2-10 カイメラ
「逃げなかったんだな」
俺を試していたとでも言いたいのか。
バルジの言葉はいちいち癪に触る。
「天使に会ったぞ」
「ほう」
バルジは珍しく、驚いて見せた。
しかしそういう彼の表情はどこか演技じみていて、信用ならなかった。
「めでたいじゃないか。お前の勝利を約束しに来てくれたのか?」
「……いや」
むしゃくしゃするのを抑えながら、努めて冷静に続ける。
「聖餐を告げに来た。シレオがそれだと」
「……なるほど」
バルジはにやりとした。
「良かったな。これで二人見つかったという訳だ。
もう一人を捜すのに協力してやってもいいぞ。
ただし、お前が試合をやり遂げたらな」
協力?一体どういうつもりなんだ……。
こいつの行動や言動はいつだって予測不能だ。
あまりにも価値観がかけ離れているために、その思考を辿ることが困難なのだ。
「……あのさ、カーツの試合のことなんだけど、それってもしかして……」
「……ああ。あれだ。分かってるだろ?」
バルジとタリンドルの意味深長なやりとり。
また、俺の知らぬところで話を進めていたのか。
「なんだ?俺にもわかるように言え」
タリンドルが答える。
「今日は『千天節』なんだ。だから特別な試合をやるの」
「千天節……?」
「オフイスが宇宙を作った日って言われてるの。
グラエタリアにはガレンティア出身の人達も沢山来るから……」
神の行事を、血で祝うというのか。
それは冒涜に値する行為ではないのか?
「 こんな血みどろの殺し合いを愉しむ連中が、神を信じているだなんて、笑えるだろ?
だが、オフイス教徒の中でも『灰の書』の一派、『聖灰会』は過激な連中でな。
異教徒や奴隷を同じ人間だとは考えない。
家畜と一緒で、殺しても罪にはならないのさ。
都合の良いことだ。
まあ、神が一つだというならあながち間違ってもいないがな」
一つの信仰の中にも幾つも派閥が存在するということか。
闘技場に集まるのはその『聖灰会』とやらの中でも、下劣な輩に違いない。
そう信じないとやるせなかった。
「それで、『千天節』の時に行われる特別な試合っていうのは……」
「俺が説明するまでもなかろう。
お前にとっては、一対一のデスマッチより、余程やりやすいだろうよ」
やりやすい……どういうことだ?
しかしバルジからこれ以上の情報は引き出せそうにない。
「時間だぞ。シレオ、カーツ行ってこい」
シレオ、彼も一緒なのか。
それは頼もしい限りだが……。
特別な試合という言葉が、どうにも不安を煽る。
一方シレオは、そんな俺に構わずにふいと会場に繋がる例の暗い通路に進んで行った。
今更怖じ気づいたって仕方ない。俺も彼の後に続く。
入ってすぐに短い階段を登る。
その先には更に道が続き、その果てには外界……日の光が見えた。
割れんばかりの歓声。
先程シレオが戦ったあの場所に、自分が今まさに行こうとしている……。
まるで現実味が無かった。
何処かで他人事のように俯瞰している自分がいる。
……いかん、もっと集中するんだ。
魔物ならもう何匹も殺している。
それが人間になったとして、何が違うというんだ。
意識の根底では、悪人であれば殺しても構わないと思っている癖に。
今更何を躊躇っている?
シレオの落ち着きぶりを見習え。
……そうだ、彼は自分が聖餐だということを知っているんだろうか。
「シレオ……お前が聖餐の一人だというのは真実か?」
シレオは立ち止まった。
「ミュートレイヴという天使に、お前も会ったのか?告知を受けたのか?」
俺の顔を見つめ、ゆっくりと頷く。
「そうか。……こんな時にすまない。
どうしても確認しておきたかったんだ」
シレオは再び前に向き直り、いつもの音のしない歩き方で進み始めた。
◆
眩しさに目を覆う。暗がりからいきなり日差しの真下に出たため、目が慣れない。
俺たちは闘技場のど真ん中にいるのだ。
客席が塁壁のように高く連なって、頭上に覆いかぶさっている。
逃げ場は無い。
人がどんどん死に絶えていると言うが、イシスにはまだこれ程の人が存在しているのか。
しかし、この中には全うな良心を持った者は幾らも居ないのだろう。
そう考えることは恐ろしかった。
人がこれ程までに悪意や欲望の誘惑に弱いものなのだという事実を、まざまざと見せつけられているようで。
場内を見渡す。
ここで多くの殺しが行われたのだ。
さっきのシレオの試合のように。
生と死の交わる場所。その境界。
途方も無い絶望の予感に、足が竦んだ。
連れて来られたのは、俺とシレオだけでは無かった。
反対側の穴から出てきたのは、屈強な男達が十人。
いや……まだ増える、二十人……?
