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政略結婚した夫が、どうしても読めない

作者: 希羽
掲載日:2026/05/10

 白いベールの向こうで、祭壇の蝋燭(ろうそく)が揺れている。

 聖堂に満ちた祝福の歌声に包まれながら、私はこっそりと隣に立つ男を観察していた。


 漆黒の髪に、切れ長の銀灰色の瞳。非の打ち所がないほど整った顔立ちをしているのに、そこには一切の感情が浮かんでいない。自分の結婚式だというのに、まるで他人の儀式に立ち会っているかのような冷ややかさだ。


 氷の公爵——社交界で(ささ)かれる彼への評は、どうやら噂通りらしい。

 悪くない、と私は内心頷いた。


「二人は今より、永遠の伴侶となりました——」


 司祭が高らかに宣言する。私は完璧な微笑みを顔に貼り付けながら、心の中で静かに決意した。


 三年以内に、この人と別れる、と。


 披露宴が終わり、夜が深くなった頃。私は夫となった男の執務室の扉を叩いた。


「夜分遅くに申し訳ありません。少々よろしいでしょうか」

「構わない。入ってくれ」


 扉の向こうから、低く落ち着いた声が返ってくる。

 失礼しますと足を踏み入れると、エドワードは机に向かい、書類に目を通しているところだった。婚礼の夜にまで書類仕事とは恐れ入る。


 私が向かいの席に腰を下ろすと、彼の端正な眉がわずかに動いた。


「単刀直入に申し上げます。私、三年以内にこの婚姻を解消したいと考えております」

「……なるほど。新妻の口から最初に出る言葉が、離婚の申し入れとはな」

「はい。もちろん、公爵家に泥を塗るつもりはありません。お互いにとって損のない形で、穏便に話を進めるつもりです」


 いきなりの離婚宣告。だが、彼からは怒りも驚きも伝わってこなかった。ただ静かに、その銀灰色の瞳で私を見つめ返してくるだけだ。


 何も読み取れないその視線に、私は少しだけ居心地の悪さを覚えた。前世で外交官として十七年間、数え切れないほどの交渉のテーブルについてきたが、相手の手札を初手からこれほどまでに読めなかったことは一度もなかったのに。


「念のため、理由を聞かせてもらってもいいか?」

「自由になりたいからです。誰かの庇護下(ひごか)ではなく、自分の足で働き、生きていきたい。ただ、未婚の女性が一人で生きていくにはどうしても後ろ盾がいります。一時的であれ『公爵夫人であった』という箔があれば、離婚後でもそれが可能になりますから」

