1-8 悲しみ
俺たちはノエと名乗る青年に連れられて、ミルノスという村にやってきた。
鬱蒼とした樹々の中にその村はあった。
家は疎らで、本当に人が住んでるのかというほど寂れていた。
「ここがミルノス……噂に聞いてはいましたが……」
トリスティスは表情を曇らせた。
「また人が減りましたね」
クラルはいつもの憮然とした顔つきのまま、ノエに話しかけた。
「ええ。今はもう全部で二十七人しかいません。
昨夜も一人……。
畑ももうだめです。
今年は痩せた芋がほんの少しとれただけです。
とてもじゃないが食っていけない……」
「私から王都に援助を要請
してみるつもりですが、あまり期待はしないでください。
近いうちにミルノスを去るのが最善でしょう」
「そんな……親父も爺さんもここで生まれ育った……俺だって。
いつか美しいミルノスの村を取り戻すまで、畑を耕しつづけるんだ。
皆にここを捨てろなんて言えっこない!」
「気持ちはわかりますが、できるだけ早く決断して下さい。
あなた方若い男はまだどうとでもなるかもしれない。
しかし、年寄りや女子供にはここでの暮らしは酷でしょう。
王都にくればまだ皆で食べていける」
「私もクラル殿と同意見です。
厳しいことを言うようですが、皆を思えばこそ、あなたから説得してみるべきだと思います」
クラルとトリスティスの二人から諭されて、ノエは悔しそうに唇を噛み締めた。
しかし、初めてこの村を訪れた俺から見ても、ミルノスは酷い惨状だった。
家は腐敗し、蜘蛛の巣が張っている。
畑は根に荒らされ、土にはまるで水気が無い。
しかも、ただでさえ飢えと悲しみに打ちひしがれている村人達に追い討ちをかけるがごとく、魔物まで現れるという。
魔物……俺とクラルが倒した四つ足の猛獣を魔物と呼ぶなら、この村を襲う魔物も退治できるかもしれない。
「クラル、俺たちで魔物を片付けよう。
せめてそのくらい手助けしてやってもいいだろ」
「そんなに簡単にはいかない。
魔物を殺せば、少しの間は静かになるが、あくまで一時的なものだ。
裂け目がある限り、魔物はいくらでも湧いて出てくるんだ」
「そんな……」
これが白の書の言う罰だというのか。そこまで徹底的に人々を苦しめる理由がどこにある?
三天使は何故そこまで無慈悲になれるんだ……。
「それに……魔物の中には私達の手に負えない物もたくさんいる。
我々が倒したのはベハマスと呼ばれる下等な魔物だ。
所詮帝国が制御出来るのはその程度だということだ」
あれで下等なのか……。
ではこの村に現れるという魔物は……。
「ノエ、このミルノスの村に現れる魔物は、どんな種類のものなんですか?
