2-4 差別
とうとう来るべきその日が来てしまった。
あたりは荒れ果てた広野。
かつては草原だったのかもしれないそこには、土埃が舞い、日射しを遮るものも無く、まるで砂漠だ。
乾燥した大地がただ延々と続く。
どこまでも殺風景だ。
俺は両手を手枷で封じられ、首輪を付けられていた。
首輪から垂れた鎖で引っ張られるようにして歩かされている。
まるで家畜だ。
手綱を握るごろつきは、下卑た笑みを浮かべながら品定めでもするように俺を眺め回す。
不快だ。
だが、後ろから音も無く着いてくるシレオの存在を思えば、抵抗は無意味だった。
戦え……か。
束の間の微睡みが見せた倒錯的な幻覚を思い出す。顔が熱くなる。
既に意味を失い、小っ恥ずかしいだけのそれだったが、シレオと再び剣を交えることを考えると不思議と気分が高揚した。
俺は戦いというものに、悦楽を見出している。
理性はそれに抵抗しているが、いざとなれば役に立たないだろう……。
シレオは何を考えている……。
ちらりと後ろを見る。
あの細い瞳と目が合う。
獲物を狙う野獣の瞳だ。
戦いたくてたまらないといった感じの。
彼も、俺と同じ事を……?
「おら、さっさと歩け!」
不意に鎖を引っ張られ、首が締まる。
「……うッ」
「ジャリマー、客人はもっと丁重に扱え」
バルジがそう言うと、ジャリマーと呼ばれた男は急に大人しくなった。
「へ、へえ。申し訳ありません、お頭」
客人を鎖で繋ぐのか。
誰に言うでもなしに独りごちる。
既に半日ほど休みなく歩き続けているためか、首輪や手枷に接触している部分の皮膚が剥け、ひりひりと痛む。
些細な振動すらたまらなく不快だ。
苛立ちが募る。
痛みと暑さのせいで汗が吹き出し、眼帯をしていないほうの目尻の横を流れていく。
俺を引っ張る男の首にも、汗が玉のように浮いていた。
見ているだけで暑さが増す気がして、顔を伏せる。
しばらく暑さにぼうっとしていると、
後ろで黒翼団のごろつきどもがシレオに下品な言葉を浴びせているのが聞こえてきた。
「くせぇぞシャトラ族め、おめぇらみんなあの同族殺しの時にくたばっちまえば良かったのによ」
「てめぇがバルジ様の気に入りでなけりゃ生きたまま豚に喰わせてやるのになぁ。
おめぇら尖り耳は共食いするんだろ」
それを聞いて周りの男達がげらげら笑った。
暑さに苛々しているのか。
憎憎しげに悪態をつく二人を尻目に、当のシレオは何でも無い様子で歩いている。
彼なら男たちを黙らせる事など造作ないだろうに。
あえて何もしないのか、できない理由があるのか。
男たちはシレオが無抵抗なのを良いことに言いたい放題だった。
しかし何の反応も示さないシレオに飽きたのか、下品な罵声は次第にその鳴りを潜めていった。
彼らがシレオに肉体的な虐待を行わないのは、そこがバルジが定めた暗黙の境界線だからだろう。
そこには絶妙な均衡があるように思えた。
バルジが今の騒ぎを見逃しているということは、彼はこれを楽しんでいるのだ。
ますますバルジとシレオの関係が奇妙なものに思えてならない。
俺がシレオの立場であったら、この場に居る者達を皆殺しにしているのに。
怒りに唇が震える。
居ても立ってもいられなくなり、再びシレオをの顔を見る。
……そして自分の目を疑った。
極々僅かに、見る者によっては普段と見分けがつかない程度に、微笑みを浮かべているのだ。
あのシレオが。
決して自虐からくる卑屈なものではなかった。
俺にだけわかるように、俺を安心させるかのように、そうしているのだ。
しかし一瞬後には、既に隙の無い野生の顔がそこにあった。
微笑の印象は、跡形も残らなかった。
俺はただただ困惑して、かわりに怒りを忘れた。
またしばらく歩く。
乾いた土の匂いを嗅ぎながら、シャトラ族のことを考えた。
同族同士で殺しあったという哀れな者たち……。
ある一つの民族の末路で、これほど悲劇的な物が他にあるだろうか。
帝国に如何なる目的があったにしろ、彼らを弾圧し、扇動したことは、許されざる行為だ。
そしてシレオやタリンドルは、生き延びてなお、差別と戦っている。
生まれた土地が異なれば、文化も宗教も異なって然りだ。
他民族同士が、価値観において互いに相容れないのは、当然の摂理だ。
それを強引に同化させようとするのもまた、差別だ。
差異を認めなければならない。
だが、必ずしも受け入れなければならないわけではない。
文化や風習が異なるものが相対した時、ある民族が他方の民族の正義に反する風習を持ち、
それが彼らにとって譲れない物であったとしたら。
もはや戦いしか残されていないではないか。
クラルが言ったように、それが自由のための戦いなのではないだろうか。
一方、黒翼団の連中が行っているのは、そんな理屈の通用しない、愚かで稚拙な、迫害そのものだ。
知恵の無い者たちの未知に対する恐怖は計り知れない。
彼らは本能が自ずから未知を排斥する。
悲しいかな、能力が低く、且つ無知な者が、大衆から爪弾きにされるという現象は、
個では決して抗うことのできない、集団心理だ。
これは人間社会であっても、自然界であっても、同じことだ。
故に、悪人の中でも弱い者は、威圧的な言動や暴力––––––つまり、恐怖によって周囲を威嚇し、支配しようとする。
それが悪人の処世術でもあるのだ。
その習性が、他民族と相対した時に、最も醜悪な形で露見するのだ。
俺は何より、シレオやタリンドルが奴隷として扱われていることが許せない。
帝国には制度という形で奴隷が当たり前のように存在しているのだろうか。
アルビオンには?
クラル達はそれを、文化として許容しているのだろうか。
できればそうであって欲しくない。
……そもそも何故俺はこんなにも奴隷制に嫌悪を感じているんだ?
トリスティスが言っていた、俺自身の価値観によるものなのは間違いない。
……やはり俺には、記憶を失う以前に、もう一つの人生があったのだろうか。
冷静に考えれば、そうとしか思えない。
……確証を得るためには、やはり再びクラル達と行動を共にして、三天使や調停者についてもっと知るしかない。
忘れていた焦りが急に蘇ってきた。
徒労と知りながらも、辺りを見回してみる。
まさかクラルやトリスティスが俺を助けに来てくれる……なんてことはないよな。
いや、そうとも限らない。
クラルは黒翼団のことを知っていたし、あの熱意からいって、調停者である俺を失うことは避けたいだろう。
きっと探しにくるはず。
勝機が訪れた時、それを必ず物にするためにも、気を抜かずにいなければ。