1-2 喪われたもの
ここは……。
また、知らない場所だ。
ぼんやりと霞んだ視界。
ゆらゆらと揺れる、淡い光。
見渡す限り白い細かな霧が続くばかりだ。
一瞬、身体が宙に浮いているように錯覚してしまう。
……錯覚ではない。地に足が着いている感覚が……ない。
まるで、主体だけがここに存在しているように……。
「………か?………ツ」
これは夢か?それとも……。
「……い……。……聞こえるか?」
誰かが呼ぶ声がする。
「誰だ?」
その微かな声に対して呼びかける。
「なんだ、聞こえているじゃないか。カーツ」
カーツ?俺に言ってるのか……?
「……カーツ。らしくないな」
「何故俺をカーツと呼ぶ?」
それが俺の名前なのか。
「……どうした?」
眼前に浮かんでいた光の揺らめきが、少しずつ大きくなっていく。
やがて霞を掻き分け、声の主がその姿を現した。
ある違和感。
彼は人間……ではないのか?
いや、その違和感は彼の姿を見る前からここに在った。
ーーーー四枚の翼……天使?
そう、天使だった。
何故そう思ったのだろう。
それは言葉と同じように、普遍的な概念として喪失を免れた記憶だからだろうか。
それとも、俺が彼を知っているからだろうか……。
「お前まさか……」
天使としか言いようのないその存在が息を呑む。
「頼む、俺のことを知ってるなら、なんでもいい、何か教えてくれ。俺は誰だ?何者なんだ?」
「しまった。こんなことは想定していなかった」
俺の言葉を聞いて、目の前の光り輝く生き物は混乱したようだった。
しばし逡巡するように押し黙る。
改めて、天使にしか見えないその生き物を観察する。
四枚の翼以外は俺と同じ、二本足の人間の姿に見えた。
光に輪郭が揺らめいて、顔立ちまではわからない。
わからないはずなのに、存在自体がぞっとするほど美しかった。
その美しさの正体は、さっきからの強烈な違和感の謎と関係があるように思える。
やはり、これは夢なのだろうか。
彼が放つ光が……混ざりあって……今この目に映しているもの……。
それとも、脳がそれと認識しているもの……。
これは何という概念だったか……。
とても重大な何かだったはずだ。
どうしても、思い出せない。
頭の後ろのほう、すぐそこというところに謎を解く鍵がある感覚がする。
すぐそこなのに。
「……なるほど。してやられたよ。
わかった。降参だ。それがお前の望みだというなら、私はそれを邪魔するつもりはない」
天使の発した声に気を取られ、掴みかけた鍵を落としてしまった。
手がかりを無くした俺は、やむを得ずもう一つの解決できそうな謎に取りかかる。
「あんたが何を言っているのかさっぱりわからない。
あんたは誰だ?俺を知っているなら何か教えてくれ……」
「では、私のことはジェスラードと呼ぶがいい。」
「ジェスラード…?」
やはり、聞き覚えが無かった。
「お前の名はカーツで間違いない。私が教えられるのはそれだけだ」
何故そうまで断言するのだろう、と一瞬訝しく思ったが、自分でも妙なことに俺はそれを受け入れていた。
たとえ俺がカーツとかいう人物で無かったにしても、
それが今この瞬間に与えられた名前だとすれば、不思議としっくりきた。
なにより、目の前のあまりに神々しい姿の生き物から言われると、
無抵抗に信じるほか無いような気がした。
「しかし…では何故こうして無事にコンタクトすることができている……?それとも……ああ、そうか」
俺……または俺とは別の誰かに言い聞かせるかのようにジェスラードは独りごちる。
「確かにそれが最も公平なやり方だ。まあお前のことだから、
別の目的…いや、愉しみの為にそうしたのだろうがな」
と、急に確信めいて俺の目を真っ直ぐに見つめてくる。
彼自身が放つ光のせいで表情が読み取れないが、確かにこちらを見ている。
「何もかも周到に準備されているとしたら、
お前とこうして話すことも、おそらく当分は不可能になるだろう。
だからこれだけは伝えておく」
実に残念だ。
俺はなんとなく、彼がほぼ全ての秘密を握っているだろう事を、その口ぶりから察していた。
