廃業勧告の監査官を薄麦酒で眠らせたら、求婚だけ話が噛み合いません
「その指で廃業に署名するおつもりですか。震えまで監査官の威厳に含めないでください」
ミオアラは、書類へ下りかけたペン先を石杯で塞いだ。
王都から来た醸造監査官トゥドルは、杯と彼女を順に見た。瞬きが遅い。腹は空、喉は乾燥、睡眠は足りない。なのに眉間だけは立派に勤務中である。
「職務に支障はありません」
「今、署名欄を二度外しました」
「机の木目が紛らわしい」
「木目に謝ってください」
ラドゥが書類をトゥドル側へ押した。
「監査官殿。廃業勧告へのご署名だけでしたら、この者を下がらせてすぐに——」
「空腹も監査対象です」
ミオアラは聞かなかったことにした。聞く価値のない発言は、発酵前の浮き殻と同じである。掬って捨てればよろしい。
薄麦酒を入れた小鍋を湯から上げ、冷え切っていた石杯へ注ぎ直す。指を掛けさせようとしたが、トゥドルの親指が縁を滑った。
仕方なく、両手で包ませる。
「三口で十分です」
「十分かどうかは、あなたではなく胃に聞きます」
「胃は監査部に所属しておりません」
「では本日付で所属させます。飲んでください」
一口。
喉が大きく動く。
二口。
杯を持つ指が震える。
三口目でトゥドルは息を止め、石杯を机へ戻した。戻したつもりらしい。底が机の端へ半分しか載っていない。
ミオアラは杯を押し戻した。
「続きは」
「三口で十分です」
「胃の回答を勝手に代筆しないでください」
「ミオアラ」
ラドゥの声だけが急に低くなる。監査官へ向けていた腰の柔らかさはどこへ置いてきたのやら。きっと上等樽と一緒に奥へ隠したのだ。
「仕込み係に監査のお話は難しいでしょう。品評も帳面も私が——」
作業台から転がった樽栓が、床を跳ねた。
ミオアラは振り向かず、踵で止める。
樽職人たちの間から声が漏れ、ヴィオレルが真っ先に吹き出した。
「笑うところではありません」
「悪い。監査の話より正確だったもんで」
トゥドルが、踵の下の樽栓を見ていた。
ミオアラは石杯をもう一度、彼の両手へ持たせた。
「監査官殿。次は四口目です」
* * *
翌朝になっても、石杯は三口分だけ減ったままだった。
「これは敗北です」
「監査ではありません」
「私が決めます」
宿直椅子に座ったトゥドルの手を取り、湯で濡らした布を親指と人差し指の間へ当てる。裂け目が三本。いちばん深いものは、ペンを握るたび開いていた。
「手荒れも監査対象です」
「醸造所ではなく私を調べていませんか」
「いけませんか」
「いけないとは言っていません」
「なら手を開いてください」
「命令が早い」
「抵抗が遅いんです」
薄く軟膏を延ばすと、トゥドルの指が一度だけ縮んだ。痛いなら痛いと言えばよいのに、この男は王都から虚勢を樽詰めで運んできたらしい。封が固い。中身は空腹。
ミオアラは匙を持たせた。
「昨夜、五度目を覚ましましたね」
「数えていたのですか」
「そのたび椅子を鳴らすので」
「職務上、眠りが浅いだけです」
「では、匙が震えて麦粥を机へ食べさせたのも職務ですか」
トゥドルは匙を見た。匙に罪を押しつける相談でも始めそうな顔である。
その肩がゆっくり落ちた。
瞼も落ちた。
ミオアラは乾かしておいた毛布を掛ける。すると彼は目を開け、いかにも起きていましたという顔を作った。遅い。こちらはもう肩まで掛け終えている。
「眠っておりません」
「はいはい」
ラドゥが音もなく近づき、机へ書類を置いた。廃業勧告の署名欄だけが開かれている。
「監査官殿、お目覚めでしたら、こちらを先に」
ミオアラは書類を閉じ、その上へ空の粥椀を置いた。
「先はこちらです」
「ミオアラ、監査官殿のお仕事を妨げるな」
「空の椀に邪魔される仕事なら、今やる仕事ではありません」
トゥドルは反論しなかった。
毛布の縁を掴んだ指から力が抜ける。
今度こそ、椅子は鳴らなかった。
* * *
トゥドルは、この醸造所を自分で選んだ。
以前の品評会で、ミオアラを見ていたからだ。
品評席へ運ばれた麦酒について尋ねるたび、回答するのはラドゥだった。だが樽の向きを変え、温度札を書き替え、注ぎ手の間違いを手で制していたのは、席から外された若い女だった。
