第1話「密議の月」
京・近衛邸。
永禄四年の冬は、例年よりも冷え込みが厳しかった。
清胤は、庭に積もる霜を踏みしめながら歩いていた。
夜空には薄い雲がかかり、三日月がぼんやりと滲んでいる。
(この国は、どこへ向かうのか)
戦乱は止まず、
寺社は焼かれ、
民は飢え、
朝廷は力を失い、
武家は己の利を追う。
仏法を説いても、
救われぬ者が増えるばかりだった。
そのとき、前久が現れた。
「来てくれたか、清胤」
「関白殿。
このような夜更けに、いかなるご用向きで?」
前久は清胤を広間へ招き入れ、
襖を閉めると、声を潜めて言った。
「清胤……
この国を、変えたいと思ったことはないか」
清胤は一瞬、言葉を失った。
「変える……と?」
「朝廷の権力争いも、武家の私利私欲も、
もはや誰にも止められぬ。
だが――
“新たな公界”を築くことなら、できる」
前久の目は、狂気と理想の境界にあった。
「公界……
民が主となり、
仏法の規律を基とし、
武家も朝廷も、その上に立つことを許されぬ世界」
清胤は息を呑む。
それは、
仏法者として夢見た世界に近かった。
だが同時に、
あまりにも危険な思想でもある。
「……それを、誰が成すのです」
前久は、ゆっくりと口角を上げた。
「上杉謙信だ」
清胤の胸が震えた。
「越後の龍……
確かに、彼は義を掲げ、己を律し、
民のために剣を振るう器を持つ」
「そうだ。
謙信は、武家の中で唯一、
“己の利”ではなく“義”で動く男だ」
前久は続ける。
「清胤。
おぬしには、謙信の“心”を導いてほしい。
仏法の真髄を授け、
彼を“公界の先兵”として鍛え上げてほしい」
清胤は、深く目を閉じた。
(謙信……
あの男なら、確かに……)
だが、同時に思う。
(彼を政治の器に押し込めることが、
本当に正しいのか)
前久は清胤の迷いを見抜いた。
「清胤。
この国は、もう限界だ。
民は苦しみ、寺社は焼かれ、
朝廷は腐り、武家は争う。
このままでは、何も残らぬ」
清胤は静かに問う。
「……関白殿は、
本気で“公界”を築くおつもりなのですか」
前久は、迷いなく答えた。
「本気だ。
この国を救うためなら、
私は朝廷の伝統すら捨てる覚悟がある」
清胤は息を呑んだ。
(この男は……本気だ)
そして、清胤は決意する。
「……わかりました。
私が謙信公を導きましょう。
仏法の規律をもって、
彼の“義”を磨き上げます」
前久は深く頷いた。
「頼んだぞ、清胤。
この国の未来は、
おぬしと謙信にかかっている」
清胤は立ち上がり、
夜空の三日月を見上げた。
その光は、
まるで三者の運命を象徴するように、
細く、鋭く、揺れていた。
(謙信……
あなたは、この国を救えるのか)
清胤は静かに歩き出した。
ここから、
三者の理想と破滅の物語が始まる。




