第3話「関白の策 ― 公界の宣言」
京・近衛邸。
永禄四年の春、京の空は薄曇りだった。
桜は咲き始めているが、都の空気は重く、どこか湿っている。
朝廷の権門たちが互いの足を引きずり合い、腐臭を放っているからだ。
近衛前久は、広間の中央に座し、文箱を開いた。
その中には、越後から届いた一通の書状がある。
――清胤より。
前久は封を切り、静かに読み始めた。
「……謙信公、義をもって公界の先兵となることを承諾す」
前久の口元が、ゆっくりと笑みに変わった。
「やはり、あの男は動いたか」
そのとき、側近の公家が慌てて駆け込んできた。
「関白殿! 三条家、二条家が“公界構想”に反対の意を示しております!」
前久は笑みを崩さず、扇子を軽く振った。
「当然だ。彼らは“朝廷の伝統”という名の腐肉に群がる蠅よ。
だが、私はその腐肉ごと焼き払うつもりだ」
側近は震えた。
「し、しかし……公界とは、あまりに大胆すぎます。
民が主となり、仏法の規律を基とし、武家も朝廷もその上に立つなど……」
前久は扇子を閉じ、側近を見据えた。
「大胆でなければ、この国は変わらぬ。
そして――その大胆さを実行できるのは、謙信だけだ」
前久は立ち上がり、庭に出た。
春の風が吹き、桜の花びらが舞う。
「清胤は“心”を導く。私は“道”を示す。
そして謙信は“剣”を振るう。
この三つが揃えば、公界は必ず形になる」
前久は空を見上げた。
「だが……問題は、京の連中がそれを許すかどうかだ」
そのとき、背後から声がした。
「許すはずがございませんな、関白殿」
振り返ると、三条西実隆の孫・三条西公条が立っていた。
公家の中でも特に保守的な家柄だ。
「民が主となるなど、朝廷の権威を否定するに等しい。
仏法の規律を基とするなど、寺社勢力を肥大化させるだけ。
そして何より……武家をその下に置くなど、狂気の沙汰です」
前久は微笑んだ。
「狂気で結構。だが、そなたらの“正気”がこの国を滅ぼしたのだ」
公条は眉をひそめた。
「関白殿……まさか本気で“公界”を宣言なさるおつもりか?」
前久は桜の花びらを一枚掴み、指で潰した。
「本気だ。
私は朝廷の伝統すら捨てる覚悟があると、清胤にも言った」
公条は息を呑んだ。
「……ならば、我らは関白殿に従えませぬ」
前久は笑った。
「従わずともよい。
だが、歴史は私の側に立つだろう」
公条は怒りを抑えきれず、踵を返して去っていった。
前久はその背を見送りながら呟いた。
「さて……京の反発は予想通り。
あとは、謙信が“義の剣”を振るうだけだ」
前久は文箱を閉じ、清胤の書状を胸に抱いた。
「清胤……謙信……
この国を変えるのは、我ら三人だ」
そのとき、遠くで雷鳴が響いた。
春の嵐が近づいている。
前久は空を見上げ、静かに笑った。
「嵐が来る。
だが、それでよい。
嵐こそが、腐ったものを洗い流すのだから」
京の空に、重い雲が広がっていった。




