ピエリス
子供がいる。死にかけている。引きずっていたクマの死体を一度離す。
騒がしさに来てみれば、山のような死体と猛り狂った熊が吠えていた。心臓を抉り出し、熊は殺した。毛皮と肉が手に入った。死体は明日にでも埋めてやろう。そう思っていた。
「マーガレット。」
子供はその一言を最後に動かなくなった。まだ死んではいない。助けるか?たまのことだ。時間はある。
子供を担ぎ上げて小屋へ向かう。熊も首を掴んで引きずる。小屋まではそう距離もない。子供が死ぬことはないだろう。血をやればすぐに良くなるはずだ。……それでいいのだろうか。血は最低限にして自然に任せれば時間がかかる。その間これを観察しよう。時間だけはあるのだから。
小屋につき子供を床に寝かし、服を脱がす。脇腹が紫色に変色し、肉が爪痕のように抉れていた。腰のナイフを取り自分の手のひらを切って、子供の傷口に血をかける。傷に血が触れると煙を上げてみるみる塞がっていった。さらに変色までひき掛けたところで血を与えるのをやめる。これで死にはしない。しかししばらくは起き上がれないだろう。いい塩梅だ。
日が出たらすることが山積みだ。死体を片付け、熊を解体し、子供の看病をする。忙しい。あぁ忙しい。子供は泣くだろうか。仲間を殺され、自身も傷つき、家に帰ることもままならない。動くこともできないのだ。飯の用意をしてやらねば。寒くてはかわいそうだ。暖炉に薪を焚こう。
すぐに暖炉に火を灯す。今できることはもうない。横に寝そべり、意味もなく子供の手を握りしめてみた。弱弱しく握り返してくる。頬をさする。冷たい。今日はこれを抱きしめて寝よう。
こんな高揚は久しぶりだ。そもそも人と接するのが随分久しぶりだ。また少し人の人生に出てみようかな。
■
暖かかった。それが最初に感じた感覚。生きている。辺りを見回す。見慣れたものはない。我が家ではない。暖炉の前で毛皮にくるまれ眠っていたのだ。何が起きたのか。体を起こす。脇腹に激痛が走った。急いでまた横になる。また改めて見回すと入り口近くに大量に肉が干してある。あの熊の肉だろうか。では、これをこうしてしまった人はどこにいるのか。いったいどれほど屈強な男なのだろうか。勇気を出して声を上げる。
「あの誰かいませんか?」
返事はしばらく待ってもなかった。恩人は今この小屋にはいないようだ。
恐る恐る傷の具合を確認する。触れば激痛、傷を見ようと体をよじっても激痛。これはしばらく動けそうにない。壁に掛けてある衣服がある。オレンジのマフラー。あれが僕のものだとすれば随分な量の血を流したようだった。
マーガレットが心配だ。早く帰らなくては。
入口の扉が開く。そこには細身の女が立っていた。背は高い。ここには夫婦で住んでいるのか?髪は白く長い。赤い瞳は初めて見た。抱えている籠を床に置き上着を壁に掛ける。
こちらが起きていることに気づいたのか駆け寄ってくる。
「私はピエリス。君は?」
子供のような人だと思った。挨拶や気遣いはなく、自身の知りたいことを最優先に話をする。
「ダフネです。助けて頂いてありがとうございます。」
思い出したように籠に駆け寄り、それをもってまた戻ってくる。
「野草を取ってたんだ。これで熊のスープを作るからね。」
籠いっぱいの野草。これだけ探すのは大変だっただろうに。
「ありがとうございます。あのここはどこですか?」
「私の家だよ。傷の具合は?」
「まだかなり痛みます。」
「それは丁度よかった。」
……?丁度いい?とにかく疑問ばかり浮かんできた。ここはどこで他のみんなは無事なのか。いつになれば動けるようになるのか。この人はいったい誰なのか。本当に熊を倒したのか。混乱する。
「ここには他に誰か住んでいるのですか?」
「いや、私一人だよ。」
答えながら彼女は熊肉と野草を刻んでいく。本当に話を聞いているのか不安になる。
「僕達熊に襲われたんだと思います。他に誰か助かった人はいませんか?」
「君だけだよ。もうみんな埋めちゃったけど。」
埋めた?僕は一体どれくらい眠っていたんだ?
