第6話「京の影 ― 前久、孤立す」
京・内裏。
永禄四年の夏、京は湿った熱気に包まれていた。
だが、その熱気以上に重く淀んでいるのは、朝廷内部の空気だった。
近衛前久は、内裏の一室で公家たちに囲まれていた。
その表情は、怒りと恐怖と侮蔑が入り混じっている。
「関白殿、そなたの“公界構想”とやら……あれは何だ」
「民が主となる? 仏法の規律を基とする? 武家をその下に置く?」
「狂気だ! 朝廷の伝統を否定するつもりか!」
前久は扇子を閉じ、静かに言った。
「伝統は守るためにあるのではない。
民を救うためにあるのだ」
その瞬間、部屋の空気が凍りついた。
三条家の当主が立ち上がり、怒声を上げる。
「民を救う? 民など、朝廷の外にいる存在にすぎぬ!
そなたは何を勘違いしている!」
前久は微笑んだ。
「勘違いしているのは、そなたらだ。
民がいなければ、朝廷は存在しない」
公家たちの顔が一斉に歪む。
「関白殿……そのような思想は危険ですぞ」
「寺社勢力を肥大化させるつもりか」
「武家を刺激すれば、京は再び戦火に包まれる!」
前久は一歩前に出た。
「だからこそ、公界が必要なのだ。
朝廷も武家も、仏法の規律の下に置き、
民を中心とした秩序を築く」
公家たちはざわめき、怒りを抑えきれない。
「関白殿……そなたは、朝廷を壊すつもりか」
前久は静かに答えた。
「壊すのではない。
救うのだ」
その言葉に、誰も返せなかった。
だが、沈黙は支持ではない。
沈黙は、恐怖と拒絶の証だった。
***
会議が終わり、前久は一人、内裏の廊下を歩いていた。
夕暮れの光が差し込み、長い影が伸びている。
(……彼らには、何も見えていない)
朝廷は腐り、権門は己の利しか見ず、
民は苦しみ、武家は争う。
(このままでは、何も残らぬ)
そのとき、背後から声がした。
「関白殿」
振り返ると、三条西公条が立っていた。
昼間の怒りは消え、代わりに冷たい笑みが浮かんでいる。
「そなたの“公界”とやら……
あれは、朝廷にとって脅威だ」
前久は言った。
「脅威で結構だ。
腐ったものは、脅かされて当然だ」
公条は扇子を開き、口元を隠した。
「ならば、そなたは……排除される」
前久は笑った。
「排除できるものなら、してみよ。
私は、民のために動く。
そなたらのように、己の家のためではない」
公条の目が細くなる。
「……そなたは孤立したぞ、前久殿」
前久は歩き出した。
「孤立で結構。
私は、清胤と謙信がいれば十分だ」
公条はその背に言葉を投げた。
「その二人も、いずれそなたを見捨てる」
前久の足が止まった。
「……何?」
公条は笑った。
「宗教者は理想を追い、武将は現実を見る。
そなたのような“政治の理想家”は、
どちらからも見放される運命だ」
前久は振り返らずに言った。
「それでも構わぬ。
私は、この国を変えるために動く」
公条は呟いた。
「その理想が、そなたを滅ぼす」
***
夜、前久は自邸に戻り、清胤からの書状を開いた。
――謙信公、義の剣を振るうも、民の苦しみ深し。
――関東の現実、想像以上に重し。
――公界の道、険し。
前久は書状を握りしめた。
(清胤……謙信……
そなたらも、現実に苦しんでいるのか)
前久は立ち上がり、夜空を見上げた。
雲が厚く、月は見えない。
「公界の道は……
なぜ、これほど遠いのだ」
その声は、誰にも届かない。
京の影は深く、
前久の孤立は、静かに進んでいった。