我々に勝機があれば、手を貸そう」
なんだ、クラルもそのつもりだったんじゃないか。
しかし、裂け目がある限り魔物が絶えることは無いというのに一体どうしたらいいんだろう。
「長はバンシーだって言ってました」
「……バンシー……。厄介だな……」
考え込むクラルに、俺はある疑問を問いかける。
「なあ、クラル、裂け目がある限り、魔物はいくらでも出てくるんだろ?一体どうするつもりだ?」
「この五年で、魔物についても研究が進められて来たんだ。根絶は不可能でも、最低限、身を守る手段はある……」
「聞かせてくれ」
「わかった。ノエ、あなたも聞いておいたほうが良いかもしれない」
「ええ……俺も少しでも村の皆の役に立ちたい」
そして、クラルはこの場にいる皆にこう語った。
「神学者で自然学者のクゥイル氏によると、
魔物は人の情念に影響を受け、その形質を成しているそうだ。
そもそも、白の書によれば魔物が現れる黒い霧も、元は人の憎悪や悲しみ、
絶望といった情念が蓄積したものなのだそうだ。
過去の全ての人間の罪がそこにあるといってもいい。
つまり、昔の人々の感情が霧の中には今尚残っているのだ。
そして、裂け目は、より強い情念の残る所に現れる。
さらに、生きている人々の情念に引き寄せられ、魔物が裂け目を越えてくる。
憎悪は憎悪に、悲しみは悲しみに、絶望は絶望に引き寄せられて」
目に見えない物を信じるとしたら、クラルの話した事柄は死者の理と呼べるような気がした。
「世界が黒い霧に覆われて間もない頃、
帝国では家畜が流行病に侵され人を襲うという出来事があったそうだ。
そこで帝国は、病の発端となった農場の家畜を皆殺しにした。
するとその夜、その農場には裂け目が現れ、四つ足の魔物が現れるようになったという。
クゥイル氏はこれを『黒い霧が家畜の悲しみを鏡のように写し取った』と言っている。
似たような事例はアルビオンでも見られる。
例えば、子を失って悲しむ父母の元には子供の姿をした魔物が。
野盗に襲われ、辱めを受けた娘の元には男の暴力を象徴したような、恐ろしい魔物が……」
ノエは何かに気づいたように驚愕していた。
口を抑え、微かに震えている。
「……心当たりがあるんですね。
バンシーが現れるようになったのはいつ頃ですか」
「半年前です……」
「その時村で何かありましたか」
クラルが真剣な面持ちで青年に問う。
するとノエは、耐えきれないというように涙を流し、嗚咽に肩を揺らした。
とてもじゃないが話をできる状態ではない。
「……クラル、これ以上は」
「そうだな……もうすぐ夜になる。
魔物が現れたら危険だ。
彼を家に帰そう」
俺たちも、今晩はノエの家に泊まることにする。
「ノエ殿が落ちついたら詳しい事情を聞くことにしましょう」
「ああ……」
クラルはトリスティスの言葉を聞いているのかいないのか、
曖昧に返事はしたが、どこか上の空といった感じだった。
そして、俺たちがノエの家に入ろうとしたその時だった。
「魔物だ!魔物が来たぞ!」
「行きましょう」
村人の発した声にトリスティスがいち早く反応した。
腰の鞘に手を掛け、今にも駆け出さんとしていた。
が、クラルは思案するように下を向いたままだ。
さっきから少し様子がおかしい。
「……カーツ、トリスティス……二人で行って来てくれないか。
ノエから話を聞いておきたい」
「わかりました。魔物は我らにお任せください」
「カーツ、トリスティスを頼んだぞ。
トリスティスもいざという時は調停者を護るんだ」
「……わかった」
「はい!」
とは言ったものの、妙に腑に落ちない。
誰かが残ったほうが安心なのは確かだが、クラルが自分でそれを言い出すとは。
彼なら戦うほうを選びそうだから意外だった。
それに、本来なら俺やトリスティスを危険に曝すことを好まないような気がするのだ。
状況が状況なだけに、うだうだ考えてもいられない。
俺は一先ず詮索を諦めた。
◆
「こっちだ!」
俺とトリスティスは村人に続く。
来た時と丁度反対側から村を出る。
すると急な下り坂の麓に小川があった。
かつては美しい景色が広がっていたであろうそこには、
草木の疎らなごつごつした岩場が見渡す限り続いており、いかにも亡霊の類に好かれそうな場所になっていた。