「僕は一体どれくらい寝ていたんですか?」
「6日間。」
唖然としてしまう。マーガレットや村のみんなもどうしているのか。帰らなければ。一刻も早く。また無理に力を入れて起き上がる。脇腹の激痛に耐えながら立ち上がろうとする。
「何してるの!まだ無理だよ。」
肩を支えられ再び横になる。いきみ過ぎたせいかまた意識が遠のく。どうしよう。とにかく早く帰らなければ。急く気持ちばかりで。また周囲が暗転していくのを感じ、僕は気を失った。
再び目が覚めたのはさらに一日経った後だった。上半身をしてもらい、スープを口に運んでもらう。恥ずかしさはあったが仕方ない。動けないのだ。
まだまだ質問は尽きない。しかしピエリスに言われたのは答える代わりに僕も質問に答えることだった。
「今いくつ?」
「12歳です。ピエリスさんは?」
「君の倍以上かな。」
きれいな人だ。見ていてそう思う。そんな年には見えないが。
「ここは白樺の森ですか?」
「そうだよ。みんなで何しにここまで来たの?」
「……魔女狩りです。」
何の屈託もない。でも彼女は魔女なのかもしれない。彼女が仕向けた熊に襲われたのかも。そう思えるほど彼女は不思議な雰囲気を持っていた。
スープは香草が効いておいしかった。このピエリスという人物が料理上手なことだけは分かった。
「どうしてこんな所に一人で暮らしているんですか?」
表情は変わらなかったが言いよどんでいるように感じた。聞いてはいけないことだったか。
「人と暮らすのは大変だろ?煩わしく思ってしまったのさ。」
人が煩わしい。その気持ちは分かる。必要のない干渉は嫌だ。しかしマーガレットのいない世界は想像できなかった。
「ダフネ、君家族はいるのかい?」
「妹が一人。両親は他界しました。」
「そうか。妹は元気?」
「分かりません。だから早く帰らないといけないんです。」
早く帰りたい。これが一番の想いだった。マーガレットが心配しているのは間違いない。
「大切なんだね。」
ピエリスは計り知れない。どんな質問も彼女の返答は曖昧さを持っていた。突拍子のない答えが出たのは次の会話だった。
「熊はどうやって仕留めたんですか?」
「心臓を手でズバッと。」
そう言って彼女は片手を突き出す。まるで熊の心臓を手で引きずり出したように。今彼女はどんな心境で話しているのか。笑っていいのか?それともどうかしているのか。そして彼女は続けざまに言った。
「私、吸血鬼なんだ。」
信じてしまった。白樺の森にいたのは、魔女ではなく吸血鬼だったのだ。こんな早合点でいいのだろうか。確かめねば。
「本当ですか?出来れば何か証拠を見せてくださいよ。」
すると彼女はスープを置いて、自分の手にナイフを当てる。ナイフを引くと手のひらに薄く赤い線が入り、そこからほんの少し血が滴ってきた。自分から頼んでおきながら後悔する。見たいものではなかった。しかし数秒もしないうちに傷口から少量の煙が上がり、たちまち傷は塞がっていった。こんなことをさせてしまったことに改めて後悔する。
「疑ってごめんなさい。もうわかりました。信じます。」
「といっても私は本物じゃないんだよ。人造の模造品さ。」
「模造品?」
フフッと彼女が笑った。恐らく自嘲的なものだったのだと思う。またスープを僕の口に運んでくれる。
「吸血鬼にも種類があるのさ。本物が『真祖』。そいつらの手下が『眷属』。最後に人間が呪いで作った『人造』。こんなもんかな。」
じゃあ、ピエリスは呪いによって吸血鬼にされたのか?聞けない。しかし彼女は話を続けてくれた。
「私も昔は人間だったんだよ。ずいぶん昔だけど。悪い奴に捕まって勝手に改造されてしまったのさ。まあ、親に金で売られたんだ。仕方のないことだよ。末っ子で女だった。」
「じゃあ、あなたも人の血を吸うんですか?」
聞いてはみたがそんなこと毛頭思ってはいなかった。食事を食べさせてもらい、傷の手当てをしてもらっている。それともすでに首元には噛み跡がついているのだろうか。
「私はいらないよ。普通の食事でいいのさ。本来ならそれだっていらないくらいなんだ。それよりスープはどう?」
「あ、ごめんなさい。すごくおいしいです。」
「そう、それはよかった。」
いろんな顔をしている。喜怒哀楽がコロコロ変わる。そんな印象を受けた。
■