どういうことだ?二人でこれだけの人数を相手にしろと?
「さあさあお待ちかね、めでたい『千天節』の神前試合の始まりでございます」
客席の上方に設けられたやぐらに着飾った男が立ち、一同に向って話し始める。
聞いているものは半数もなかったが、それでも少し騒ぎは落ち着いた。
「ご覧ください。
あの黒翼団から二人の戦士がこの名誉ある戦いに名乗りをあげたのです。
彼らはなんと二十人の歴戦の猛者達を相手にたった二人で挑むというのです」
やはり、そういうことか。
お膳立ての口上とはいえ、俺がこの場にいるのを望んでいるかのような言い方。気に入らない。
俺とシレオの二人で二十人を相手に……。
不可能では無い。だが、身震いに身体が抑えられなかった。
「果たしてたった二人で二十人の猛者に勝てるのか!?
それとも彼らは無残な死体と化してしまうのでしょうか!?」
司会の傍で、腹の突き出た半裸の男が突如として叫び声をあげる。
歓声がどっと大きくなる。
あれが開戦の合図なのだ。
眼前の男達が俺たち目掛けて走り出した。
俺はシレオがくれた剣を素早く構える。
シレオは場内の中央に躍り出ると、腰を低くして、戦斧を担ぐ。
男達は散り散りになった。四方から取り囲むつもりなのだ。
俺はシレオの背中を守るように彼の後ろに立つ。
彼を信じるしかない。足を引っ張らぬよう、付かず離れずで援護に徹するべきだ。
この距離でもシレオの体温を感じる。
彼の中の闘志が燃えはじめているのだろうか。
ふと、それが遠退く。
しかけたみたいだ。
「ぐああッ」
早い。これで一人。
俺の目の前にも既に片手で数えきれない数の男たちが待ち構えている。
どいつも凶悪な顔付きに頑強な筋肉を備えていた。
素面で人を相手にするのは始めてだが、やるしかない。
近くにいた男が雄叫びを上げ、棍棒で殴りかかってきた。狙いは俺の頭だ。
あんなものをまともに食らったら一発でお陀仏だろう。
潜るようにして、男の懐に飛び込む。
男は空振りした勢いでつんのめる。脇腹ががら空きだ。
俺はそこに思い切り剣を叩き込む。
掌に伝わる、肉の分厚い感触。
ーーーーーーうッ……。
唐突に襲い来る、この行為に対する拒絶。
それを振り払うように、鳩尾に向かって切り上げる。
割けた肉の隙間から血飛沫があがる。
男は膝からくず折れるようにして倒れこむ。彼は事切れたのだ。
死体を見下ろしながら、
遂に境界を越えてしまったのだと、自覚する。
絶望……。
しかしそれも、僅かの間しか許されなかった。
「ぐあッ」
脇腹に衝撃が走る。
どっという音を立てて地面に落ちたのは、棘の生えた鉄球だった。
俺の血で濡れている。
切創の熱。それから打撲による骨まで染みる痛み。それらを同時に感じた。
だが休んでいる暇は無い。
直ぐに死角だった方向に向き直る。
筋肉の上にさらに肉を纏った肉だるまのような男がそこに居た。
そいつの得物は、柄から垂れた鎖に鉄球をぶら下げたものだ。
通常の長物とは異なる軌道を持つそれに、十分に警戒しながら近づいていく。
男が武器を振る。
タイミングが読めず、思わず剣で受け止めてしまった。
鎖が剣に絡まり、動きが封じられる。
「くそッ!」
「へっへっへ……オフイス様にお祈りを捧げるんだな」
もう一人居たのか……!その声は頭のすぐ後ろから聞こえた。まずい……そう思った時。
「ぎゃあッ」
断末魔の声と同時だった。
熱い液体が叩きつけるほどの勢いで降りかかる。
背中がずぶ濡れになってしまった。
「あああ……うわあー!」
鉄球を持った男が、俺の背後の存在に恐れおののき、悲鳴を上げた。
鎖を乱暴に外そうとするが、剣にがっちり絡みついたままびくともしない。
