2-7 郷愁
「……はあ」
レグルスは子供の癖に、妙に大人びた溜息をつく。
どこか、呆れたように。
「おっさんあいつの保護者かなんか?
話せば、あれを取り返してくれんの?」
「……事情による」
保護者どころか、誘拐されている立場なんだがな。
そもそもシレオに身体能力で勝てるわけが無いのだが、話を聞いて見ないことにはどうにもならない。
「……拾ったんだ」
レグルスは言葉を選びながら話し始めた。
「市場でさ。首飾りみたいなんだけど、すごく綺麗だった。
世界がこうなってからも、あんなに綺麗な石なんて初めて見たよ」
世界がこうなってから……。
黒い霧に覆われてから、という意味だろう。
クラルも似たようなことを言っていたが、それが宝石にどんな変化を齎したというのだろう。
今一、釈然としなかった。
「じゃあ、お前の物じゃないんだな?」
「だって、最初に拾ったのは俺だ!
あいつは、俺が持ってるのを見て、いきなり追いかけて来たんだよ!
せっかくうまく撒いたと思ってたのに……」
それでシレオはあんなところを彷徨いていたのか……。
しかし、よくレグルスがあの家に隠れていると解ったな。
シャトラ族ってのは嗅覚も優れているのだろうか。
「わかった。で、それをどうするつもりだった?」
「どうって……。高そうだから、質に入れてお金に替えようと……。
どっかの行商が落としてったんだから、ばれやしないよ」
「でもそれは、泥棒だぞ」
その行商とやらも、グラエタリアのような所に出入りしているということは、堅気の者では無いだろう。
例の品も、元は盗品だったのかもしれない。
だがここで彼の行為を許してしまっては、手癖の悪さが慢性化しかねない。
レグルスの今後のためだ。
「だって……。 せっかく拾ったのに?
きっとあれは、オフイス様が俺たちに恵んでくれたんだよ。
姉ちゃんを助けるために。
オフイス様は、ずっと俺たちが苦しんでるところを見てて下さったんだよ!
あの宝物を俺が受け取るのは、当然の権利だ!」
レグルスは何が悪いんだと言わんばかりに訴えて来た。
その勢いに、俺は狼狽えてしまった。
「……お姉さんが居るのか?」
「……うん」
「お姉さんは、何処か身体の具合でも良くないのか?」
おそらく、彼もまた、貧しい暮らしを余儀無くされているのだろう。
……ミルノス村での出来事を思い出して、レグルスに同情が湧いて来る。
「違う。病気じゃない」
彼は俯き、小さい頭で何か考えを巡らせているみたいだった。
「姉ちゃんは借金の形に連れてかれた。奴隷にされちゃったんだ。
今頃悪い奴のところで酷い目に遭ってる。
……そいつは綺麗な女の人に目がないんだ」
その言葉の意味するところは一つしか考えられない。
レグルスの年齢を考えれば、彼の姉も、まだ年若い娘だろう。
なんて惨いことを……。
そんな選択をせざるを得なかった、彼らの両親の気持ちを想像する。堪らなかった。
「酷い……」
「あの綺麗な石があれば、姉ちゃんを助けられる……。
あれを見たら、グラエタリアのケチな質屋だって、白貨十枚は出すさ」
イシスの貨幣価値を把握していない俺にとっては見当もつかない額だが、
レグルスの口ぶりからすると、相当なものなのだろう。
彼がそう断言するほどの魔力が、あの石には秘められているのだろうか。
「なぁ……あいつから石を取り戻してくれる?」
どうするべきか……。
既に心は決まっているが、シレオがあの様子では、簡単には手放しそうにない。
奴と話す?不可能では無いが……。
「……やってみよう」
シレオを説得するため、意を決して振り向いた。
すると、驚く事に奴のほうからこちらに近づいてきた。
彼は静かに握った石をレグルスに差し出す。
「……いいの?」
「……ん」
シレオはこくりと頷く。
「シレオ……おまえ、今の話を聞いていたのか」
それには応えず、シレオは手を開く。
ーーーーーーえ……?どういうことだ!?