それから2週間は寝たままの生活だった。彼女のことをたくさん聞いた。実際は300歳くらいとのこと。もう家族はいないこと。もう山にこもって50年程になること。僕を拾ったのは気まぐれだということ。
あと吸血鬼のこと。『真祖』や『眷属』は物語にあるような制約を受けるが『人造』吸血鬼にはそういったものが全くない。与えられるのは不老不死と強靭な肉体、またその血のみ。彼女はそれが邪魔だと言っていた。
あと少し魔法が使えること。これも昔に50年程魔法使いと一緒に旅をしたらしい。そこで教えてもらったと。暖炉の消えた薪に「燃え上れ」の一言で炎をともしたときは感動した。魔法使いは本当にいたのだと。マーガレットにも見せてやりたい。
そして職業としては薬師をやっていること。これも昔の旅仲間に教えてもらったらしい。長生きしてみるものだ。何か入用な時は森で薬草を取って人里に下りている。なぜそんな世捨て人のような暮らしをしているか聞くと「みんなが死んでしまうのに疲れた」と言っていた。
何より最初はシスターをしていたというから驚きである。彼女に呪いをかけた者はその場で殺したらしい。何の感情の機微もない復讐だったと言っていた。それから行くとこもなく初めは仕方なくシスターとなった。しかし何年か暮らしていくうちにその生活も満更ではなくなったらしい。しかし20年ほどたった時問題が起こった。魔女狩りである。年を取らないシスターの噂が広まってしまった。彼女は火あぶりにはされず、村からの追放で済んだ。それは教会や町のみんなが優しかったからだと嬉しそうに語っていた。
兎にも角にも波乱万丈な彼女の人生は聞いていて飽きることがなかった。
そしてひと月が経とうというときに僕はやっと起き上がれるようになった。杖をもってどうにか立てるくらい。まだ下山は難しかった。早く帰らなければ。杖での歩行の練習を可能な限り行った。すると今度は手の皮が剥けてしまいピエリスに杖を取り上げられた。
せめてもの運動に玄関先のベンチまで移動して日がな一日そこで過ごすようになった。少し離れたところにピエリスが埋めてくれたみんなの墓が見えた。みんなの安らかな眠りを祈って、そして助かった自分の命への感謝を感じていた。
ここに来てひと月半、やっとこの日が来た。ピエリスの許しが出て村に戻ることになったのだ。彼女に肩を貸してもらいながら山を下る。上着もマフラーも洗って、穴はピエリスが縫ってくれた。
ピエリスと沢山話して、しばらくはうちで一緒に暮らそうと誘った。大したところではないが、マーガレットに合わせてやりたかったし、僕の調子が良くなるにつれ離れるのを寂しがり元気がなくなっていく彼女が可哀そうだった。誘いには二つ返事で了承してくれた。
出発して10分、彼女に肩を貸してもらっているが早くも息が切れてしまう。
「大丈夫?もうおぶろうか?」
「平気だよ、ピエリス。おんぶのほうが揺れて痛いんだ。」
休まずにゆっくりとだが進み続ける。マーガレットは元気にしているだろうか?流行り病は治まっただろうか?帰れるうれしさとは反面、村に近づくほど不安が増してきた。マーガレットをひと月半も一人ぼっちにしてしまった。早く帰って安心させてあげたい。
「君の村はどんな村なんだい?」
「小さいよ。100人いないくらい。あと気を付けてください。魔法がばれれば火あぶりですから。」
「死なないから大丈夫だよ。でも気を付ける。焼かれるのは嫌だしね。病が流行っているんだっけ?」
「うん。村を出る前で26人亡くなっていたから今はどうなっているか。出来れば薬師としてみんなのこと見てほしいんだ。」
「もちろん。現役を離れて100年近いけど、無駄に年は重ねてないからね。」
どこからその自信が来るのか謎めく。
来るのは一時間だったが、帰るのには休み休みで三時間半かかった。しかしやっと村に着いたのだ。人影はない。今も病が移らないよう外出は控えているのか。
うちが見えてきた。やっとだ。
勢いよく玄関を開ける。
「ただいまマーガレット!」
しかし、家にはだれもおらず、暖炉の火すら消えていた。
「そんな。」
教会前の掲示板。村民の過半数か死亡したため、村を放棄する。生存者は隣村へ。
家を探し回り、村を探し回り、やっと思い出した掲示板には信じられない内容が掲載されていた。村での病死者は51名。魔女狩りに行ったものを合わせれば村の7割程が亡くなっていた。
