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航海図【1】:髙田康史の場合(前)

 ヒッヒ、と喉を引きつらせるような笑い声が、小さなカンテラだけを光源とした部屋に響いた。六畳と半分ほどの部屋は埃臭くて、それに混じってほんのりと潮の匂いがする。

 部屋の真ん中には木製の四角い机が置かれている。その上には乱雑に積まれた本と、年代を感じさせる染みが点々と残る羊皮紙、中身が空っぽなインク壺にささった羽ペン。俗世とはかけ離れた仄暗い雰囲気は、洋画で観るような中世あたりの船室を思わせた。

 その室内には、二つの人影があった。一つは、奇妙な笑い声の発信源。黒の軍帽に黒の詰め襟、黒の外套と黒づくしなのに、軍帽のつばの下にある顔は暗がりでもわかるほどに白い。

「ひっひ。」

 また、奇妙な笑い声が部屋に響いた。

「楽しそうだね。」

「楽しい……? ひっひ、ひっひ!」

 楽しげに笑う声とは正反対に落ち着いた声の持ち主は、生成り色のブレザーをきっちりと身につけた青年だった。三つボタンの一番下は外して、紺色のネクタイを正しく身に着けている。そこにだらしなさのかけらも見当たらない。ブレザーの左胸には校章が色糸も鮮やかに縫い付けられている。

 べっ甲眼鏡の奥で三白眼がゆらり、青年は黒尽くめのそれを眺めた。いつ見たって不気味なその人は、男か女かも区別が曖昧だ。声はアルトのハスキーボイス。中肉中背の猫背で、身長は青年と少し低いくらい、おそらく170センチ。胸の膨らみなど外套に隠れていて判別出来るはずもない。軍帽取ってよ、と以前に声をかけたときに案外すんなり外してはくれたが、細いおかっぱの黒髪に、肉のあまりついていない頬、目はまんまるとしていて女性らしいといえば女性らしいが、それだけではいまいち決定打に欠ける。

「航海に出た。航海に出た!」

 黒の中にある白肌に、ニンマリと赤い月が描かれる。ギザっ歯をカチカチ鳴らしながら、またその影は笑った。

「ひっひ!」


*-*-*


 油をさすことを忘れられた蝶番が、悲鳴を上げながらその役割を果たす。開かれた扉の向こうは真っ暗闇、のなかにポツンと一人の中年男性が立っていた。

「な……、なんだここは。」

 夢か?、と中年男性は首を傾げる。疲れている表情ではあるが、スーツはそれなりに仕立ての良いものに見える。革靴はつま先が擦れていているはつやつや、営業用のビジネスバックは使い込まれているものの手入れは行き届いているようだ。シルバーのネクタイピンが、カンテラの淡い灯をチッチッと淡く反射する。

「ようこそ、航海する人間よ。」

 黒の軍帽を脱ぎもせずに一礼したその人は、困惑しきりの中年男性の元まで歩み寄る。皮のブーツ底が床板と擦れ合ってきゅっきゅと鳴いた。恭しく男性の右腕を取ると、有無を言わさず部屋の中へと連れ込めば、若干の抵抗の名残か男性はたたらを踏んだ。

「な、なんなんだい君たちは!」

 扉が無慈悲にも閉まる音をかき消すように、男性は怒鳴った。次の商談の時間が迫っているんだ、その後には即帰社して会議もある。今日は残業予定でその後は……、と文句を垂れながら、視線はチラチラと腕時計と目の前の黒尽くめの人間をせわしなく往復している。

「私は、「航海士」。そして貴方は、「航海」しに来た人。」

「……はぁ?」

 航海士である、と名乗ったのは黒尽くめの人間だ。その人は大仰に手を大きく広げて、ようこそ、と言う。男性は「わけがわからない」という表情を微塵も隠すことなくあんぐりと大きく口を開け、次いで片手で目元を多いそのまま天を仰いだ。両者とも中々にオーバーリアクションである。

「私は「航海」などしに来ていない! そもそもいまは仕事中だし、海に出た記憶もない!

