心つかない頃から既に夏の代名詞であった。……そんな大したことじゃない。フルーツと言ったらリンゴを、公園と言ったらブランコを連想するように、夏と言ったら次に何を思い浮かべるかくらいのものだ。
ただ少し違うのは、それは終わりを表すものだった。
幼い頃から俺は――自分で言うのも変だが――真面目なやつだった。
小学校に入って間もない頃、周りの悪ガキが学校にマンガやゲーム機を持っていくのを先生に告発したことがある。当然の如く、彼らは叱られた。
するとその日の放課後、俺は彼らに呼び出されボコボコに殴られた。どちらが悪いかなど火を見るより明らかなのにこの仕打ちで非常に腹が立ったから、ボコボコにやり返して家に帰した。
次の日、顔に青アザとたんこぶを作って学校に来た俺や彼らを見て、先生は目を丸くした。そして俺たちは事情を全て吐かされ、こっぴどく叱られた。
それから掃除当番はきっちりやった。小三の頃、当番は一ヶ月に一度、担当場所を入れ替えることになっていた。
初めは汚れていた担当場所も、俺が当番になって一ヶ月経つと非常に綺麗になった。
暫くして担当が一回りすると、元の通りに汚れていた。
小五の頃、級長に選ばれた時の話などは面白い。何か頼まれれば何がなんでも責任を果たそうとする俺の堅い性格が、先生にも同級生にも受けたのだろう。多大な支持を受けて、俺は級長になった。
俺はクラスの長なのだからと、授業中はうるさくするな、教室移動はテキパキしろ、と口酸っぱく注意した。クラスの皆は日が経つにつれウザったい顔を増やしていった。
半年経って新しい級長に入れ替わると、皆はせいせいした表情をしていた。
結局それ以来一度もその役職を経験したことは無い。
そんなドの付く堅物にも楽しみがあった。その中でも花火というのは――大抵の場合、夏にしかお目にかかれないからか――特にお気に入りの楽しみだった。
大きな打上げ花火が好きだった。ヒュー……と高く上がって、ふっと気配が消える。次の瞬間、方々に美しい光をまき散らして、一拍遅れた爆発音が鼓膜と胸を打つ。このドッという胸を打つ音が良い。
パラパラというやつや絵を描く花火も、花火師の技術力に目を見張る。まるで、その花火が自分に向けられた花束のようにさえ考えていた。
暑く、暗く、眩しい、自分だけの花束であった。
中学三年の時に、同じ部活の仲間と地元のお祭りに行った事がある。人数も少なければ、中体連の地区予選であっさり負けてしまうほど弱いチームだったが、お互いの仲だけは男女の分け隔てなく大変に良かった。部活も夏で引退なので、三年間の記念と題して全員で夏祭りに行こう、ということになった。
皆は、俺が祭りに行くのが余程珍しかったらしい。みんなで行こうと誘われたから、わかったと二つ返事で答えたら、彼らは口々に驚きの言葉を発した。
「へぇ、祭りなんて行くんだ」
ムードメーカーの男子がそう聞いたので、
「そんなに珍しいか?」
と聞いた。
「珍しいね、意外だ。俺はお前の事を、祭りなんか行かずに家で勉強を何時間もするようなやつだと思ってたよ」
「そんなにガリ勉なやつじゃねぇよ」
女子達からも、同じような声が上がった。
「君は他人と関わるのが苦手なタイプだから、みんなで祭りに行くなんてしないと思ってたよ」
「確かに人と関わるのは得意じゃないが、小学一年生の頃から祭りには欠かさず行っていたよ」
「ふーん、へんなの」
「俺はへんなのじゃない。」
「あはは」
祭りは、夏休みの最後の週末だった。
実際、俺は毎年この祭りを楽しみにしていた。理由は花火を見ることただ一つだったが。
例年は、花火が上がる夜九時頃に間に合うように繰り出していって、花火を見て、その後家へのお土産にたこ焼きを買って帰る、という感じだった。しかしその年はそうやって誘われたから、夕暮れ時のもっと早い時間から出ていった。
待ち合わせの時間には、男性陣はいつも以上に背伸びした服で、女性陣は可憐な浴衣姿で現れた。
とりあえず、ということで、ズラリと向かい合って並ぶ屋台をあっちを見てはこっちを見てはと巡りながら歩いた。金魚も掬わず瓶釣りもしなかったが、クジは引いた。一人一回引いて、景品を欲しい人で交換し合うつもりが、運の悪いことにみんなハズレで同じようなお菓子を引き当ててしまった。
