1-5 一人目
クラルは俺の目をじっと見て意志を認めたようだった。
「……私が初めて君を見た時、君は今とは違う姿だった」
「どういうことだ?」
「……人ではなかった。
そして、君の周りには多くの人が……その……血を流して倒れていた」
人ではなかった。
そうか。
そうだろう。
あんなことができるのは、人間らしい心を持った者、以外だろう……。
「……そうか」
予想はしていた。
牢獄にいた時から。
「やはり俺が殺したんだ……」
諦めと、絶望と、無力感に、襲われる。
もう取り返しがつかない。
あの時の、具体性や、意志を伴う記憶は無い。
しかしだからと言って、俺に罪が無いわけじゃない。
俺が殺したんだ。
「……それについては言葉もない。
だが、気を落とさないでくれ。君はこれから多くの命を救うんだから。
神は……オフイスは、抑止力を示すために、君に人を殺めさせたのかもしれない。
あのときの君は誰にも止められなかった。
君自身にも。
あの姿の君に意志があったとは思えない。
あれはまるで……機械だった」
「神が、俺に、人を殺めさせた?」
クラルに罪がないことはわかっていたが彼を睨まずにはいられなかった。
そんなことのために神は、命を奪うのか?
「決して軽率な考えで言ったんじゃない。
争いを止めることができるのは人知の及ばない超越的な力だけだ。
だから調停者である君はあの力を持っている。
事実、誰も君を殺せなかった。
君が殺めた人々は殆ど、君を殺そうとした者達だ。
あの生き物は……あの機械は……無抵抗な者達には反応しなかった……。
帝国は法術師を集めて君の力を封印した。
それがその眼帯だ……」
「…………」
「私は今の君が本来の君だと思う。
だから、もう一つの姿の君は君じゃないんだ。
あの姿自体が抑止力そのものなんだ。
その眼帯がある限り、君は自分の自由意志を保てる。
もう大丈夫だ。
あんなことは二度と起こらない」
「だが失われた命は戻らない」
「その償いのためにも調停者の使命を全うするんだ」
「詭弁だ。俺はそんな役目は御免だ」
どうも噛み合わない。
俺は赦しが欲しいんじゃない。
裁いて欲しいのだ。
白の書とやらにしても、クラルにしても、多数のためなら少数の死を厭わないというのか。
それよりも何よりも、自分自身が今こうして、のうのうと生きていることが許せなかった。
クラルについてきたのは間違いだったかもしれない。
彼とは根本的な部分で意見が合わないことがわかった。
彼に問題があるのではない。
俺自身が、彼の要求するような存在では無かっただけだ。
『調停者』など、こっちから願い下げだ。
「これ以上、お前たちと行動を共にすることはできない……。
すまない。
期待に応えられなくて……」
俺がそう言うと、クラルは押し黙ったまま、眉間に皺を寄せた。
少し、申し訳ない気持ちもある。
一時は彼らに運命を委ねようとしたのだから。
それについては、自体性の無い俺に責任がある。
それでも……もういても立ってもいられなかった。
魔物に襲われたならこの身を差し出そう。
帝国に辿りつけたなら彼らに裁いてもらおう。
俺は立ち上がり、来た道を戻ろうとした。
「悪い冗談ですね、調停者殿」
振り向く間も無く、後ろから膝を蹴られ、もんどり打って倒れた。
すかさず背中を抑えられ、腕を拘束される。
今の声……。
上に乗っているのは……トリスティスか。
「カーツ、私は神を信じている。
だが、抑止力を認めているわけじゃない」
クラルはそう言いながら、俺の上に乗るトリスティスに目配せした。
抑える力が強くなった気がした。
なんとか腕の拘束を解こうと試みるが、びくともしない。
こいつ……本当に女か?
「世界が健全な形で再興するために力を貸して欲しい……。
それが終わったら君の身の振り方にとやかく言うつもりはない。
責任の重みに負けて、自害でもなんでもするがいい」
冷たい目が見下ろしていた。
抑揚の無い声から、有無を言わさず俺を従わせようとしているのがわかる。
これが本当のクラルなのか……。
「君が抵抗し拒絶するなら、君の意志の自由を奪わせてもらう。
私は歴史を守るためには、手段を選ばないつもりだ」
その言葉は悲痛な叫びのようにも聞こえた。
『白の書』に書かれていることが真実だとしたら、
聖餐を選ばなければ人類は滅ぶのだ。
クラルが必死になるのも無理はないかもしれない。
『白の書』とやらが、実在するならば。
「君の理解は求めない。
私は、ただ他の命のために命を賭すなど、愚かな真似はしない。
全ての過去と全ての未来のため、
人の築きあげた精神のために、この魂を捧げる」
捧げる?なぜクラル、お前が?