 さっさと元のところに返してくれないか。もしくは夢ならとっとと醒めてくれ!」

 月末が、数字が、と唸るように言いつつ、男性は懐からおもむろにスマートフォンを取り出して神経質そうに指先を動かし始めた。なにか連絡が来ていないかのチェックをしているのだろうか。

 六畳ちょっとの部屋の中、テーブルを囲んで三人も人間がいるというのは実に手狭である。天井の隅っこに居を構えた蜘蛛が、騒々しいぞ何事だと好奇心で降りてきた。その影がカンテラの光で壁に移り、不気味に大きく見える。

「まあ……、落ち着いて、どうぞ。座ってください。」

 青年が、男性に向かって進言した。すると男性は驚いたように目を丸くして青年を見た。

「君は誰だ?」

「……佐藤秀太郎、といいます。」

 名乗った青年……佐藤秀太郎の足元からつま先までをまじまじと見た男性は、それでもテーブルを挟んだ眼の前にいる「航海士」とやらよりはまともに会話が出来ると判断したようで、さっと流れるような動作で名刺入れを取り出すと、秀太郎へと差し出した。

「髙田康史と申します。」

「あ、どうもご丁寧に……。」

 両手で差し出された名刺を両手で受け取った秀太郎は、紙面に書かれている情報をまじまじと見た。会社名を見てぱっとCMが思い浮かぶくらいには有名な会社で、そこで営業をしているらしい。いくつかの部に分かれている営業部の一つで営業部長を務めているらしい。部長とはなんとも聞こえが良いが、とどのつまり中間管理職で上役と部下の間で揉まれている気の毒な人種なのだろう。勝手に秀太郎はそこまで考えて、その名刺を不躾にも制服のポケットにしまいこんだ。名刺入れなどという大層なものは学生の身分で持ち合わせていないのだ。

「佐藤君の制服、電車の中でよく見かけるよ。有名な私立高校だよね、その制服。君はどうしてここに?」

 髙田の問いかけに、秀太郎はなんとも言えない顔をする。ちらりと「航海士」を一瞥して、そしてため息を吐いた。

「まあ……、成り行きで?」

「さあ「航海」しましょう。」

 怪訝そうにする髙田と、諦観の色濃い秀太郎。そんな二人などお構いなしに、ひっひ、と航海士は笑った。


 狸に化かされたと思ってください。

 秀太郎の馬鹿馬鹿しい説得と、「時間が進まない」というのをスマートフォンや腕時計などで確認して納得してもらい、髙田は無事に椅子に座ってくれる運びとなった。立ったままでも別に構いませんよ、という航海士に、秀太郎はまた一つため息を吐く。

「航海士、この方はあくまで「航海」にきたお客様でしょ。」

「そうでした、そうでした。」

 ひっひ、ひっひ。航海士の笑い方を不気味に思いながら、髙田はその空間を改めて眺めた。

 狭い室内、埃の臭いとどこからか潮の香りがする。天井まで背伸びしている本棚が二つ、何やら文字の書かれている背表紙を持った本がこれでもかというくらいに詰め込まれている。傘立てにそそり立つ傘の如く木箱に突っ込まれている丸められた模造紙のような大判の紙が何本も突き刺さっている。そんな木箱が部屋の隅に何箱も、時折ピラミッドのように積み上げられながらその数の多さを主張していた。床は適度に掃除されているように見えても、ところどころに綿埃がふわふわ。ハウスダストを持っているものならくしゃみ必至だなと髙田は現実逃避するように馬鹿なことを考えた。

「さあ、さあ、始めましょう。」

 カンテラを天井からぶら下がる紐にくくりつけた航海士が、今度はテーブルの上に大きな模造紙を広げる。カンテラが揺らめくせいで、光があっちこっちに飛び散った。

 模造紙には規則正しく線が予め引かれていた。それ以外はまだ何も書き込まれていないそれに、航海士はテーブルに置いていた中身が空っぽ「だったはずの」インク壺から羽ペンを引き抜いた。

 そのペン先は、黒くとぷりと濡れている。

 航海士は紙面の右上に、羽ペンを走らせた。

 目立つように大きく、文字が踊る。


【航海図:髙田康史】


「さあ、「航海」を始めましょう!」

 高らかに宣言する航海士は、またギザっ歯を見せつけるようにニンマリと笑った。

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