トゥドルが樽番号を問えば、彼女の指が正しい樽へ向く。
麦芽の乾き具合を問えば、彼女の唇が先に答えの形を作り、ラドゥがそれを横から声にした。
だから直接尋ねたかった。
本人が醸したものを、本人の言葉で。それから、品評席の外で働く彼女が、どんなふうに笑うのかも知りたかった。
査察希望書には前者だけを書いた。
その本人が今、麦粥を温め直していた。
「睡眠も監査対象です」
ミオアラは鍋をかき混ぜながら宣言した。
「また増えましたね」
「よく覚えていましたね」
「監査官ですので」
「六時間続けて眠れたら褒めて差し上げます」
「監査官を褒める仕込み係がどこにいます」
「ここにいます。口を開けてください」
差し出された匙を見て、トゥドルは姿勢を正した。
「自分で持てます」
「昨日は机に半分飲ませました」
「あれは匙の角度に問題が」
「匙は今朝、無罪になりました」
指へ柄を戻される。
指先にまだ細かな震えがあった。柄が椀へ触れ、乾いた音を立てる。ミオアラは手を離さず、彼が一匙を口へ運ぶまで柄の端を支えていた。
三匙目で胃が持ち上がった。
トゥドルは口元を押さえ、呼吸を整える。続けようとした匙を、ミオアラが取り上げた。
「まだ食べられます」
「胃が反対票を投じました」
「三匙しか」
「昨日は一匙でした。三倍です。偉い」
「子ども扱いをやめてください」
「でしたら粥を机に食べさせないでください」
勝てない。
それは衰弱のせいであり、彼女の返答が妙に速いせいではない。たぶん。
トゥドルは、客にここまでするのが彼女の仕事なのだと思った。仕込み場へ来る者へ薄麦酒を出し、手が裂けていれば洗い、倒れそうなら食事を温める。醸造を担う者は、飲む者の身体まで面倒を見るものなのかもしれない。
少なくとも、そう考えれば、彼女が自分の匙を見つめるたび胸元が落ち着かなくなる理由を監査しなくて済んだ。
二日目の夜、ミオアラは湿った敷布を剥がした。
「まだ使えます」
「汗を吸っています」
「乾けば同じです」
「今から寝る人を、敷布が乾くまで壁に掛けておけと?」
「私ではなく敷布を掛ける話です」
「そうでした。紛らわしいですね」
「どこがですか」
乾いた寝具が宿直台へ広げられる。窓が少し開き、こもった熱が逃げた。ミオアラは湯に浸した布を絞り、首と手首の汗を拭く。トゥドルが自分でできると言ったところ、布だけ渡された。
できるものならどうぞ、という目だった。
できた。ただし右手首まで拭いたところで腕が落ちた。
ミオアラは布を受け取り、残りを済ませた。親指の裂け目を洗い、軟膏を塗り直す。最初の夜は五度目が覚めた。二日目は三度。
三日目、石杯を一杯空けられた。
麦粥は半椀。
「もう一匙」
「調子に乗らない」
「昨日は食べろと言ったでしょう」
「昨日の胃と今日の胃は別人です」
「同一人物です」
「では本人に聞きます。どうですか」
トゥドルは腹へ手を当てた。
「半椀で十分だそうです」
「やっと正しい代筆を覚えましたね」
ミオアラが笑った。
口を大きく開けるでもなく、声を立てるでもなく、片方の頬だけが先に上がる。品評会では一度も見なかった顔だった。
トゥドルは空になった石杯を持ち直した。指を置く場所を確かめるふりが、ずいぶん長く続いた。
四日目の夜に目覚めたのは一度だけ。
五日目の朝、窓から差した光が寝具の端まで届いても、トゥドルは起きなかった。
六時間。
目を開けたとき、ミオアラは宿直台の脇で帳面を束ねていた。
「おはようございます」
「なぜ起こさなかったのです」
「六時間続けて眠れた監査官殿を、途中で不合格にする趣味はありません」
身体を起こしても胃が沈まない。
床へ下ろした膝が揺れない。
昨日までは机の縁へ膝頭を押しつけなければ立てなかった。今朝は両足の裏だけで身体が上がった。
親指の亀裂も閉じている。薄い赤い線は残ったが、帳面の紙をめくっても開かない。石杯を持ち上げた指先には、もう震えがなかった。
トゥドルは空の杯を机へ置いた。
「仕込み帳を」