「お前は口が滑りすぎるなクラル。それは私の口から調停者に伝えたかったよ」
ここに居ない何者かの声。
低く張りのある、心地良い響きだ。
不思議なことに、耳では無く頭蓋に直接伝わってくるようだった。
やがて眩い光と共に、声の主が姿を表した。
その大きな存在は翼を持ち二本足で立っていた。
「女よ、調停者を放してやれ」
それがトリスティスに向かって言い放つ。
腕の拘束が無くなり、背中から重さが無くなった。
俺は立ち上がり、膝に付いた土を払った。
クラルが放心したように、呟いた。
「クウジャカレン様……」
クウジャカレン……。
これがこの翼を持つ生き物の名だというのか。
そいつは惚れ惚れするほど屈強な男性の身体に鳥の頭を載せていた。
一言で表すなら、異形。
……これは……一体なんだ……?
「やはり彼が調停者で間違いないのですね、クウジャカレン様」
クラルはその者に対し、仰々しく腰を屈めた。
そうか……これが天使と呼ばれる存在なのか。
しかし、この姿はまるで……。
天使というより、むしろ……。
「そうだ。まさしくこの男が調停者だ」
クウジャカレンはその奇妙な嘴を俺の方に向けた。
……いよいよ『白の書』の内容が現実味を帯びてきてしまった。
俺以外にも、この場にいる全ての者が、クウジャカレンという存在を認めているのだ。
これは現実以外の何物でもない。
だとすれば、あの神話も、予言も、信じるほかない。
「調停者、カーツよ。
お前が選ぶのだ。『聖餐』を」
俺に言っているのか。
クラルとトリスティスは、固唾を飲んで俺の返答を伺っているようだった。
「…………俺の意志は関係ないのか?」
「……そうだ」
……多数の為に、一人の命を……?
「……なんだよそれ。一体どうやって……」
文句を言おうとしたが、例の威圧的な声に遮られてしまう。
「その時がくればわかる。
猶予は凡そ一年。
それまでに『聖餐』を見極めろ。
『聖餐』が選ばれたなら、今すぐにでも霧は払われ世界に虹が射すだろう。
しかし一年の後、『聖餐』が選ばれなければ黒い霧は天を覆う壁となる。
再び霧を晴らす機会は二度と訪れない。
我らが『不完全な神』が選んだ『聖餐』の候補は三人いる」
「三人?」
「一人はここに」
そういってクウジャカレンは俺の後ろを指差した。
……クラルだった。
「……クラルが聖餐の一人……だと……?」
「其奴は自身が聖餐であることを既に知っている。
だからお前との接触を試みた。
自分を聖餐に選ばせるために」
「そうなのか……クラル?」
クラルは俺の問いに微笑を返すのみだった。
血の気が引くようだった。
自分を聖餐に選ばせるため……?
狂気の沙汰だ。
つい先ほどクラルに感じた印象を覆される。
確かに彼は、何一つ軽率な事は口にしていない。
自分が全てを背負うつもりでいたのだから。
「他の二人のところにも俺以外の天使が知らせにいくだろう。
カーツ、お前もじきに二人の聖餐に会わねばなるまい。
クラルを含めた三人をよく吟味することだ」
成る程これは確かに天使かもしれない。
俺たちの力の、遠く及ばない存在だ。
こうして対峙しただけでも、圧倒的な大きさの差を感じる。
彼の姿は人間よりふた回り程大きいだけだ。
けれど、発する気配の強さが人間のそれとはまるで違う。
恒星を目前にしているかのような存在感だ……。
だがそうだとしても……。
人間を遥かに凌駕する上位存在なのだとしても……!
クウジャカレンがやろうとしていることは、とてもじゃないが許せるものでは無い。
俺の価値観に於いては。
「巫山戯るなッ人の命を玩具みたいに……!」
我慢できなかった。どうしても許すことができなかった。
クラルやアルビオンの人間にとっては、神話の世界の住人なのかもしれない、この生き物が……。
「カーツ、なんてことを……」
クラルが俺の肩を掴む。
構うものか。
こいつをこの場で殺せるなら『抑止力』だって……。
俺はあの眼帯に指をかけようと……
「それだけは……!」
クラルに掌ごと眼帯の上から抑えられて外すことは叶わなかった。
「ははは……それでこそお前だ。
楽しみにしているぞ、調停者」
そうこうしているうちに、
哄笑と共に後光に吸い込まれるようにしてクウジャカレンはその姿を消した。
何の痕跡も残さずに。
俺はただ呆然と、天使と呼ばれた生き物が存在していた場所を見つめていた。