「お前が選ぶのだ。他の誰でもないカーツ、お前が。何のことかはすぐにわかる」
次から次へと与えられる新たな謎に、目眩がしそうだった。
「……それにしても、あの力……。あれがこの人類にどんな結末を齎すのか、実に楽しみだな」
「あの力?」
「『抑止力』……その眼帯が封じている力だ」
◆
「起きて下さい。」
また遠くで声が聞こえる。
さっきとは異なる声。
やはりあれは夢だったのか。
それにしても、夢とはこうも唐突に終わるものだっただろうか。
「生きている……のか?」
これは……知っている声だ。
「生きているのだったら、起きて下さい」
目を開ける。
そこにいた青年は見覚えのある顔で、なんだかやっと地に足が着いた心地がした。
「あんたは……確か……クラル?」
「………ええ」
クラルが安心したように息を吐いた。
そこでやっと、眠っている間に身体が横たえられていたことに気がつく。
起き上がる。
自分を拘束していたであろう鎖と鉄輪。
それらがくすんだ天井から垂れているのを見る。
手首に少し擦り傷があるだけで大した痛みは無かった。
「良かった。さっきより落ち着いたみたいですね」
事実、興奮は去っていた。
眠りが思いのほか恐怖を癒してくれたようだ。
肉体が精神にもたらす作用は侮れない。
「……これを」
渡されたのは細身の直剣だった。
質素だが良い造りのものだ。
手の中のそれを見つめながら、再度自分の常識の在処を詮索してみる。
が、すぐにやめた。
今後もこれと似たような矛盾と向き合うことは避けられないだろう。
その矛盾の連続が、俺という人間なのだ。
いちいち問答を繰り返してる暇はない。
カーツという名前を得たことで、自我が大分安定した気がする。
考えても仕方がない。
前に進むことだ。
この自信に満ちたクラルという若者の言う通りにするのが、その近道に思えた。
というより、そうするしか他にあるまい。
例え彼が間違っていたとしても。
「あまり時間がありません。ここを出ます。
なるべく静かに、私と離れないようについてきて下さい。
それと、有り合わせですがこれも」
洗われた下着に、シャツやズボン、ブーツ、外套といった衣類一式を手渡される。
囚人とは言え、俺が身につけているものは酷い襤褸だった。
クラルが有無を言わさぬつもりで待っていることが分かったので、着替えにとりかかる。
と、上を脱ぎかけたところで顔にある何かがひっかかった。
一旦脱ぐのをやめ、顔の一部を覆っている何かに触れてみる。
頑丈な皮のような物が、右目を隠すように巻き付いていた。
「うっ……」
まただ、またあの血生臭い光景……。それに指先が触れたのと同時だった。
が、例の悪夢の印象は、一瞬後には既に霧散していた。
この肌を覆う物は……眼帯?
ジェスラードの言葉が蘇る。
ーーーーーー『抑止力』……その眼帯が封じている力だ。
『抑止力』……。
俺の目と、何か関係があるのだろうか。
再び言いようの無い恐怖と共に、憶測が脳内を飛び交う。
「それははずさないでください」
存外にきつい語調だったので、思考を中断せざるを得なかった。
初めて見る、クラルの冷徹な目。
理不尽に思いながらも、着替えを再開する。
考えても仕方ないと決めたではないか。
そう強引に言い聞かせて、ごまかそうとした。
が、ある疑惑が胸につかえて、酷くもどかしかった。
眼帯に触れた瞬間、あの最古の悪夢の光景が、ちらと頭を過ぎったのだった。
「……やはり良い身体をしている」
こんな時に何を言い出すのかと思えば。
一瞬クラルに怒りを覚える。
しかしその一瞬後、あまりに彼に似つかわしくない台詞に、なんだかおかしくなり、吹き出してしまった。
背を向けてシャツに腕を通しているところだったが、後ろでクラルが声に出さず笑ってる気配がした。
張り詰めていた空気が緩んだ気がした。
「それにしても、名前が無いとやはり不便ですね。
ひょっとすると、私と貴方はこれから長い付き合いになるかもしれませんよ。
自分の名前、考えてみたらいかがですか」
「………カーツ」
「えっ」
「名前だ。思い出した」