序 「少女」
『俺っ! お前のこと絶対忘れないから!』
10歳ぐらいの少年がトラックの荷台から半身を乗り出し、叫ぶ。
『ああ! 絶対だぞ!』
それを追いかけて走る少年も、涙目になりながら叫ぶ。
決して多くない家財道具を積んだトラックは、速度を上げていった。
◆
ガタンと、トラックが揺れる。
「ん……」
助手席に座る高校生ぐらいの男が、その振動で目が覚めた。
「夢、か……?」
「起きたか?」
運転席に座る無精髭をそのままにした、少しやつれた中年男がそう云う。
「ああ」
その高校生ぐらいの男――僚は、その父に素っ気なく応えた。
「もうすぐ着くぞ。新しい家だ」
父親は、左手をハンドルから離し、無精髭をジャリジャリとさわる。
「……そうか」
僚はその行為を見ながら、懐かしい夢を見た――そんな感覚に捉われた。
思い出そうとしても、はっきりと思い出せないので、すぐに思い出すのをやめた。
「今度の街は、坂の多い街だそうだ」
父親は、相変わらず、無精髭をさわる。
「へぇ」
「今度は長く住めると良いな」
「ああ」
素っ気ない態度をとる僚に、父親は怒ることはしない。僚がバツ悪く振る舞う理由を知っているからだ。
トラックが林道を抜けると、梺に街が広がる。
助手席から見えたその街は確かに坂が多いという印象を受けた。
「あの丘の下に新しい家があるぞ」
父がそう云うのでその丘を観る。その丘には白い階段が見えた。
「あの丘の上には公園があるらしいぞ。この町を一望出来て、見晴らしがいいらしい。片付けが終わったら、行ってみるといいぞ」
「ああ」
「母さんと、美加たちは先に着いている。片付けを始めているだろう」
「判った」
僚は相変わらず素っ気なく言う。
◆
おんぼろアパート。
引っ越してきた我が家をそう呼ぶのは、多少気が引ける。
僚が越してきた部屋は2階の1番奥の部屋だった。
彼の名は青陵院僚といった。
大仰な名前だが、特別資産家の息子というわけではない。それは、両親が引っ越し初日から仕事で出かけていることで判るだろう。
僚を車から降ろし、荷物をある程度運び込んで、父親は仕事場に向かったのだった。
僚は部屋に運び込まれた大量のダンボール箱の荷ほどきを、2人の妹としていた。
「お兄ちゃん! それ私の服っ! 勝手に開けないで!」
「これお兄ちゃんのパンツっ! ちゃんと箱に書いておいてよ!」
2人は、双子だった。騒がしく荷ほどきをしている。
「ごめん、ごめん」
「返事は1回でいいの!」
「はいはい」
どかっという音とともに、僚の腹部に激痛が走る。
双子の姉の美加のキックが僚の腹部にヒットしたのだった。
「返事は1回でいいって言ったでしょ! 殴るよ?!」
「蹴りじゃねーか」
「なんか文句あるの?!」
「……ないです」
「もう美加ちゃんたら、殴るならちゃんと殴らないと……。足だと”蹴る”だよ?」
そう妹の由加が言う。
「そっちかよ」
2人の妹はかわいらしいのだが、おっとりした妹の由加に対して、姉の美加は凶暴すぎるほどだった。
僚にとって、気兼ねなく接することの出来る数少ない女性である。
どんどん荷ほどきが終わっていき、大量のダンボールが畳まれ、玄関に積まれていく。
「ふう。終わったな」
「うん」
「お兄ちゃんはダンボールをゴミ捨て場に持っていって!」
「はいはい」
そう返事をした僚は、素早くその場に伏せた。
スカっ!
そんな音が似合いそうな感じで、美加の回し蹴りが僚の頭の上を通過する。
ドカっ!
美加はそのまま尻餅をついた。
「こらっ! 避けるんじゃない!」
「1度観た技は、かわすことができるだぜ?」
「バカ兄貴っ!」
「美加ちゃん……。パンツ……」
尻餅をついた美加は短いスカートが捲れあがっていた。
「な、みんな!」
「みたって、欲情しねーよ。妹のパンツだろ?」
「なっ! ばかっ!」
なぜか、美加の跳び蹴りを食らっていた。
ダンボールをアパートのゴミ捨て場に置いて、僚は腰をたたいた。
「いてて」
荷ほどきのためにずっと座っていたからだろうか、それと跳び蹴りを食らった所為もあるだろうか。運動不足も祟ってか、腰が痛い。
僚は山積みになった段ボールを観る。
もう何度目の引っ越しだろうか、僚は回数を覚えていなかった。
「ふう」
アパートのゴミ捨て場から裏にある丘が見えた。そこには、白い石田畳の階段が見えていた。おそらく、トラックから見えたあの階段だろう。その頂上には、公園があると、父が言っていた。
この町は、坂の多い町である。丘へ向かう石畳の、あまり舗装されていない階段は珍しくはなかった。
僚はその階段を登ってみることにした。
特になにかあったわけではないのだが、この町に早く慣れないと、といったよく判らない感情からだった。
「ま、気分転換は必要だしな」
僚はそうひとりごちた。
「55、56、57……」
そう数えているうちに、なぜこんなことをしているんだろうって気分になる。
引き返すかどうか考えていると、階段の頂上に白い人影が見えた。
その白い人影はワンピースの少女だった。白いワンピースに合わせたのか、白い麦藁帽子がよく似合っている。
少女とすぐに判ったのは、逆光の所為で、その見事なプロポーションが白いワンピースに浮かび上がっていたからだ。
今まで見たことがないというのは、言い過ぎだろうか? 高々15年程度の生きた年数しか生きてない。
「98、99、100、101……」
僚はわざと、その少女に聞こえるように階段を数え、頂上に着いた。公園の景色が広がるが、丘の上にある公園なので、そんなに広くない。
「え?」
僚が数え終わると、その少女は驚いたように、僚の方を見た。
一瞬脳裏に、トラックを追いかけて走る少年を思い出した。
(なんだ?)