「公爵夫人の箔か。確かに、力のない女性が自立するには極めて合理的な判断だな」

「ご理解が早くて助かります」

「しかし」


 エドワードは手元の書類から視線を外し、まっすぐに私を見て告げた。


「君の言い分はわかった。だが、今はその申し出には応じられない。こちらにも外聞を含め、色々と諸事情があってね」

「どのようなご事情でしょうか? 共有していただければ、私の方でも妥協点を探れますが」

「すまないが、軽々しく口にできる類の話ではないんだ。今はまだ、言えない」


 私は少しの間、彼の顔をじっと見つめた。嘘をついている時の顔ではない。だが、本当のことも言っていない。


「……わかりました。これ以上は平行線のようですから、この続きはまた改めて」


 初日での追及は無意味だと判断し、私は立ち上がって扉へ向かう。


「ヴィオレット」


 不意に名前を呼ばれ、思わず振り返った。


「——君は、私が思っていたよりもずっと面白い人だな」


 からかっているのか、本心なのか。声のトーンからは判別できなかった。

 私は何も返さず、小さく一礼して扉を閉めた。

 廊下は薄暗く、しんとした静寂に包まれていた。


 面白い、か。


 ◇◇◇


 翌朝、ダイニングの向かいの席は空だった。エドワードは夜明け前から王宮へ出仕しているらしい。


 私は一人で紅茶を飲みながら、給仕する使用人たちのひそひそ話を聞き流していた。


「奥様が旦那様の執務室に夜中に……」

「一刻も話し込んだとか……」

「旦那様が、お笑いになるところを……」


 自室に戻った私は、愛用の手帳を開いた。


『拒絶ではなく保留。理由を明かさない。感情が読めない』


 ペンを止めて、ふう、と息を吐く。手強い相手になりそうだけれど、交渉の余地はある。


 私は最後に、一行だけ書き足した。


『悪くない出だし』


 ◇◇◇


 結婚して三日、私はひとつのことを理解した。この屋敷の使用人たちは、徹底して口が堅い。


 エドワードの好きな食事を聞けば「なんでも召し上がります」、日課を尋ねれば「王宮のご都合によります」、交友関係については「存じません」。


 どれも嘘ではないのだろうけれど、本当のことでもない、当たり障りのない回答ばかりだ。


 四日目の朝、私は作戦を変えることにした。


「領地経営の勉強のために、執務に同席させていただけますか」

「構わないが、退屈なだけだぞ。それでも良いなら好きにするといい」


 あっさりとした返答だった。警戒しているのか、見せても困らないと判断したのか。どちらにせよ、彼のテリトリーへの一歩前進だ。


 エドワードの執務風景は、私の想像を遥かに超えていた。

 山のような陳情書、書簡、各方面からの来客対応。それをすべて、感情の揺れを一切見せずに淡々と、それでいて的確に裁いていく。


 感心して見ていると、一件の陳情書に対し、担当の家臣が「前例がありません」と難色を示した。


「前例がないから却下するというのは、単なる思考停止だ。過去の収穫量と今年の天候データを持ってこい。感情や慣習ではなく、数字で判断する」


 その毅然とした言葉に、私は思わず口を開いていた。


「合理的なご判断ですね。感情論より数字で動く領主の方が、結果的に農民は豊かになります。前世——」


 ハッとして、私は言葉を切った。


「——いえ、私が読んだ文献でも、そういった事例が多くありました」


 エドワードの切れ長な目が、わずかに細くなる。


「今、『前世』と言ったか?」

「本を読み過ぎて、知識が混同してしまいました。お気になさらず」

「……そうか。ずいぶんと変わった本を読んでいるのだな」


 彼はそれ以上深くは追及しなかった。だが、視線の温度が変わった気がした。私がエドワードを観察しているように、彼もまた私を観察している。そんな鋭い目だった。


 昼過ぎ、王宮の紋章を持つ使者が一通の封書を届けに来た。

 手紙に目を通した瞬間、エドワードの表情がわずかに変わった。何が書いてあったのかはわからない。ただ、それまでの一切の隙がない顔とは違う、何か重いものを(はら)んだ顔をしたことだけははっきりと見えた。


「悪いが、本日はここまでにしよう。急ぎ王宮へ行かなければならなくなった」

「では明日の朝食後に、続きのお時間をいただけますか。離婚協議の件です」

「……君は、見た目に反して随分と粘り強いのだな」

「交渉とは本来、粘り強く続けるものです」

「……わかった。明日の朝食後、一時間だけ時間を取ろう」


 彼を見送った後、夕食を一人で済ませた私は手帳を開いた。

 王家絡みの案件でだけ、彼の表情が変わる。彼が言った『諸事情』もそこに繋がるのだろうか?


 ペンを走らせながら、一つだけ確信したことがあった。

 この人はきっと今、何かとてつもなく重いものを一人で抱え込んでいる。

 そしてもう一つ。それが何であれ、私には関係ない話のはずだということ。


 ◇◇◇

  

