1-6 人生
翌日。
結局、俺はこうしてクラル達と共にいる。
クラルの覚悟を思えば、ここで別れるわけにはいかない気がしたからだ。
……昨夜の俺は身勝手だったかもしれない。
こうして朝日を浴びると、やけを起こして魔物に喰われようとしていた気分が嘘みたいに感じられた。
自分からこれを外そうだなんて。
愚かだった。
けれど、仕方がないではないか。
あんなことを、受け容れられるわけがない。
多数の為に一人を犠牲にするなど。
それも、この俺自身の選択によって。
そしてもう一つ。
クラルによって突きつけられた事実は、あまりにも耐え難いものだった。
自分は人ではない。
クラルが言った、もう一つの俺の姿というのが、何だったのか。
きっとろくでもない物に違いない。
だがそんなことは最早どうでもよかった。
人を殺した。
それも、一人や二人じゃない。
夢の光景を思い出す度に、叫び声を上げたくなる。
キャンプを後にしてからというもの、そのことばかり考えていた。
◆
あれから三人の間に会話は無かった。
しかしトリスティスは、ぴたりと俺の隣に張り付いて歩き、時々様子を伺っているみたいだった。
昨夜彼等の元を離れようとしたものだから、警戒しているのだろう。
お生憎様だ。
今は逃げる気力も無い。
クラルはというと、一行の先頭に立ち、どんどん進んでいった。
まるで疲れ知らずだ。
僅かにも振り向く気配を見せない。
……苛立っているのだろう。
原因が俺にあることは明らかだった。
頭に血が上って、冷静さを欠いていたことは認める。
だが、誰だって混乱するはずだ。
次々に常軌を逸した事態に遭遇すれば。
おまけに俺の場合は、自分が何なのかすらも、よくわかっていないのだから。
しかし、少しでも考える時間があれば、昨夜よりはましにクラルの言葉を理解する努力もできたと思う。
もしかしたら、俺たちはお互いを誤解しているのかもしれない。
肚の中を明かせば、俺も、クラルも、怒りの対象は同じものであるかもしれないのだ。
理不尽な運命。
それに翻弄されているという意味で、俺とクラルの境遇は似ている。
しかし、一点だけ、俺と奴には決定的に異なる部分がある。
この俺には、何も失う物が無いという事実だ。
家族も、恋人も、故郷も……。
希望も……。
クラルは『全ての過去と全ての未来』のために命を賭けると言った。
俺はその言葉に、彼の狂おしいまでの情熱を感じた。
それに共感できないという事実が、記憶と共に失った何かの重要性を示していた。
そして、俺が失ったその何かは、クラルの持つそれとは別物だ。
できることなら取り戻したい。
そのために、生きてみてもいいだろうか。
◆
何か、手がかりはないだろうか。
……そういえば、クウジャカレンも俺について何か知ってるようだった。
夢の中の男……ジェスラードも。
彼もまた、三天使の一人ということなのだろうか。
恐らくそうだろう。
俺が調停者とやらだというなら。
調停者。
秩序をもたらす者だと、クラルやトリスティスは言う。
だが、俺にはまるで逆の存在に思える。
そう、死神だ。
『抑止力』と呼ばれたこの眼帯が封じているもの……。
それが秩序を齎すと、彼等は言う。
超越的な力で他者を屈服させることが。
だが、そうやって恣意的に作られた秩序は不健全だ。
歪んでいる。
……自分が何を根拠にそう考えるのかは、よくわからなかった。
ただ、抑止力という言葉が喚起する印象は、俺の認識の中で、何か不快な、複雑な……。
圧倒的な絶望を予感させるのだった。
その『抑止力』と『聖餐』が、どこでどう繋がるというのだろう。
調停者が自身を守る為の力……。
確かに、それも必要なのかもしれない。
今持っている情報だけでは、まだはっきりさせることはできない。
これを探ることも、自身の過去の究明に繋がるような気がした。
白の書、三天使、聖餐…………。
俺のルーツを解く鍵がここにあることは間違いない。
手っ取り早いのは、聖餐の一人でもあるクラルに、このまま身を任せることだ。
聖餐。
その一人の命で全ての人間の罪を贖う、だと?