その石の正体がちらりと見え、我が目を疑った。
混乱した。これは……何だ?何といえばいいのか。
その石の輝く所だけ、次元が切り取られた……とでも言うべきなのか……。
驚愕に身動きが取れずにいるうちに、レグルスがそれを受け取り、懐にしまおうとする。
「待て!俺にもよく見せてくれ」
「……いいけど、絶対あげないからな」
「わかってる。見るだけでいい」
レグルスの手にぶら下がったままのそれを、つぶさに観察する。
見れば見るほど美しい……。吸い込まれるようだ。
そして謎は深まるばかりだ……。
「ね?びっくりだろ。『色』があるんだ。この石」
「『色』……。『色』って何だ……?」
『色』。この石の放つ魔力の正体。
それが何だったのか、まるで思い出せない。
とにかく、俺はこれを初めて目にした気がする。
……このあまりにも強烈な光を。
「……え?何言ってるの?色って言ったら色だろ」
わからない。
ただ混乱するばかりだ。
理解の及ばない現象を目の当たりにしたために、不安定な気分になってくる。
「……うう……」
眩暈を覚え、頭を抑える。
「もしかして、忘れちまったのか?
無理も無いよ。五年も経っちゃったんだもの。
俺も黒い霧に覆われる前は小さかったから、色のことはもうあまり思い出せないんだ。
この色の名前だって……」
色の名前……。だめだ。
彼が何を言っているのか、さっぱり理解できない。
だが落ち着いてもう一度石を見ると、やはり、美しかった。
この世界で見た他のどんな物よりも。
そしてその輝きはなんというか、胸の熱くなるような、燃えるような……そんな切ない感覚を呼び起こした。
俺はもうこの石から目が離せなかった。
石を見つめながら、何故かジェスラードに出会った時の事を思い出していた。
この石が放つもの……。
あの時夢の中で掴みかけた鍵の正体……。
色……。
色彩……。
スペクトラム?
「なあ、おっさん。なんだっけ、この色の名前」
レグルスの声が、思惟に埋没しかけた俺の意識を現実に連れ戻した。
「おっさんってば……」
「すまない、レグルス、本当に解らないんだ……『色』が何なのか。忘れたんじゃない。知らないんだ」
「はあ?知らないってなんだよ……。じゃあ、おっさんにはこの空が何色に見えるの?」
レグルスに言われて、空を見上げた。
いつもと同じ、灰色の空だ。
「灰色……」
「じゃあ、あの家は?壁は?地面は?俺の肌は?」
「全部……灰色だ。今日は日差しも余り強く無いから、影も真っ黒ではない」
レグルスに言われて、改めて世界を見渡してみた。
空も、家々も、壁も、石畳も。
レグルスやシレオ、おれ自身の肌も。
それらは全て、白と黒か、灰色。中間。
その濃淡と、明暗の差でしか無い。
それ以上の要素は考えられなかった。
しかし、おそらくこの凡ゆる事物を塗り潰す『白黒』が、人々から生気を奪い、虚無を感じる原因だった。
かつてクラルが言ったように、宝石が輝きを失い、自然が美を失い、芸術が意味を失った、その理由。
レグルスがぶら下げている例の石だけが、異常なのだ。
それは生命の炎が燃えるように、激しさを伴って世界を抑圧していた。
その存在感は、世界を飲み込む『裂け目』とは真逆のエネルギーを放っているように思えた。
「はあ……。なんで『知らない』とか、わけわかんないこと言うんだろ。
あんたが今言ったように、俺たちが見てるこの世界は『白黒』なんだ。
でも、黒い霧に覆われる前は、全てに色があった。空には空の色が。草木には草木の色が。俺たちの肌や目や髪にも。この石みたいにね」
だが俺は、黒い霧に覆われる以前の世界を知らない。
レグルスにどんな言葉で説得されても、『白黒』以外の世界を想像しようがない。
例の石が、いっそう妖しく、輝きを増したようだった。
俺の存在を否定するかのように……。
「……赤」
無口な男がぽつりと呟いた。
やはりそれも知らない言葉だった。