歩き回って疲れた頃に、屋台の並んでおらず人気もない高い丘の上に横並びに座って、花火が打ち上がるのをみんなで見た。色とりどりで綺麗な奴や、顔の形の奴が上がる度、みんなは歓声をあげる。花火が上がる度笑顔になる。俺は花の形に一瞬綻んで散る輝きを、唇を引き締めて黙って見ていた。火薬が爆発するのを聞いていた。胸にその衝撃が伝わる度、くっと息を呑み込んだ。
ぼーっと見るうち、なんでこうなったんだろう、という考えが湧いた。去年までは一人で見ていたのに、なぜここに居るのか。誰にもこの輝きは譲らないつもりだったはずなのに。胸中の疑問を感じまいとして、部活の女子の横顔を見やった。
その瞬間、色とりどりの花火がパラパラと咲き乱れた。髪に青色の火が散ったように見える。頬に赤い花火の光が映り、ポニーテールに隠れた色白のうなじが相対的に暗くなる。若草色の浴衣が、緑の輝きで一層優しい緑色になる。目に反射している花火の光が、色の足りない虹色に見える。足りないはずなのに綺麗だった。
今思えばあれが初恋だったのかもしれない。はかない一瞬だったが、花火と同じようなものだ、あの瞬間は彼女がくれた贈り物なのだ、なんて気持ちの悪い解釈をして、吐きそうな気持ちになることもあった。そんな恥ずかしい解釈をしてまで覚えていたくないのに、いつまで経っても忘れられない。彼女とは進路が別々になってしまい、就職した今も顔を合わせる機会が無い。
ただ、奇跡より美しいあの瞬間だけは覚えていたい、と思っているのかもしれない。
あと手持ち花火も好きだった。勢いのあるシューという音、火薬特有の煙たさ、ライターで火をつける時の焦げるような熱さ。確かにこれらも好きだが、俺が一番楽しかったのは線香花火だった。家で手持ち花火セットをやると、大概最後に残るのは線香花火だった。
火をつける。それからじっと待っていると、チッ、チッ、チチチ……と火花が散り始める。それが体感にして約九十秒間の自分との戦いである。
深呼吸で体を落ち着かせ、繊細な力技で出来る限り鼓動が腕から細い線香花火に伝わらないように集中する。息を止めるのは逆に珠を落としてしまうのでやってはいけない。
闇夜に少しだけ蔓延っている光を、今にも落ちそうな熱い珠にかき集めるかの如く、燃えろ、燃えろと念じると、チチチチシュパチパチシュパチと弾け始める。そこからは一瞬である。集めてきた光を一気に解放し続け、フッ……と消える。光が消えて灰になった時、特別な達成感が全身を包む。これが堪らない。よしもう一本、と次の花火に手を伸ばす。
老成しているのだろうか。これが上手くいくようになったのは大きくなってからだ。
それでも途中で珠が落ちてしまう事がある。そんな時は、いい夢を見ていたのに急に目が覚めてしまった時のような気分にさせられる。悔しくて、ちくしょうもう一回、とやりたくなる。そうするといつの間にか全部無くなっている。まだ使ってない花火を手の感覚で取ろうとしたらビニールの感触がするから、毎回花火が無いのを二度見する。家でやる花火は、俺がビニール袋を二度見するので幕を閉じる。
高校二年の時、久しぶりに出張から帰ってきた親父と花火をした。親父との仲はすこぶる良く、互いに冗談を言ってはバカ笑いをして、やかましいと母に叱られた。俺とよく似て――俺が親父に似ていると母は再三言っているのだが――真面目な親父は、国立大卒で外資系企業の正社員に就職したやり手であった。
親父も花火が好きだった。夏は必ずどこかで隙を見つけて花火をしていたらしい。帰れない時は出張先で一人で線香花火を、今回のように実家に帰れる位の休みが取れた時は大量に買い込んできて、家族で盛大に花火大会をする。
六時頃には夕飯を済ませて、七時を過ぎた頃から自宅大花火大会が始まる。
弟が体いっぱいにはしゃぎ回って手持ち花火に火をつけてもらい、火が尽きると燃えカスを水入りバケツに勢い良く突っ込んで次のを取り出し、早く火をつけろとせがむ。
俺は横でデカい花火を片手に三本持って、一度に火をつける。それを見て弟が、ずるいだの俺にもやらせろだのとせがむ。