隣村は山を二つ超えなければいけない。今の僕には難しい。ピエリスでは道がわからない。ここで傷を治して急ぐしかない。
掲示によれば村は放棄されて半月が経っていた。マーガレットの安否も分からない。やっとのことで戻ってこられたのに、心労は重なるばかりだった。
しかし先ほどからピエリスの様子がおかしかった。マーガレットのことでひどく狼狽してそわそわしている。
「もしかして今大変な問題にぶつかっているのかい?」
この吸血鬼は何のつもりだ。
「うん。」
短い返答。余裕がなくぶっきらぼうな返事をしてしまった。
「治そうか?」
「え?」
何を言っているのか分からなかった。……出来るだけ怒気をはらまずに言う。
「治せるの?すぐ?」
この吸血鬼はおかしいのだ。たったひと月半共に暮らしただけだがそれでも言える。幼いように感じるのだ。見た目は妖艶な魔女のようななりのくせに感情の機微にうとい。彼女の感情表現はかなりストレートだ。そしてこの直球が来た。
「……出来るよ。」
罪悪感はある様だった。しかしながらこのひと月半の療養は何だったのか。すぐさま帰ればマーガレットに寂しい思いや不安をかける必要はなかった。何がしたいんだ。
「隠してたの?」
「いや……ただ、その……あの。」
悪い奴ではない。助けてくれて、皆の墓まで掘ってくれた。頭にきたがそれと同時にこの吸血鬼を頭から許している僕がいた。この命は彼女がくれた天恵だ。この命は余生と呼んでおかしくない。彼女と僕は一蓮托生なのだ。
「治せるんなら今すぐ直して。」
「……はい。じゃあお腹出して。」
服をまくり上げ腹を出す。彼女は腰のナイフで自身の手のひらを少し切る。その手で僕の紫色になった脇腹の部分をさする。痛みが引いていくのを感じた。彼女が特別な方法で僕を救った可能性を考えてはいた。血まみれの裂けた上着は着ていた者が如何に傷付いているか如実に表していた。
「……どお?」
もう痛みはしない。手のひらを切るのを見て少し許してしまった。痛いには痛いだろうに。彼女は謝罪がうまい。いや、一言も謝ってはいないがそう思ってしまう。許してしまう。この一心同体のような感覚は何なのか。謝罪と反省がヒシヒシと伝わってくる。ただ謝罪がうまい奴などろくな奴ではない。絶対にそうだ。
「いい感じ。」
つい不問にしてしまう。それだけでピエリスは笑顔になる。許されたと分かっているのだ。始末に負えない。どうしようもない奴だ。まったく。
明日早朝に出る。自宅に帰り、荷物をまとめる。ピエリスは暇そうに暖炉に薪をくべていた。今夜はここで夜を明かす。食料はそのまま残っていた。干し肉と蒸かしたジャガイモが夕食だ。簡単な食事に無言の食卓。終われば暖炉の前で動くこともない。もう横になって寝てしまおう。そう思い横になるとピエリスが後ろから抱き着いてきた。
「怒ってる?」
まだ気にしているのか。いいざまだ。精々気にしろ。許してしまった僕にはその程度の怒気しかない。
「……怒ってないよ。」
言ってしまった。怒ってるといえばいいのに。健気に見えるのだ。気分屋の彼女は表情がコロコロ変わる。今はおとなしい。今だけなのに。明日の朝にはあっけらかんとしているだろう。それでもいい。そうでないと。
「早く治ればダフネは行ってしまうだろ?寂しいじゃないか。」
「なら初めから一緒に来ればいいだろ。」
「気に入るか分からない。嫌な奴だったらどうするんだ!」
何を興奮しているのか。ピエリスが腹に回した腕が強く締まる。
「なら初めから人里に住めばいいだろ!」
さらに力が入る。
「私は、君が気に入ったんだ。寂しいからって妥協はいけない!」
何の意地なんだ。捨ててしまえ。しかしまあ、悪い気分ではない。
「私は生き方を決めている。もう私は君のものだ。君に由来する。君が終わるまで私はついて回る。」
「呪いかなんか?」
抱き着いて後ろ頭に頬ずりしてくる。恥ずかしくなってくる。
「そうだよ。私は君に取りついた吸血鬼なんだ。でも血はいらない。一緒にいて欲しいんだ。」
「どうして?」
少し間が空く。またどんな顔をしているか分からないが、少し寂しそうに彼女は続けた。
「私だっていつか終わる日が来る。いつかね。」
最後の『いつかね』は誰に向けたものだったのか。自分か僕か。そんな日が来るなんてなぜだか思えなかった。