『白の書』にも、神話にも、何の思い入れを持たない俺にとって、これはとてもじゃないが賛同できることではない。
狂気だ。
だがそう感じるのは、俺がこの世界にとって異物である証拠なのかもしれない。
少なくとも、クラルやトリスティスは白の書や三天使の存在を受け容れている。
何故なら、俺に『聖餐』を選ばせるという目的の元に彼らが行動しているだろうことは、これまでの二人の振る舞いを見て明らかだからだ。
異物……。
そう俺は、アルビオンの人間でも、ガレンティアの人間でも、無い。
記憶を失ったただの人間なのではない。
化け物だ。
黒い霧から生まれた魔物達と同類の……。
そこまで考えてめまいがした。
ふらり、と後ろに倒れそうになる。
「調停者殿!」
すんでのところで、惨めに坂を滑り落ちずに済んだ。
トリスティスが俺を支えてくれていたのだ。
「どこか体の具合が芳しくないのですか?
無理をしないで下さい。
気分が優れないのでしたら、どこかで休みましょう」
「いや、大丈夫だ……」
トリスティスは純粋な娘だ。
僅かな時間を共にしただけだが確信を持ってそう言える。
昨日の行動には驚いたが、クラルの部下として、責務を全うしたにすぎないということは、彼女の真っ直ぐな性格からして、明らかだった。
そんな彼女の顔を不安に曇らせるのは忍びない。
気を強く持たねば。
俺は土をしっかりと踏みしめ、再び歩き始めた。
そんな俺の様子に、トリスティスは安心してくれたようだ。
先程と同じように、俺の隣について歩を進める。
「カーツ殿……ありがとうございます」
「え?」
ありがとう?
叱責なら分かるが、何故今そんな言葉が出てくるのだろう。
「貴方は私たちを見捨てなかった」
それはつまり、俺が彼女達の元を去らなかったから……だろう。
驚いた。
彼女がそんなことを言うなんて意外だ。
なんだかむず痒い。
俺は単に死を選ぶ勇気もなく、自分自身に目的があるわけでもなく、
なし崩し的に今こうしているというだけなのに。
お人好しというのか、楽観的というのか。
……いや、そうじゃない。
トリスティスもまた、クラルと同じように強い意志を持って行動しているのだ。
懸命にこの俺を好意的に捉えようとしているのかもしれない。
彼女らの言葉を借りれば、世界の命運が懸かっているのだから。
なんだか自分の不甲斐なさが腹立たしくなってきた。
俺に対する彼等の期待は、とんだ買い被りだ。
彼等が調停者と呼ぶこの男は、ちっぽけで、空っぽの存在なのだ。
「まだわからないぞ……」
俺自身が自分に何も期待していないというのに。
過大評価も甚だしい。
「いいえ、きっと貴方は私たちを救ってくれる」
「なぜそれほどまでに俺を信じられる?
俺の何を知っている?」
俺には何もない…………。
「わかりません。でも貴方は、私たちのかわりに怒ってくれた……。
あの天使様に向かって。
正直、胸のすく思いでした」
驚いた。
クラルのほうはそのことが気に入らないみたいで俺の顔を見ようともしないのに。
堅物という印象を抱いていたトリスティスから、そんなことを言われるとは思ってもみなかった。
「……意外だよ。
怒ってくれた、なんて言葉が出てくるとはね。
ひょっとして、君は聖餐を選ぶことに対して疑問を抱いているのか?」
「……お恥ずかしながら。
一個の生命と、他の全ての生命を天秤にかけることは、禁忌であると感じます。
私の倫理に於いて。
天使様は我々の持つ倫理を超越しておられるのでしょう。
彼等が神秘の存在であるなら、考えられること。
ですが……私はクラル殿のように全てを割り切ってしまえるほど、器用ではありません。
女の身で聖餐に選ばれることは無いでしょうけれど、
仮に、私が彼の立場だったとしても、同じ決断はできなかったと思います。
自らを『聖餐』に選べだなんて。
私はまだ、死が恐ろしいのです。
どうしようもなく」
「驚いた。俺も同意見だ」
まるで当然のことのように、自らの命を投げ出すと言い放ったクラル。
この世界では、それが当たり前の価値観なのかと思っていた。
けれど、この娘、トリスティスの生と死に対する認識は、俺自身の物と限りなく近いものがあった。
「……私は騎士です。そして、クラル殿の部下にすぎません。
彼に意見することは傲慢です。
判断はクラル殿に委ねるほかないのです。
一度決定が下されたなら、全てを捧げて彼に従います」
「……でもこうして、俺に君自身の意見を聞かせてくれた」
「私にクラル殿を変えることが出来なくても、貴方にならできるかもしれないでしょう?」
俺はその言葉に思わず目を見開いた。
……彼女が俺に抱いているものは、期待だ。
『調停者』としてでなく、俺自身にそれを求めているのだ。
「……クラルが聞いたら何ていうだろうな」
「彼には今の発言は秘密ですからね?」
