第8話「義の迷路 ― 謙信、心の闇へ」
関東・上野国、夜。
戦の煙がまだ空に残る夜、謙信は陣中の一室で一人、地図を見つめていた。
蝋燭の炎が揺れ、影が地図の上を歪ませる。
(義は……どこへ向かうのだ)
清胤からの書状には、焼ける村と泣き叫ぶ少女の姿が記されていた。
前久からの書状には、関東制圧を急ぐよう命じる言葉が並んでいた。
二人の言葉は、どちらも正しい。
だが、どちらも現実を救ってはいない。
謙信は拳を握りしめた。
「義を掲げても……民は救われぬのか」
そのとき、外から兵の声が聞こえた。
「謙信公! 北条軍、再び接近!」
謙信は立ち上がり、刀を手に取った。
「行くぞ」
***
戦場は、泥と血と煙に覆われていた。
北条軍は地形を利用し、村を盾にして戦っている。
「謙信公、これ以上進めば村が巻き込まれます!」
家臣の叫びが響く。
謙信は歯を食いしばった。
(義を貫けば民が死ぬ。
民を守れば義が折れる。
これは……何だ)
北条軍の矢が飛び、兵が倒れる。
「退け! 退けぇ!」
家臣たちが叫ぶ中、謙信はただ前を見つめていた。
(義とは……何だ)
そのとき、敵の兵が村の家に火を放った。
炎が上がり、民の悲鳴が響く。
「やめろ……!」
謙信は叫び、馬を走らせた。
だが、炎はすでに村を包み、民は逃げ惑っている。
「義は……どこにあるのだ!」
謙信の叫びは、炎に飲まれた。
***
戦が終わり、夜が訪れた。
謙信は一人、焼け跡に立っていた。
焦げた木の匂い、倒れた家、泣き崩れる民。
その光景は、清胤が見たものと同じだった。
(私は……何をしている)
義を掲げて戦った。
だが、救えたものは何もない。
そのとき、背後から声がした。
「謙信公……」
振り返ると、清胤が立っていた。
顔には疲労と悲しみが刻まれている。
「清胤殿……」
清胤は焼け跡を見渡し、震える声で言った。
「私は……仏法を説き、民を救うつもりでした。
だが……現実は、仏法を嘲笑っています」
謙信は目を閉じた。
「私も同じだ。
義を掲げて戦ったが……民は救われぬ」
清胤は謙信に近づき、静かに言った。
「謙信公……あなたは、義を信じていますか」
謙信は答えられなかった。
清胤は続けた。
「私は……仏法を信じています。
だが、信じるだけでは……民は救えぬのです」
謙信は拳を握りしめた。
「義も……同じだ。
信じるだけでは、何も変わらぬ」
二人は沈黙した。
炎の残り香が、夜風に乗って漂う。
清胤が言った。
「謙信公……あなたは、どこへ向かうのですか」
謙信は空を見上げた。
雲が厚く、月は見えない。
「……わからぬ。
義の道は、闇に沈んでいる」
清胤は目を閉じた。
「公界の道も……闇に沈みつつあります」
謙信は清胤を見た。
「清胤殿……前久殿は、どうしている」
清胤は答えた。
「京で孤立しています。
公界構想は、朝廷にとって脅威なのです」
謙信は息を呑んだ。
(前久殿も……苦しんでいるのか)
清胤は続けた。
「三者の理想は、まだ折れてはいません。
だが……揺らぎ始めています」
謙信は刀を見つめた。
「義の剣は……どこへ向かうのだ」
清胤は静かに言った。
「謙信公……
あなたが迷えば、公界は崩れます。
あなたが進めば、公界は続きます」
謙信は目を閉じた。
(私は……進むべきなのか)
そのとき、遠くで雷鳴が響いた。
清胤が呟いた。
「嵐が来ます……
義も、仏法も、政治も……
すべてを試す嵐が」
謙信は空を見上げた。
「ならば……私は進む。
闇の中でも、義を探すために」
清胤は深く頷いた。
「その迷いこそ……あなたの義です」
二人は焼け跡に立ち尽くした。
その夜、謙信は初めて悟った。
**義の迷路は、心の闇へ続いている。**
そしてその闇は、
三者の理想を飲み込む前兆だった。