ラドゥは待っていたように廃業勧告を開いた。
「でしたら、先にこちらへご署名を。廃業後の資産確認として帳面も——」
「最初から読みます」
「概要は私がまとめております」
「概要ではなく、仕込み帳を最初から」
トゥドルは立ったまま手を出した。
ラドゥの笑みが一枚薄くなる。
差し出された帳面は、後半の頁へ紐が挟まれていた。トゥドルは紐を無視し、一枚目から開いた。
樽番号。仕込み日。麦芽の量。搬出日。封の印。
一行ずつ指で追う。
衰弱していた初日は、数字が紙の上で滑った。昨日までは同じ行を二度読んだ。今は止まるべき数字で、目が止まる。
「七十二、七十三、七十四の三本は」
「上等品として搬出済みです」
「搬出先の受領記録では、ラドゥ個人の仲介品になっています」
「販売上の便宜です。醸造所の利益を考えまして」
「では、失敗品として残された八十一と八十三の封が、仕込み時の記録と違うのは?」
「仕込み係の不手際でしょう」
ラドゥは職人たちへ振り向いた。
「何をしている。奥の小樽を移せ。監査官殿のお目に入れるな、邪魔だ!」
職人へ向いた声だけが、樽の留め具より硬い。
誰も動かなかった。
ラドゥは自分で小樽へ手を掛けた。手前へ引き出し、床の留め木を蹴る。小樽が傾いた。
「危ない!」
留め具が外れ、樽が仕込み場を走った。
ミオアラが一歩入る。
左の踵を樽の縁へ当てた。
正面から止めず、軌道だけを横へ逃がす。回った樽へ腰を当て、勢いを受ける。両手が上縁を掴む。足が半歩、滑る。
もう半歩。
樽は元の列へ収まった。
奥から、口の封だけ色の違う二本が現れた。
ヴィオレルが腹を押さえた。
「今度は笑っている場合です」
「悪い。前より大きいのまで正確だった」
トゥドルは隠れていた樽の封を確かめた。八十一。八十三。
仕込み帳では、ミオアラが使う印で正常な封が記録されている。だが現物にはラドゥの管理印があり、封蝋の内側に古い欠けがあった。搬出前に上等樽と入れ替え、封の悪い樽だけを醸造所の失敗として残したのだ。
「この二本の工程を説明してください。ミオアラ」
「監査官殿、仕込み係には難しいでしょう。私から——」
「私はミオアラに聞いています」
ラドゥの口が閉じた。
品評会では、一度も止められなかった口だ。
ミオアラは樽へ手を置いた。発酵温度、封をした日、最後に確認した樽の位置を短く答える。帳面の記録と合う。彼女が担当した時点では、この二本は別の列にあり、封も壊れていなかった。
トゥドルは最後まで聞いた。
聞いたうえで、廃業勧告を閉じる。
「今朝は六時間、目を覚まさなかった。だから今度は、眠気ではなく私の判断で断る」
「監査官殿、しかし!」
「この醸造所への廃業勧告には署名しません」
トゥドルは机へ膝を押しつけず、仕込み場の中央に立っていた。
「帳面を最初から読み直しました。醸造の不備ではなく、管理と搬出記録の付け替えです。ラドゥ、あなたを本日付で管理から外します。鍵を」
「たかが仕込み係の言葉で、私を?」
「現物と帳面と、私の目で決めました」
ラドゥの語尾から、監査官殿の甘い響きが消えた。
それでも鍵は渡さない。
トゥドルは手を引かずに待った。
職人たちも待った。
やがてラドゥの指が腰の鍵束へ触れた。一本、二本、三本。管理庫と帳場と搬出口の鍵が机へ置かれる。
ヴィオレルがそれを受け取り、帳面の受領欄へ署名した。
「仕込みの責任者として、今後の確認はミオアラ本人へ行います」
職人たちが息を呑んだ。
ミオアラだけは、止めた小樽の位置を足先で直している。
「監査官殿」
「何でしょう」
「その足で立ち話を続けるおつもりですか」
トゥドルは自分の膝を見た。
「震えていません」
「だから休まなくていい、にはなりません」
「廃業勧告を撤回した直後ですが」
「胃と膝は免責されていません。座ってください」
やはり勝てない。
今度は、衰弱だけのせいにはできそうになかった。
* * *
決着を伝える食卓の中央に、最初と同じ石杯があった。
中身も同じ、温め直した薄麦酒。
違うのは、トゥドルの指が杯を取り落としそうにないことと、職人全員が仕事の手を止めてこちらを見ていることだった。