ふと川の向こう岸に目をやると、空間を割くようにして真っ黒い切れ目があった。
『裂け目』と呼ばれる物であることは一瞬で理解した。
それは異様な光景だった。
まるで周囲の景色を飲み込まんとするかのように、ただぽっかりと、何も無い穴がそこに在るのだ。
……そして川の中腹、決して緩やかとは言えない濁った水流の只中に、身を屈め、顔を覆うようにして、そいつは佇んでいた。
女のようだがかなり大柄のそれはさめざめと泣いているみたいだった。
その啜り泣きから漏れるのは、男とも女とも言えない奇妙な声だった。
「あ、あれだ!騎士様早くやっつけて下さいまし」
村人はそいつの姿を見ると、腰を抜かしてその場に座り込んでしまった。
「お任せ下さい」
トリスティスが一直線に魔物に向かっていく。
俺も後に続く。
「たあッ!」
トリスティスが威勢よく魔物に剣を振りかぶる。
と、その時だった。
魔物が出し抜けに顔を上げ、こちらを見たのだ。
黒々とした真円の大きな目。
小さな鼻。
これまた小さな口。
尖った顎。
人の形を模しながらも、決定的に人と異なるその顔は、見るだけで相対した物の恐怖を煽る。
と、その小さな口の両端にうっすらと切れ目が浮かび上がる。
かと思えば、その口を堺にしてぱっくりと顔が上下に割れ、暗くて底の見えない喉の奥から、つんざくような絶叫が鳴り響いた。
「うわッ!」
トリスティスの長い髪が絶叫に煽られて舞い上がる。
そのまま彼女は体制を崩し、尻餅をついた。
俺も皮膚を通じてびりびりとした振動を感じていた。
その不快極まりない声を聴いて居ると、足下から寒気に全身を覆い尽くされていくようだった。
そして、急に不安と悲しみが押し寄せてくるようでもあった。
「トリスティス!大丈夫か?」
「私に構わないで、戦いに集中して下さい」
彼女はすぐには立てないようだった。俺は魔物に向き直る。
真横に大きく開いた口のせいで顔の上半分が向う側に垂れ下がっている……。
「気味の悪いツラだな……」
俺は剣を構えると、魔物ににじり寄った。
近づいてみると、その意外なまでの大きさに躊躇してしまう。
あの四つ足の魔物よりはるかにでかい。
顔は遥か見上げる位置にあり、ここからだと上顎の内側が見えた。
すると、丁度その奥にある肉の襞がぶるぶると振動を始めた。
俺は思わず横に飛びのいた。
その直後、再び絶叫が空を裂く。
魔物の正面から、川の水が一直線に割れ、両側に水の壁がそり立った。
風圧が胴の横を通り過ぎる。
どうやら直撃は免れたようだ。
見た目と音は派手だが、まともに喰らわなければどうということはない。
「カーツ殿、見ましたか?」
「ああ。正面は危険だ」
起き上がったトリスティスと目配せする。
俺たちはお互いに頷くと、左右から同時に魔物に向かって走る。
魔物はまた絶叫を放ったが、今度のそれもまた虚空にかき消えて行った。
その隙を逃さずに、俺は魔物の右足辺りに勢いよく剣を突き立てた。
くぐもった酷い声が魔物の剥き出しの喉から漏れ出た。
「トリスティス、今だ!」
トリスティスは岩場を蹴ると、俺の背丈を優に飛び越えるほど高くに飛び上がった。
その勢いのまま空中で剣を振ると、魔物の上半分の顔がぼとりと落ちた。
地の底から響くような醜い呻き声と共に、水飛沫があがり、魔物が長い胴体を川の中に横たえた。
俺たちは二人とも頭からずぶ濡れになってしまった。
「やりましたね」
トリスティスが息を切らしながら言った。
「すごい女だな、君は」
「私など、まだまだです。
カーツ殿が居なかったら危なかった。
先程の失態をクラル殿が見ていなくて良かった。
怒られてしまうところでしたよ。
さあ、村に戻りましょう」
俺たちは来た時の坂道を登る。
「ありがてえ、ありがてえ」
「立てますか?」
村人は腰を抜かしたままうまく起き上がれなかったので、トリスティスが肩を貸し、村まで連れ帰った。
「カーツ殿は先にノエ殿の家へ。
この人の家はまだ先なので私が送ります」
「重いだろ、俺が代わるよ」
「いけません。カーツ殿が早く戻らないと、クラル殿がやきもきしますので」
女の仕事ではないのに……申し訳ない気持ちになったが、トリスティスの体力なら問題ないのだろう。
軽々と村人の肩を抱えて歩くトリスティスを見送ると、クラル達が待つノエの家に急いだ。