母はそれをなだめすかしつつ、そういうことをすると弟が真似するからやめろと俺を怒鳴る。
その横で親父が五本まとめて火をつけるから意味が無い。
八時を回るとさすがに派手な花火は無くなってくる。その辺になってくると弟も飽きて騒がなくなって、しまいには疲れて家の中に引っ込む。その様子を見て母は言う。
「買い込みすぎなのよあなたは」
親父はニコニコしながら謝る。
「すまん。でも好きなもんは好きだから」
「好きでも多すぎじゃない」
俺はこう言う。
「俺もいるからむしろこれくらいがいいよ」
「お前はやっぱりお父さんに似てるわ」
母は呆れ顔である。しょうがないわね、といったふうなため息をついて、弟の様子を見るため、母も家に引っ込んだ。
親父と残り数本の手持ち花火を消化したら、残るのは線香花火である。毎年こうなると、俺と親父はどれだけ線香花火の火の玉を落とさずにいられるかを競い合った。何度やっても親父は決して玉を落とさなかった。だから勝負は決まらないし、俺はたまに落とすから負ける。
「ふははは、まだまだだなぁ」
悪者みたいな笑い方に悔しがるとさらにバカにしてくる。それに釣られると集中力を失って火の玉を落とす。親父はまた悪者みたいな笑い方をするから非常に腹が立つ。煽って集中力を乱すための精神攻撃だと分かっているが、腹が立つものはしょうがない。
でもそうやっている時の親父の表情は、いたずらっ子のような笑顔だった。
それもいつしか相手との戦いから自分との戦いになる。どれだけ長く線香花火を見ていられるか、どれだけ綺麗な線香花火が出来るか……。
「なぁ」
突然親父が話しかけてきて、俺は情けない声と共に火の玉を落としてしまった。
「あぁ!」
「あ……すまん」
「大丈夫……で、何?」
「いや、将来の話だ」
藪から棒に話を切り出されたから、俺はなんのことだろうと思った。
「……うん」
「どうするつもりだ」
俺はひとまずこう答えておいた。
「……分からん。とりあえず国公立大学だと思ってる。」
「そうか。……あまり口出しするつもりは無いんだけどな、こんだけは言っとく」
俺は何を言われるのかと身構えた。
「何?」
「自分を信じろ」
仰々しいことを言うのかと思ったら、随分ありきたりだ、と思った。
「線香花火がそうだろ?自分を信じれば火の玉を落とさずに済む。ほら」
次の線香花火を突き出されたので、受け取って火をつけた。俺はその日一番の集中力で、珠を落とさずに燃やし切ることが出来た。綺麗だった。
それを燃やすと線香花火はあと一本だった。親父が火をつけて、半分程燃やしてシュパチシュパチと弾けている途中で、珠が落ちた。親父が珠を落とすのを見たのは多分これが初めてで、俺は酷くびっくりした。親父は声を上げて笑った。
「ぶっははははは。落としちまった……まぁ、いい思い出が出来たな。」
「毎年恒例の?」
「そう。」
親父はそう言って、俺と花火の燃えカスを始末した。三日後まで火薬の匂いが髪の毛から抜けなかった。盆が終わると、親父はまた出張続きで家から居なくなった。
九月に入ってから、会社から親父の死を伝えられた。外国に行く飛行機が運悪く墜落したと聞いた。嘘なんじゃないかと思った。絵に描いたように家族揃って泣いた。人は簡単に死ぬ。ちょっとした事で死ぬんだ。そう感じた。
俺は泣いたが、泣いた気がしなかった。泣いたことも含めて、現実のことに思えなかった。夢だと思った。寝て、起きて、その次の日も寝て、起きた。何度も親父の夢を見た。一日一日は淡々と過ぎていった。
俺は亡くなった父の代わりに母と弟を助けるために、次の年は物凄い量の勉強をして、父の通っていた大学に受かった。そして四年後、親父と同じ外資系企業に就職して、今は母と弟と、いたく平凡に暮らしている。大学で選んだ専攻の都合上、親父と同じ部門には所属していないが、親父の跡を継いだような気分でいる。。盆には家族で親父の墓参りに行くようになった。
自分を信じろ、という言葉の意味はまだ分かっていない。花火は未だに好きでいる。だから花火は毎年買い込みすぎる。今年もそうだった。そして母に叱られる。弟はだんだん騒がなくなって、俺と線香花火で勝負をするようになった。なんだか昔の俺より上手い様な気がしてならない。