ラドゥから取り上げられた鍵はヴィオレルの腰にあり、仕込み帳はミオアラの前に置かれている。
「廃業勧告は正式に撤回されます」
トゥドルが告げる。
職人たちの肩が一斉に落ちた。
「上等樽三本の記録と、不良樽の付け替えについては王都へ報告します。以後、工程の確認はミオアラへ直接行う。彼女を品評席から外す理由もありません」
今度は胸が一斉に上がった。
ミオアラは仕込み帳の角を揃えた。まったく。人が見ているところで余計なことを言う。帳面が急に重くなったではないか。
「何か異論は」
「ありません」
「帳面を睨んでいますが」
「紙は見返してこないので便利なんです」
「私は見返すから不便ですか」
「大変に」
トゥドルは石杯を取った。
一息で空にする。
初日の三口が嘘のように喉が動き、杯がまっすぐ食卓へ戻った。
ミオアラはつい、その指を見た。震えなし。亀裂なし。膝も机へ逃げていない。
よし。
何がよしなのかは知らない。身体が働くならそれでよし。ほかに採点項目などない。
「ミオアラ」
「おかわりですか」
「話があります」
「では先に注ぎます」
「逃げる準備では」
「薄麦酒を注ぐだけで逃走扱いしないでください」
トゥドルは空の杯から手を離さなかった。
「私は、この査察先を自分で選びました」
職人たちが顔を見合わせる。
ミオアラの手も止まった。
「以前の品評会で、あなたを見ていた。席にはいないのに、すべての樽をあなたが動かしていた。質問へ答えたのはラドゥでしたが、答えを知っていたのはあなたです」
「それで直接査察を?」
「あなたに直接尋ねたかった」
なぜ。
その一語が喉へ引っ掛かった。
トゥドルの手は石杯に置かれたままだ。逃げない手だった。ミオアラのほうが、注ぎ口をわずかに杯から外した。
「薄麦酒も、麦粥も、手当ても、醸造所の客へ行う仕事だと思っていました」
「仕事です」
「毎晩、食事を温め直すことも?」
「冷えたものを出せと?」
「湿った寝具を外し、私の分だけ干し直すことも?」
「監査官を黴びさせるわけにいきません」
「眠るまで石杯を取り上げず、親指の亀裂が閉じるまで軟膏を塗ることも?」
「途中でやめるほうが気持ち悪いでしょう」
「では、ほかの客にも同じことを?」
「当然です」
ヴィオレルが横を向いた。
肩が揺れている。
ミオアラは睨んだ。今、笑ったら次の樽は一人で運ばせる。腰で。
「私は五日間、ここで身体を戻しました。三口しか通らなかったものが一杯飲めるようになり、五度起きていた夜に六時間眠り、震えていた指で帳面を最後まで読めた」
トゥドルの声から、生真面目な反論の硬さが一枚ずつ剥がれていく。
「そのすべてを、あなたが続けた。私だけに」
「監査を終わらせるためです」
「終わりました」
「では、お帰りになれますね」
トゥドルが石杯を手前へ引いた。
「帰るつもりで来ました」
指が杯を回す。半周。そこで止まる。
「ですが今は、この醸造所を監査先ではなく、暮らす場所として選びたい」
ミオアラは瞬きもしなかった。
「それは移住の相談ですか」
「伴侶として」
「誰の」
「私の」
「誰が」
「あなたが」
おかしい。
問いと答えは一つずつ合っているのに、並べると大事故である。仕込み帳なら即座に差し戻す。樽なら踵で曲げる。ところが求婚は床を転がってくれない。正面から来た。腰で受けられない!
トゥドルは職人全員の前で、ミオアラを見た。
「ミオアラ。私と同じ暮らしを選んでください。結婚を申し込みます」
薄麦酒の注ぎ口から、一滴が石杯へ落ちた。
ミオアラは杯を取り、縁まで注ぎ足す。
「杯を空にした人へ全員求婚するほど、私は暇ではありません!」
「俺たちは冷めた杯しかもらってないぞ」
ヴィオレルが落とした。
職人たちが一斉に笑った。
五日分の視線が、温め直された一杯へ集まる。誰かが「毎晩だぞ」と言い、別の誰かが「寝具も監査官殿の分だけだ」と重ね、とうとう全員が腹を抱えた。
トゥドルは満ちた石杯を見た。
「では、温め直してもらえるのは私だけですね」
ミオアラは承諾の代わりに、その石杯をトゥドルの手元へ押し戻した。