男は武器を捨て、走り出した。
俺を飛び越えたシレオが、着地と同時に男の分厚い背中を一刀両断する。
「助かった」
シレオは既に数人倒しているようだった。
敵の数は目に見えて少なくなっている。
俺は再びシレオの背後に回ると、剣を構え直した。
脇腹の傷は浅い。まだ戦える。
そう思った矢先、次の敵は捜すまでもなく、俺に切りかかってきた。
「調子に乗るんじゃねえぞ」
男の一撃をいなして、心臓めがけて剣を突き入れる。
最期の痙攣を剣を通じて確かめたあと、それを引き抜く。
死体は見なかった。
恐るべきことに、俺はもう人殺しに慣れてしまっているのだ。
いやそれとも、初めてではないということか。
急速に冷えていく頭の中で漠然とそう考えた。
それからは向かい来る敵を、次々と斬り殺していった。
俺の身を案じる必要が無いと悟ったためか、シレオの動きが勢いを増したようだった。
敵は残すところあと一人というところまできていた。
「ひぃぃぃ!」
最後の男は戦意を失い、控え室に続く入口を目指して駆け出した。
俺もシレオも後は追わなかった。
すると、先ほど司会の男が口上をあげたやぐらから大きな法螺を持った男が現れ、それを思い切り吹いた。
会場がしんと鎮まる。
「一体なんだ?」
俺もシレオも硬直していた。
「ぎゃああああッ」
悲鳴が聞こえたのは、俺たちが来たのとは反対、
つまり、さっき奴隷兵が逃げて行った控え室のほうだった。
一瞬の静寂の後、それは姿を現した。
魔物だ。
大きな獅子に、山羊と蛇の頭が生えたその異形は、ゆっくりと俺たちのほうに向ってきた。
獅子の口にはさっき逃げて行った奴隷兵が咥えられていた。
場内の中央までくると、そいつは奴隷兵を一飲みにしてしまう。
顎が動くたびにばきばきという、骨の砕ける音が鳴り響いた。
「……次の相手ってわけか」
俺が呟くと、シレオは迷わずに魔物に向って行った。
地面を蹴り、高く飛び上がる。落下しながら戦斧を振り下ろす。
狙いは正確だった。
しかし、獅子はすばやくそれを交わした。
何度かシレオが仕掛けるも、見事な身のこなしでそれをかわしていく。
俺もシレオに助太刀する。
図体がでかい割に、動きが素早い。
この距離では視界に捉えることができない。
俺が右往左往しているうちに、魔物はシレオに近づくと、彼の身体を前足で払った。
シレオは激しく地面に叩きつけられた。
「シレオ!」
慌てて彼の元に向かおうとする。
が、砂を蹴る軽い音と共に魔物が眼前に現れ、俺の動きを遮った。
三つの頭が、見下ろしている。
唸る獅子の口と、山羊の虚ろな瞳、蛇の裂けた舌が、頭上を覆うようにして、迫って来る。
ーーーーーー終わった。
助けを求めるように、横目でシレオを見る。
……奇妙な行動が、目に入った。
彼は倒れたまま胸に手を当てて、口を動かしていた。
ーーーーーー何をしている?
シレオの発する言葉を、注意深く聞き取ろうとする。
駄目だ。ここからじゃ何も聞こえない。
魔物は今にも俺の頭に齧りつこうと、涎を垂らしている。
もう駄目だ。
そう思った時。
視界の隅で、何かが光った気がした。
目を疑った。それはシレオの胸から飛び出して、輝く帯となって、天に続いていた。
ーーーーーー何が起きている……?
シレオの胸から伸びた光の筋は、どんどんその強さを増していく。
魔物も、空気の変化に気づいたのか、俺から目を逸らし、シレオに意識を向けた。
やがて光は、目の前の全てを満たしていった。
……するりと、視界を覆う光に押されて、眼帯が解けていく。
ーーーーーー!?
再び、あの感覚が全身を襲う。
しまった、と思ったのは一瞬で、恍惚にも似た全能感が、俺を包み込む。
抑止力……。