二三年後、弟が大学に入学した頃、突然実家に一通の手紙が届いた。
中学の同窓会の招待状だった。母親は是非行けと俺に勧めた。俺は迷わず有給を切った。どうせ酒を飲むだろうと見込んで二日空けた。
会場は海辺のホテルで、バーベキューを行った。何年ぶりかに出会う級友たちは――当たり前だが――随分と大人になっていた。顔つきが全く変わらないやつと、あの時の誰なんだか全く分からないやつと、都合がつかず来ていない奴がいた。来ていない奴の一部は連絡先を知っているやつとビデオ通話を繋いでリモート参戦したりしていた。
前座が終わって肉を焼いていると、学年内でもよく目立ち人気者だった男が、俺とも話しに来た。
「久しぶりだな」
「あぁ、俺の事覚えてるか?」
「お前は確かに地味な奴だったけど、あんま俺の記憶力をナメるなよ。流石に覚えてるぜ。にしたってお前は顔が変わんねぇなぁ。」
「そうか? まぁいいか、覚えててくれてありがとう」
「こちらこそ」
色々話したが、その中でも特に印象的な話があった。
「そういえば、あの時友達だったあいつは来てないのか?」
話題に挙がった男は当時不良生徒で、度々授業を抜け出していた。成績はそこそこ良かった目の前の彼とは何故か仲が良く、卒業時までよくつるんでいた。
「ああ、それか……。言いにくいんだが。高校一年の時、バイク事故で亡くなったよ」
「あ……。すまん」
「いいんだよ、もう結構経ってるし、こうやって話すのも慣れた。ただ、あいつが居ないことにはどうしても慣れない……今も生きてたらここに居たはずなのにな」
親父を亡くした俺にとっては共感しやすかった。
「ま、あいつの分まで元気にやるつもりだよ」
何人かは都合がつかなかったらしいが、中学の時の部活仲間も結構参加していた。大抵進路の話とかをして、今は大学まで行って大企業に務めていると話すと、やっぱ真面目は違うなぁと言われた。当時はそうやっていじられることが多かったから、明らかに口調の違う、心から感心される物言いには少々戸惑った。
一人だけ誰だかわからない綺麗な女性がいて、俺は全く判別つかなかった。
「私分かる?」
「えっと、本当に申し訳ない、分からない」
名前を聞くと、花火の横顔の女子だった。素っ頓狂な声を上げて驚く俺を彼女は笑った。
「あははは、凄い顔して驚くじゃん」
「雰囲気変わりすぎなんじゃないの?」
「それ、よく言われるんだよね。大人になって初めて友達と会った時もさ……」
彼女はあの時よりも少し饒舌だった。酒のせいもあるかもしれない。
話の流れで夏祭りの時の話になったから、実はさ、と当時の事を打ち明けたら盛大に笑われた。彼女によれば、俺の視線には気づいていたらしい。俺は恥ずかしさで顔が赤くなった。決して酒のせいじゃない。
「で、今はどうなの?」
「え……それ聞くのか?」
「あはは、まぁ私付き合ってる人いるけどね。専門学校時代に知り合った人なんだけどさ。」
「あぁ、そう……」
なんとも反応しづらい空気になってしまった。
「また皆で花火見に行く? そしたらまた私のキラキラの横顔見れるよ」
「それはいいよ、ちゃんと純粋に花火を楽しみに行くんだ。」
「じゃ、見に行く意思はあるって事ね。」
過去の話で大いに笑われたことはともかく、約束が出来てしまった。音信不通だった部活のチームメイトともまた新たに連絡先を交換して、いつでも連絡ができるようになった。みんな色んな道を歩んでいた。進学したやつ、浪人したやつ、就職したやつ、フリーターをしてるやつ。中学の時に分岐した色とりどりの人生が、何年かの時を経てまた交わった瞬間だった。
その日は喉が枯れる程話した。話過ぎで喉が乾く度に酒をあおった。
そのせいで悪酔いして、次の日は二日酔いで潰れていた。
俺にとって、花火は終わりの象徴である。その反面、花火だけは、ずっと変わりも終わりもしないものでもある。
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