僚の記憶にない光景だった。
「101?」
そう彼女は訊ねてくる。
その声は、澄んだいい声だった。心地よい感じがする。
身長は僚より少し低い。といってもほとんど変わらない。目線がほぼ同じなのだ。
顔立ちも整っている。歳は僚より大人に見えた。いや、幼いようにも見える。
麦藁帽子のおかげで、全体の印象はよく判らなかった。
その彼女の目もまた印象的だった。
典型的な日本人の目の色、形なのに、今までに見たことがない印象を僚に与えた。
「はい?」
僚は意味が判らず、素っ頓狂な返事を返してしまった。
「この階段は、100段のはずよ?」
「え? でもちゃんと数えたよ?」
「じゃ、間違えたのね」
「そんなはずは……」
「ここは100段って決まっているの。子供のころからのお気に入りの場所だもの。間違えるはずはないわ」
そのにこやかな笑顔は、あどけなさの残る感じで、僚には悪い印象を与えなかった。
「そうなのか」
「そうよ」
そう彼女は再び笑った。
「あなた……、どこかで……」
「え?」
「いや、見かけない顔だなぁと」
「ああ。この近くに引っ越ししてきたんだ」
「ふーん」
「君は?」
僚は思わずそう訊き返していた。
「私は……」
彼女がなにか言い始めた時、ごうっと、風が吹いた。
「あ……」
その風であおられた白い麦藁帽子が飛ばされる。その麦藁帽子を追いかけようとした彼女は、足を滑らせた。
僚は、彼女がスローモーションのように落ちてくるのが見えた。
(まずい!)
このまま落ちたら大変なことになる。
101段ある階段を下まで落ちたら、大けがは必須である。
下手をしたら最悪、死ぬことになるかもしれない。
しかし僚が驚愕しているのは、別の理由からだった。
僚には彼女に触れられない理由があった。
“僚が、女性に触ると、その女性が僚を惚れてしまう”
――という、なんとも変な能力を持っていたからだ。
能力と云っていいのか判らないが、そんな力があるんだから仕方がない。
僚はこの能力の所為で、何度も引っ越しと転校を繰り返してきたのである。
高校1年生の7月の上旬に転校という奇妙な時期になったのは、折角入学した学校の初めての遠足で、同時に複数の女生徒に触られてしまった所為にあった。
クラスのほとんどの女生徒が僚に言い寄る光景は、高校生としてはあるまじき状態である。
そのため、僚の家族は知人のいない、この町に引っ越ししてきたのだ。
その僚目がけ、今会ったばかりの少女が落ちてくる。
まさかそれを避けるわけにもいかず、僚は抱きかかえた。
しかし僚と同じぐらいの背の少女を受け止めて、まともに立っていられるはずもなく、一緒に階段を落ちるはめになる。幸い一番下まで落ちることはなく、踊り場付近まで滑っただけで、とまることが出来た。
「いてー」
僚はそう呻きつつ、またやってしまったと思った。
しかし、彼女とは初対面であるし、住んでいる場所も教えていない。
このまま逃げれば、たとえ彼女が僚のことを惚れてしまっても、まだこの町を引っ越さなくていい。
このあとすぐ分かれれば、そうそうこの町で再び会うことなどないだろう。
「だ、大丈夫?」
その少女は、自分の下敷きになってくれた僚に恐る恐る声をかける。
「大丈夫だよ」
僚はそう答えつつ、彼女の顔を見る。
「?」
彼女は不思議そうな顔をしているだけである。
(あれ、俺の能力が効いてない?)
僚はそう思いながら彼女の顔、目を見る。
彼女が赤くなるのが判った。
「あ……」
僚の手が、彼女の胸を触っていたのである。
それに気づいた僚はあわてて、彼女の下から這い出たのだった。
「……」
その彼女はなにも云わず、踊り場に座り込んだまま、うつむいていた。
僚は自分の能力の所為で、彼女はなにもしゃべらないのだと思った。
「あの、ご、ごめん……」
「……ありがとう」
「え?」
「助けてくれてありがとう」
「あ、ああ」
僚はそんな返事しか出来なかった。
「あ、帽子……」
偶然にも、落ちた2人の下敷きになっていた白い麦藁帽子は、2人の体重を支えきれなかったのだろう、ぺちゃんこになっていた。
僚は帽子を拾い上げて、渡そうとする。
が、彼女は既に数段下に降りていっていた。
「あの、この帽子!」
「あげる!」
「え?」
「あげるの!」
そう云ってあどけない笑顔を僚に向けて、去っていった。
「俺の力、効いていたんだろうか?」
今まで僚が触れてしまった少女の反応とはだいぶ違う気がした。
初対面であっても、いきなり抱きついてくるわ、家までついてくるわで、大変な思いを散々してきている。
あの彼女の反応は今までにない。
「あ、名前訊くの忘れたな……」
僚はあんな感じの娘なら付き合いたいなと思った。