しかしそれがこの光の持つ名だということは直ぐにわかった。
……赤。
それが、この情熱と、得も言われぬ興奮を呼び起こす輝きの名なのか。
「そう、赤!俺も思い出したぞ。大好きな色だ。
……もう絶対に忘れない。
こいつを目に焼き付けておこう」
レグルスは嬉しそうに石を顔の前に持って行き、じっくりと眺めた。
しばらくうっとりと見つめたあと、急に我に帰る。
「あの……ごめんな。シレオだっけ。
おまえもこれ欲しかったんだよな。
もっと良く見ておいたら?」
申し訳なさそうに、シレオに石を渡そうとする。
「……もういい」
何はともあれ、シレオはレグルスの不幸を知り、彼の為に身を引いたのだ。
シレオにも人の心がある。
それも、優しく、美しい心だ。
それが知れたのは、ただ嬉しかった。
大人気ないところもあるが、まあ、愛嬌だろう。
シレオとレグルスの和解を見ていると、次第に心が落ち着いてきた。
あの石が呼び起こした興奮も。
あれは美しいけれど、人を不安にさせる、恐ろしさも秘めている。
あまり依存しないほうが良いような気がして、もう見るのを止めた。
レグルスも同じことを考えたのか、今度こそ石をしまいこんだ。
「じゃあ、おっさん。質屋まで付き合ってよ」
「はあ?」
なんで、そうなる。
「だって俺、ガキだし。
大人が居ないと、悪どい店主にボラれるかもしれないだろ。
……おやじにはこの石、見せたくないんだ。
大人の方が『色』に思い入れがあるから、いろいろ思い出して、辛いと思うんだ」
そうなのだろうか。
何がどう辛いのか、俺にはよくわからなかった。
あの石の持つ強烈な印象が、日常的な物だったと仮定して考えてみる。
黒い霧のために、突如としてあの光が世界から喪われたのだとしたら……と。
……俺が初めて『赤』を見たのと逆さまのことが人々に起きたわけだ。
レグルスの家族には、あの石を見せないほうが賢明なのだと悟る。
「質屋か。付き合ってもいいんだが……」
ちらりとシレオを見る。
こいつも着いてくるつもりがあるのだろうか。
そうで無ければ、今の俺には自分の判断で何処かに向かうことはできない。
「……行け」
シレオは一言そう告げた。
ということは、俺に行って来いというのか?
好都合ではあるが、そんな無防備でいいのだろうか。
「行けって……いいのか?逃げるぞ。おまえどうするんだよ」
「……待つ」
こいつ……舐めてやがる。
どうせ逃げられっこないと踏んでいるんだろう。
本気で逃げるぞ。
そう言ってやろうとしたが、シレオの顔を見て、思いとどまる。
あの鋭くも純粋な瞳が、ただ真っ直ぐに俺の目を射抜いていたから。
いつもは何も読み取れないそこに、感情らしき物があったから。
「……仕方ないな」
戻ってくるかどうかはわからないぞ……。
その場にシレオを残して、レグルスと共に彼の知る質屋に向かう。
◆
既に市場は活気に溢れていた。太陽の位置は大分高くなっている。
……にしても、奴らは本当に闘技場で決闘なんてやらせるつもりなのか。
こんなところでのんびりしていていいのだろうか……。
こうして観光気分で店を物色していると、黒翼団に囚われている事など、遠い世界の出来事に感じられた。
……バルジはどうしているんだ。
俺やシレオを、こうも長時間、放っておいていいのか。
奴の考えている事がまるで読めなかった。
「あそこだ」
少年の声に、考えるのを止める。
目の前の建物がどうやら目的地のようだ。
小さな縦長の店だ。入口には、がらくたが山と積まれている。
動物を模した壺のような物、イシスの大陸が描かれた球体。
天秤や、何に使うのかわからない大きな歯車が幾つも重なった装置……。
細い棒で星々を表す小さな球が七つほど取り付けられた機械など。
そんな品々を眺めながら、店の古びた小さなドアを押し開けた。
暗く埃っぽい店の奥にはカウンターがあり、小柄な壮年の店主が座っていた。
店主と目が合い、一言告げる。
「金が要る」