そう言って慌てる彼女は、少女のようで、なんだかおかしかった。
前を歩くクラルがこちらの様子を気にしているみたいだったが、話の内容までは聞こえていないだろう。
「本当はクラル殿が誰よりも怒っているんです。
信仰と倫理の狭間で、苦悩し、葛藤しているんです。
それ故に、何のしがらみもなく振る舞える貴方を羨ましく思っているんですよ。
彼のことだから、それに恥を感じて、ああして拗ねているのでしょう」
クラルやトリスティスは騎士だといったか。
アルビオンの情勢の詳しいことはわからないが、多くの命や責任を背負っているはずだ。
「俺は随分軽はずみだったんだな」
「そんなことはありませんよ。
貴方のような正直な人が居るから、人は人らしくいられる……」
人……誰かにそう言ってもらえるのは救いだ。
その言葉には縋りつきたくなる。
けれど、罪悪感がそれを許さない。
自分は人を殺したのだ。
それも、一人や二人でなく……。
「俺は人じゃない。化け物だ」
「『抑止力』のことですか……。
私は直接見たわけではありませんのでそれについて意見はできませんが……。
今ここにいる貴方を見て言えるのは、貴方は人に間違いないということです」
「…………」
「記憶が戻れば、わかることではないでしょうか……」
記憶が在ればの話だ。
「……俺という存在があの時に生まれたので無ければな」
「自分が信じられないのですね。
ではせめて、少なくとも私という一人の女が、貴方が人であると信じていることを、心に留めておいて下さい。
貴方の振る舞いには、確固たる価値観が垣間見える時があるんです。
それは自身の生を生きたものにしか持ち得ないものです」
彼女の言葉には説得力があった。
確かに、今ここにいる俺自身は人以外の何物でもない。
人によく似た別の何かである可能性は大いにあるが。
それを確かめる方法は記憶を取り戻す以外にないだろう。
「君は不思議な女性だよ、トリスティス……」
彼女と話をすることができてよかった。
記憶を取り戻すことが最初の目的だ。
本当の目的はそれから探せばいい。
それが更なる苦しみを俺に与えることになったとしても。
「いいえ、普通ですよ。
当たり前に考えてこう思っただけです」
「そういうところもな。最初はクラルと君は似ていると思ったんだが、まるで違うな。
なんというか、君は融通が利くし、暖かい」
「あの人は変わり者です……。
いつも遠くばかり見ていて……」
「あいつは、昔からああなのか?
その……偏屈というか、少し普通じゃない気がするんだが」
「……さあ。私も昔のあの人をよく知らないので」
「君とクラルはいつから……」
「わかりません」
「わからない?」
「……隠していても、事を進め辛いので、お教えしましょう。
私には、五年前……世界が霧に覆われる以前の記憶が無いのです」
「……なんだって……」
「貴方と同じですね」
「一体どうして……」
「それも、わからないんです。ただ私は、普通の女性とは少し違います。
私の身体に、何かが起きて、それが記憶に障害を与えているのでしょう」
「……俺の記憶喪失とは、関係が無さそうだな」
「残念ながら」
自身の生、価値観、といった言葉を彼女が用いたのは、この為だったのか。
彼女もまた、俺と同じように、記憶が無いことによる苦悩を抱えているのだ。
「……クラル殿は、私の過去を知っているようでした。
両親を魔物に殺され、孤独だった私を保護し、鍛え上げてくれたのも彼でした。
始めの頃はあまり口も聞いてくれなかったのですが、
今ではこうして騎士として一人前に扱ってくれています。
ああ見えて、随分丸くなったのですよ」
五年前……。
ちょうど世界が霧に覆われたという時期と重なる。
その時トリスティスの身に、何が起きたのだろう。
彼女とクラルはどうやら古くからの知り合いのようだが……。
なんとなく、『全ての過去と全ての未来』に込められたクラルの悲痛な祈りと関わりがあるような気がしてならなかった。
「カーツ殿。私と貴方とでは、置かれている状況が、立場が、異なるかもしれません。
けれど、記憶を失うことの不安は私にもわかります。
だから、貴方の力になりたい……」
「……俺の力に?」
「ええ。こんな私で良ければ」
「ありがとう。君のおかげで、当面の目標がはっきりしたよ」
「それは良かった」
「記憶を取り戻したい。
……そして、できることなら、君の記憶を取り戻す手助けがしたい」
トリスティス。
まだ会ったばかりだが、彼女はここイシスという世界で出会った、最初の友と言えるかもしれない。
目覚めてから絶望しか知らなかった俺の生にも、輝きがあるのかもしれない。
彼女はそう思うきっかけを与えてくれた。
夜が明けてから未だ一言も話そうとしないクラルの背を睨みながら、俺はひたすら歩き続けた。