1-7 全ての過去と全ての未来
どのくらい歩き続けただろうか。
少し開けた道に出て、山の麓が見下ろせた。
「カーツ殿、ここはもう、アルビオンの領内です。
少し気が楽になりますね」
トリスティスがそう言うと、むっとしたままだったクラルも、ようやく口を開いた。
「……麓まで降りたら王都まで間も無くだ。
みんなまだ歩けるか?」
「私は大丈夫です。……調停者殿は……」
「……少しいいか」
クラルと話しておきたかった。
蟠りを残したままで旅を続けたくないからだ。
それに、トリスティスと話したことで、俺にも目的ができた。
それにはクラルの協力が必要だった。
だから俺も、妥協できる範囲で、彼の目的に協力してやりたかった。
「お疲れでしたら少し休憩していきましょう。
半刻程度であれば日没までにアルビオンにたどり着けます」
トリスティスの心遣いは有難かった。
けれど今は……
「クラル……お前と話したい」
クラルはまるで何も気にしていないといった風にすましていた。
しかし俺に対して、微かに軽蔑の意を露わにしているようでもあった。
「……夕べはすまない。
取り乱して、妙なことを言った」
「仕方無いよ。
私も君にばかり多くを望みすぎた」
「たぶん、俺はお前を誤解している。……そうだと思いたい」
俺が殺めたであろう人々に対しての彼の言い分に、冷酷さを見た。
それはどうしても許せない。
あまりに個を蔑ろにしているように思えるからだ。
けれど、クラルの過去には、彼がそう判断せざるを得なくなった理由が、苦悩が、あるのかもしれないのだ。
それを理解するのは困難かもしれない。
しかし彼の倫理を正当に見定めるには、俺にも人生という、記憶という過去がなくてはならない。
……責任を、負わねばならない。
今の俺とクラルでは永久にこの溝を埋めることはできない。
「……クラル、お前と俺は違うんだ、決定的に。
俺には過去が無い。
それを失うことの意味が……恐ろしさがわからない。
だから生きる為の、未来への展望も見出せずにいる……。
だが、お前にはそれがあるんだろ、守りたい過去と、未来が。
だから俺もそれを取り戻したい」
理解するため。
それが無理ならせめて、歩み寄るために。
「お前には世界を救うという目的がある。
その方法には賛同しかねるが……。
俺もできる範囲で協力したい。
それが、俺の記憶を取り戻す唯一の道だろうから……」
「移り気な人だ。
しかし、歓迎する。
お互いに利用し合うのだったらね。
……悪いが、今はまだ心からの友とは言えない……」
「それで十分だ。だがお前の準備が整ったとしても、お前を聖餐に選ぶかどうかはわからない。
一年あるんだろ?
今すぐ決めなくたっていいんだ。
何なら、他の二人のどちらかを聖餐に選んだっていいんだ」
本当は誰も選びたくないに決まってる。
しかし、この場でそれを正直に明かすのは懸命ではない。
「私を選ばせる。
他の誰も、何も、失わせたりはしない。
私こそがこの役目に相応しい」
クラルはあくまで自分の命を差し出すつもりなのか……。
昨夜は正気の沙汰ではないと断じたが、それは誤りだ。
これが彼の答えなのだ。
仮に、聖餐の候補に選ばれた者達を面と向かわせ、話し合いで民主的に決めるなんて方法を取ったとしたら、どうなる?