 翌朝の朝食は、カトラリーの鳴る音だけが響く静かなものだった。食事が終わると、エドワードが先に口を開いた。


「さて、約束の一時間だ。君の要求を聞こうか」

「要求は三点です。三年以内の婚姻解消。解消後の行動の自由の保障。そして、双方の合意による円満な解消という形をとること。慰謝料などは一切不要です」

「要求は理解した。……だが、それを呑む代わりに、こちらからも一つだけ条件を出させてもらいたい」

「どうぞ」

「私の抱えている『諸事情』が完全に片付くまで、離婚の話は屋敷の外……いや、使用人たちにも一切漏らさないこと。これが条件だ」


 私は少しだけ間を置いた。


「……それだけですか?」

「ああ、それだけだ。他には何も望まない」


 シンプルすぎる。外交の経験上、シンプルな条件には必ず複雑な裏があるものだ。


「その『諸事情』というのを、少しだけでもお聞かせ願えませんか。リスクがわからない以上、無条件で了承するのは危険です」

「話せば君を巻き込むことになる。今はまだ、言わない方がいいと私が判断しているんだ」


 『言えない』のではなく『言わない』。私を守るためとも取れる言い回しに、少しだけペースを乱されそうになる。


「……わかりました。ただし、その事情が片付いたときは速やかに交渉を再開するとお約束ください」

「いいだろう、約束しよう。片付き次第、必ず君に伝える」

「では、書面で残しましょう」

「……最初から用意しているのか」

「もちろんです。言ったでしょう? 交渉は粘り強く行うものだと」


 私は昨夜のうちに用意しておいた覚書をすかさず取り出した。エドワードは目を丸くするでもなく黙ってそれに目を通すと、流れるような動作でペンを取った。


 『エドワード・クロスフォード』と署名される。私もそれに続いた。『ヴィオレット・クロスフォード』と。自分の名前に夫の姓がついている事実が、なんだかまだ少し奇妙に感じられた。


「……君は本当に、外交官みたいだな」


 引き出しに覚書を仕舞いながら、エドワードがふと漏らした。まるで私の過去を知っているかのような言い回しに、心臓が小さく跳ねる。


「そうでしょうか。物事を確実かつ丁寧に進めたいだけです」

「そうか……。ならいい。ただ、一つだけ追加で聞かせてくれないか」

「はい」

「昨日の言い間違い。『前世』というのは、具体的にどんな本の内容なんだ?」

「ですから、ただの空想物語です。よくあるおとぎ話ですよ」


 エドワードは口を閉ざした。ただその唇が、もう一言続きの言葉を紡ごうとするかのように、ほんの少しだけ動いた。


 ◇◇◇


 その日の夕方、王妃宮から茶会の招待状が届いた。新任の公爵夫人としての、社交界デビューの機会だ。

 差出人の名前を見つめながら、私はエドワードの顔を思い浮かべていた。


 王宮との繋がり。彼の抱える諸事情。そして、このタイミングでの招待状。


 すべて偶然かもしれない。けれど、外交の世界で偶然を信じていては、長く生き残ることはできなかった。


 王宮の茶会には、十数名の高位貴族の夫人たちが集まっていた。私は完璧な『公爵夫人』の微笑みを張り付け、当たり障りのない挨拶を交わしながら、ひたすらに場を観察した。


 誰が誰を避けているか。会話の中に潜む不自然な間。ふとした瞬間の視線の向く先。


 一時間も経たないうちに、私はある一つの事実に気づいた。王太子の婚約についての話題が出るたび、全員がわずかに言葉を選び、空気が強張るのだ。


 帰宅すると、珍しくエドワードが玄関で私を出迎えた。


「王太子殿下の婚約について、何かご存知ですか」


 すれ違いざまにそう問いかけると、一瞬だけ彼の目が鋭く光った。


「ここでは人目がある。……執務室へ来い、説明しよう」


 重厚な扉が閉まると、エドワードは重い口を開いた。


「王太子が特定の令嬢との縁談を望んでいる。だがそれが成立すれば国内の派閥バランスが大きく崩れることになる。私は王家から、その縁談を阻止するための時間稼ぎを頼まれたんだ」

「……まさか、王太子の代わりにあなたがその令嬢を娶るよう圧力をかけられていたのですか?」

「ご名答だ。だが、私は首を縦に振らなかった。代わりに君を妻に迎えることで、私自身を政略結婚の市場から引き剥がしたんだ」

「私との結婚が、そのための盾というわけですか」

「ああ、その通りだ。私が『既婚者』という安全な壁の中にいる間に、令嬢の別の嫁ぎ先を水面下で探す必要があった」


 だから、離婚の話を外に出すなという条件だったのだ。私が公爵家を出たがっていると知られれば、盾としての機能はたちまち失われてしまう。


「つまり、その『別の嫁ぎ先』が見つからない限り、あなたは私と離婚できない。私はこのまま、公爵夫人を演じ続けなければならないということですね」

「……残念ながら、そうなる。君を縛り付けることになってすまないと思っている」

「謝罪は不要です。理由がわかった以上、引き続き円満な夫婦を演じましょう。ただし、一つだけ条件があります。情報をすべて共有してください。何も知らないまま戦場に立たされるのはご免です」


