第5話「関東の泥濘 ― 義の剣、現実に沈む」
関東・上野国。
春の終わり、関東平野には湿った風が吹いていた。
田畑は荒れ、村々は焼け、民の顔には疲労と諦めが刻まれている。
上杉謙信は、馬上からその光景を見つめていた。
(これが……関東の現実か)
越後の山々とは違う。
ここには、果てしない平野と、果てしない苦しみが広がっている。
「謙信公、北条方の動きが活発です!」
家臣の声が響く。
謙信は頷き、軍勢を前へ進めた。
「義の旗を掲げよ。
我らは民を救うために来たのだ」
だが、民の目は冷たかった。
「また戦か……」
「どの武将も、結局は同じだ」
「義など、腹は満たしてくれぬ」
その声が、謙信の胸に突き刺さる。
(義は……届いていないのか)
そのとき、敵の狼煙が上がった。
「北条軍、接近!」
謙信は刀を抜いた。
「行くぞ。
義の剣、ここに示す!」
軍勢が動き、戦が始まった。
――だが。
北条の防衛線は強固だった。
地形を熟知し、村々を盾にし、民を巻き込むことすら厭わない。
謙信は歯を食いしばった。
「民を巻き込むとは……!」
家臣が叫ぶ。
「謙信公、これ以上進めば村が焼かれます!」
「退けば、北条が勢いづく!」
「しかし……!」
謙信は刀を握りしめた。
(義を貫けば民が死ぬ。
民を守れば義が折れる。
これは……何だ)
戦は膠着し、泥濘の中で兵たちは疲弊していく。
その夜、謙信は陣中で地図を広げていた。
蝋燭の炎が揺れ、影が地図の上を踊る。
「……義とは、何だ」
呟いたその声は、誰にも届かない。
そこへ、清胤からの書状が届いた。
――義は、民のためにある。
――民を救うために、剣を振るえ。
謙信は拳を握りしめた。
「民を救うために剣を振るう……
だが、その剣が民を傷つけるのだ」
清胤の言葉は正しい。
だが、現実はそれを許さない。
そのとき、使者が駆け込んできた。
「謙信公! 関白殿より急使です!」
謙信は書状を受け取り、封を切った。
――関東の乱れを正せ。
――公界の第一歩は、そなたの義挙にかかっている。
――退くな。進め。
謙信は目を閉じた。
(前久殿……あなたは、現実を知らぬ)
清胤は“心”を導く。
前久は“道”を示す。
だが――
その道は、泥濘に沈んでいる。
謙信は立ち上がり、外に出た。
夜空には雲が広がり、月は見えない。
「義の剣は……どこへ向かうのだ」
そのとき、遠くで村の悲鳴が上がった。
「北条軍が村を襲っています!」
謙信は刀を掴んだ。
「行くぞ!
民を救うために戦うのだ!」
馬を走らせながら、謙信は叫んだ。
「義は……民のためにある!」
だが、村に着いたときには、すでに炎が上がっていた。
民は逃げ惑い、兵は倒れ、子どもの泣き声が響く。
謙信は炎の中で立ち尽くした。
(私は……何をしている)
義の剣は、民を救えなかった。
その夜、謙信は清胤に書状を書いた。
――義は、民を救えぬのか。
――公界は、理想にすぎぬのか。
――私は、何を信じればよいのだ。
筆が震え、墨が滲む。
越後の風とは違う、
関東の湿った風が、謙信の心を冷やしていった。
そして、謙信は初めて悟る。
**義の剣は、現実の泥濘に沈む。**
その泥濘こそが、
三者の理想を飲み込む最初の兆しだった。