擦りつけやくじ引きなんてやりだしかねない。
そうなったら、これほど滑稽なことがあるだろうか。
クラルのような男がくじ引きで運良く生贄を免れるなんて仕打ちに耐えられるだろうか。
賽の目に運を任せるなんて仕打ちに。
……無理だろう。
クウジャカレンに運命を告げられた瞬間に自分が名乗り出ようと誓ったにちがいない。
意思で支配できうる事柄を放棄するなど、クラルなら絶対にやらないことだ。
しかし、他の二人が、クラルと同じように自分こそが聖餐になると言いだしたらどうなるだろう。
その時もまた、結果的にくじ引きのような、意思の介入しようのない方法で選ぶことになる。
何かで競い合うにしても、そのための規則を公平にしようとすればするほど、
彼らの矜持を傷つけることになるのではないだろうか。
天使たちが調停者なる存在に聖餐を選ばせようというやり方を選んだのも、このためなのかもしれない。
彼らに情けがあればの話だが……。
「別の方法を探したっていいんだ。
誰も犠牲にせずに世界を救う方法を」
「そんなことは不可能だ。
五年の間人々が何もせずただ嘆くばかりだったとでも?」
「ではもう一年足掻いてみればいいじゃないか」
「君が考えているほど事態は甘くない……。
文化が、歴史が、刻一刻と失われていっているんだ。
人が少なくなれば、知性や能力も失われていく。
その絶対数が目減りしていく。
つまりそれだけ、失われた学問や、文学や、芸術の再興が難しくなるんだ……」
「俺とお前が違うのはそこのところなんだよ、クラル。俺には何も無いんだ」
「わかっている。記憶が無いというのはそういうことだ。
しかし、今まさにこの瞬間にも、餓えのために、魔物の爪牙のために、
悲しみと絶望のために、人が死んでいるという現実の生々しさ……これは君も共感できるだろ?」
「……ああ。だからこそ協力したい。
だが時間が欲しい。
俺にも選択肢が欲しい。
俺は……今の俺では駄目なんだ。
仮に聖餐を決めるとしても、自分にも失うものが無ければ、納得できない。
いや、記憶を取り戻したところで、こんなことは茶番だと思うだろう。
狂気だと思うだろう。
だが、クラル、お前が命を賭けるとまで言ったんだ。
この不愉快な儀式が、せめて俺にとっても危険なものであってほしい。
だから記憶を取り戻すまで待ってほしい。
それが叶わないなら、俺が今より世界を知って、
お前のことをほんの少しでも理解できるようになるまで、待ってほしい」
「言っただろう、私は君に理解を求めない。
……私が君の立場だったとしたら同じことを望むだろうがな。
しかし、それとこれとは別だ。
私は人間が築きあげた、命ではないもののために聖餐となることを誓った……。
君さえ都合がよければ、何もアルビオンまで行かずとも、今この場で私に決めると宣言してくれてもいい」
堂々巡りだった。
クラルは自分を曲げる気は微塵もおこしそうにない。
こちらが譲歩して彼の理想に擦り合わせていくしかないのか。
「お前以外の二人のところにも三天使の誰かが告知に行くんだろ。
それなら、その二人にも会わなくては。
俺たちは利用し合う間柄だもんな。
付き合ってもらう。
俺を調停者と認めるなら選択権は俺にあるはずだ」
お互い引かぬままだったが、俺のしぶとさに、ついにクラルが根をあげた。
「……わかった。他の聖餐を探そう。……不本意だが、おそらく三天使もそれを望んでいるはず……。
だがまずはこのまま王都に向かう。元老院に調停者が現れたことを報告しなければ」
「……ありがとう」
やっとこの頑固な男を陥落させることに成功したぞ。
俺は心の中で密かに喜びにひたった。
そして俺たちは再び歩きはじめた。
クラル達の国、アルビオンを目指して。
◆
少し歩くと、林の中から何者かの気配を感じた。
一行の間に不穏な空気が漂う。
「待ってください!騎士様」
現れたのはごく普通の青年だった。
気の弱そうな、貧しい身なりの若者。
年はクラルより少し若いくらいだ。
「……あなたは」
「俺はノエと言います。
この先のミルノスの村に住んでます。
狩りに出かけた帰りにあなた方の姿を見つけました。
騎士様、俺たちに力を貸してください」
「ミルノス村……クラル殿は魔物の調査で訪れたことがあるそうですよね。
一体何が起きたのでしょう」
「近頃、村に魔物が来るようになったんだ……。
ただでさえ生活に困っているところに魔物が出てきて、人を襲うんだ」
魔物、という言葉にクラルが反応を示した。
「魔物に殺された者がいるのですか」
「十日ほど前に一人……。
半年前に現れてからもう三人殺された。
みんな隠れて怯えてる。
それでなくても、飢えや病で次々に人が死んでるんだ」
やはり、魔物か。
弱き者たちがあれに苦しめられているとしたら、見過ごすわけにはいかない。
「俺たちが行くべきじゃないか?」
「……仕方ない」
クラルは少し迷ってから、そう答えた。
「魔物退治ができるかどうかはわからない。
しかし、ミルノスの村の現状は知っておきたい。
少しだけ様子を見させてもらおう」
心優しいトリスティスは案の定、村人の肩を持っているようだった。
冷たいクラルの言葉に噛み付く。
「一日くらい到着を遅らせても問題ないのでは?
今夜はミルノスに泊めてもらうことにして、魔物についても、協力するべきです」
「それは魔物次第だ。
とにかく、先導してくれますか、ノエ」
「ありがとうございます!」