 エドワードはしばらくの間、じっと私を見つめていた。


「……君は、本当に外交官みたいだな。いや、下手な外交官よりもよほど手強い」

「光栄な比喩ですね」


 今度は、はっきりとわかった。彼の口元に、わずかに笑みが浮かんでいる。


「わかった。君を戦場に丸腰で立たせるような真似はしない。これからは、すべての情報を共有しよう」


 ◇◇◇


 それから、三ヶ月が経った。


 表向き、私たちクロスフォード夫妻は理想的な貴族の夫婦だった。社交の場では並んで立ち、互いを立て合い、適度に微笑み合う。


 そして夜の書斎では、二人きりで機密情報を広げ、互いの知恵を絞って策を練った。


 ある夜。薄暗い執務室で、膨大な資料を前に私が思わず目をこすっていると、ことり、と手元の机にティーカップが置かれた。見上げると、エドワードが立っていた。


「少し休んだらどうだ。君にそこまで無理をさせるために、夜の執務室に呼んだわけではないんだ」

「でも、このデータ分析が終わらないと明日の水面下の交渉に……」

「君の本来の仕事は社交だ。こんな裏仕事は、私の我儘(わがまま)に付き合わせているだけだ。……だが、君の視点や分析は誰よりも鋭い。本当に助かっているよ」


 不器用な労いの言葉と共に差し出された、温かいミルクティー。


 彼が私をただの「飾り物の公爵夫人」としてではなく、一人の人間として、対等な相棒として扱ってくれているのが伝わってきて、胸の奥がじんわりと温かくなった。


 王太子が狙う令嬢は、東部辺境伯の娘だった。彼女との婚約が成立すれば宰相派の力が削がれるため、宰相派は何としてもそれを阻止したい。エドワードはその中間地点で、双方から強烈な圧力をかけられ続けていた。


「辺境伯の娘を、別の縁談で先に片付けてしまいましょう」


 私の言葉に、エドワードが顔を上げた。


「先月の茶会で、北部侯爵家の次男が良い縁談を探していると小耳に挟みました。家格も悪くありません。辺境伯が乗るかどうかは、条件次第ですが」

「……北部侯爵家だと? どこでそんな確度の高い情報を手に入れたんだ」

「茶会ですよ。女性の情報網と雑談の裏を甘く見てはいけません」


 一ヶ月後、辺境伯の娘の婚約が正式に発表された。相手は北部侯爵家の次男。王太子は激怒したらしいが、既成事実の前では動くことができなかった。


 王宮からの書簡が届いた夜。エドワードは封を開けて手紙を読み終えると、長く、深い息を吐き出した。そして、真っ直ぐに私を見て言った。


「……どうやら、ようやく終わったらしい。王太子は折れたよ」

「では——」

「わかっている。約束通り、君との離婚交渉を再開しよう。長々と縛り付けてすまなかった」


 その夜、私は自室で手帳を開いたまま、ずっと何も書けずにいた。


 三ヶ月分の記録がそこにある。ただ、その事務的な記録の間に、いつの間にか違う感情が混ざり込んでいた。

 執務室で並んで作業している時の、あの静かで、心地よい時間。彼と交わす、知的で無駄のない会話。


 いつから、離婚したくないなどと考えるようになっていたのだろう。


 私はそっと手帳を閉じた。


 ◇◇◇


 翌朝、エドワードは数枚の書類を持って現れた。婚姻解消のための法的文書だった。私が要求した三つの条件がすべて満たされた、完璧な内容だ。


「書類に目を通してみてくれ。内容に問題がなければ、来週にでも正式な手続きに入れるよう手配してある」


 来週。三年かかると思っていたことが、たった三ヶ月で終わる。

 私は書類に視線を落としたまま、しばらく言葉を紡げなかった。


「手続きの前に、一つだけ聞いていいですか」

「何だ」

「あなたはこの三ヶ月間、私のことをどう思っていましたか」

「政治的な共犯者として、非常に優秀だと思っていた。……それ以上でも以下でもない、と、そう簡単に言い切れればよかったんだがな」

「……言い切れないのですか?」

「ああ、今の私にはとても言えない」


 エドワードは一歩踏み出し、絞り出すように言った。


「私は最初から、君をこの家から手放すつもりなど、微塵もなかったんだ」


 思いもよらない言葉に、私は息を呑んで固まった。


「覚書を受け入れたのも、不利な条件を飲んだのも、すべては時間を稼ぐためだ。君が本当にこの家を去りたいと望むなら、私に止める権利はない。ただ、一緒にいる時間が増えれば、君の考えが変わるかもしれないと思った。……そう願っていた」

