第2話「義の器 ― 清胤、越後へ」
越後・春日山城。
冬の名残が山肌に白く残る頃、清胤は険しい山道を登っていた。
京の腐臭とは違う、凛とした冷気が肺を満たす。
(この地こそ、義の器が育つ場所か)
清胤は、前久の言葉を思い返していた。
――上杉謙信。
――義を掲げ、己を律し、民のために剣を振るう男。
だが同時に、清胤は恐れていた。
政治の器に押し込めれば、謙信の義は濁る。
仏法の器に閉じ込めれば、謙信の義は狭まる。
(彼は……どちらにも収まらぬ器かもしれぬ)
山門をくぐると、春日山城の家臣たちが清胤を迎えた。
その視線には、僧侶への敬意と、どこか警戒が混じっている。
「遠路はるばる、よくぞお越しくださいました。謙信公がお待ちです」
案内されたのは、城の奥にある静かな一室。
障子越しに差し込む光が、床の間の刀を照らしている。
その中央に、上杉謙信が座していた。
白い息を吐きながら、清胤は一礼する。
「越後守護代・長尾景虎殿……いえ、上杉謙信公。
お目にかかれて光栄に存じます」
謙信は静かに頷いた。
「京よりの旅、さぞ骨が折れたであろう。
清胤殿、そなたが来た理由は……察しておる」
清胤は驚いた。
「察しておられる、と?」
謙信は刀に手を触れず、ただその光を見つめていた。
「関白殿が動いた。朝廷は乱れ、武家は争い、民は苦しむ。
その中で、そなたが越後に来たということは……」
謙信はゆっくりと清胤を見た。
「“義の行方”を問うためであろう」
清胤は息を呑んだ。
(この男……すでにここまで見えているのか)
謙信は続ける。
「私は、己の義を信じて戦ってきた。
だが、義だけでは救えぬものがある。
関東の乱れ、北条の強固、民の嘆き……」
謙信の声は、静かだが深い。
「義は、ただの言葉では足りぬ。
義を形にする“秩序”が要る」
清胤は膝を正し、深く頭を下げた。
「その秩序こそ……“公界”です」
謙信の目がわずかに揺れた。
「公界……?」
清胤は語る。
「民が主となり、仏法の規律を基とし、
武家も朝廷も、その上に立つことを許されぬ世界。
関白殿は、それを築こうとしておられます」
謙信は黙した。
清胤は続ける。
「その先兵として、あなたを望んでおられる。
義を掲げ、己を律し、民のために剣を振るう……
あなたこそが、“公界の器”なのです」
謙信はしばらく沈黙した。
やがて、静かに口を開く。
「清胤殿。
そなたは、私を政治の器に押し込めるつもりか」
清胤は首を振った。
「いいえ。
あなたは、政治にも宗教にも収まらぬ器です。
だからこそ、あなたが必要なのです」
謙信は目を閉じた。
「……私は、ただ義を貫きたいだけだ。
だが、その義が民を救えぬのなら……」
謙信は刀を見つめた。
「義は、何のためにあるのだ」
清胤は答えた。
「義は、民のためにある。
そして民を救うには、剣だけでは足りぬ。
秩序が要る。理念が要る。心が要る」
謙信は清胤を見た。
「その心を、そなたが導くというのか」
清胤は深く頷いた。
「はい。
私はあなたの“心”を導きます。
仏法の規律をもって、あなたの義を磨き上げます」
謙信は立ち上がり、障子を開けた。
越後の風が吹き込み、二人の衣を揺らす。
「清胤殿。
この越後の空を見よ」
清胤は外を見る。
雪を抱いた山々が連なり、
その向こうに、まだ見ぬ未来が広がっているようだった。
「私は、この地の民を守るために剣を取った。
だが……もしその剣が、この国全てを救うために必要なら……」
謙信は振り返った。
「私は戦おう。
公界のために。
民のために。
そして――義のために」
清胤は深く頭を下げた。
(この男こそ……義の器)
その瞬間、
清胤は確信した。
この三者――
清胤、前久、謙信――
その理想は、必ず歴史を動かす。
だが同時に、
その理想が三者を破滅へ導くことも、
清胤はまだ知らなかった。
越後の風が、静かに吹き抜けた。