「……それは、交渉の相手にするようなことではありません。私を騙していたも同然です」

「自分でもわかっている。交渉のテーブルにつく人間のやり方じゃない。ひどく卑怯だとな」

「ええ、卑怯です」

「それでも」


 エドワードは初めて、はっきりと私の目を見つめた。常に無表情だった氷の公爵の瞳が、今は微かに揺れている。そこにあったのは余裕のなさ。手放したくないという、不器用で切実な執着だった。


「君と机を並べて、同じ目線で策を練る時間は……これまでの私の退屈な人生の中で、一番、心地よくて、やりやすかったんだ」


 前世で十七年、外交官として生きた。数え切れないほどの交渉をしてきた。

 でも、隣に立って、同じ目線で一緒に考えてくれた人は、今まで一人もいなかった。


 「もし私が、離婚をやめると言ったら——」私はゆっくりと口を開いた。「これからも情報を共有して、隣で一緒に考えてくれますか」


「……本当に、それだけでいいのか? 君の自由を奪うことには変わりないぞ」

「まずは、それだけで十分です」

「ああ、約束しよう。これからは何事も、まず君に相談する」


 婚姻解消の書類は、机の引き出しの奥深くへとしまわれた。

 私は手帳を開いて、一行だけ書いた。


『離婚交渉、一時停止』


 ペンを置いて少し考え、それから斜線で消して、書き直した。

 ——理由は、まだ書かない。


 ◇◇◇


 それから、一年が経った。

 ある日の柔らかな日差しが差し込む執務室で、私はふと尋ねた。


「最初から、私が前世の記憶を持っていると知っていましたか?」


 書類に向かっていたエドワードの手が、ピタリと止まる。


「……ほう? なぜ急に、そんなことを思い至ったんだ?」

「私の言い間違いを二度もスルーしたこと。『外交官みたいだ』と言ったこと。初手から手札をまったく読ませてくれなかったこと。全部、今思えば少し不自然でした」

「……ああ、参ったな。君の言う通りだ、最初から知っていたよ」


 エドワードは観念したように、静かに認めた。


「王命などではない。君の家に無理を言って縁談を持ちかけたのは、他でもない私自身だ」

「……なぜですか」

「前世で、一度だけ君と会ったことがあるんだ。ある複雑な外交の場でね。互いに名前も立場も違ったが……あの時の君の鮮やかな交渉手腕と、凛とした姿を、どうしても忘れられなかった」

「前世の記憶が、あなたにも」

「ああ、私にもある。だから君を見つけ出せた」


 私は驚きのあまり、しばらく瞬きすることしかできなかった。


「最初からそう言ってくれれば良かったのに」

「言えるわけがないだろう。どこの馬の骨とも知れない前世の男の記憶など、君が覚えている保証はどこにもなかったんだから」

「たしかに、一理ありますね」


 私は思わず吹き出して、小さく笑った。


「では、一つだけ教えてください。前世で会った時、私のことをどう思いましたか?」


 エドワードはいつものように私を見た。だが、出会った頃とは違う。完璧だったはずのポーカーフェイスが微かに崩れ、その口元には柔らかく、ひどく不器用な笑みが浮かんでいた。


 隠されていた熱い感情が、今は痛いほどにはっきりと読める。


「——あの時からずっと、もう一度だけ、君に会いたいと願い続けていた。だから、私の負けだ」


 その夜、私は愛用の手帳を開いた。そして、真新しいページにこう記した。


『離婚交渉、正式に終了』

『理由:目的を見失ったため』


 少し考えて、最後の一行を付け加える。


『自由になりたかった。そして実際になれた。ただし予定とは、まったく違う形で』


(完)

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