エピローグ「雪の向こうに ― 公界の残響」
越後・春日山城、翌春。
雪解けの水が山を流れ落ち、谷に小さな川をつくっていた。
冬の厳しさは去り、越後の大地はゆっくりと息を吹き返している。
清胤は、春日山の麓にある小さな堂で、一人、経を読んでいた。
その声は静かで、風に溶けるように淡い。
堂の外では、あの少女が花を摘んでいる。
火傷の跡はまだ残っているが、表情には確かな光が宿っていた。
(この子が生きている……
それだけで、仏法は無力ではない)
清胤は経を閉じ、空を見上げた。
雲の切れ間から、柔らかな光が差している。
「公界は……まだ遠い。
だが、心は残る」
そのとき、堂の前に影が落ちた。
「清胤殿」
上杉謙信が立っていた。
鎧ではなく、質素な衣をまとい、剣も帯びていない。
「謙信公……」
謙信は堂の前に座り、静かに言った。
「私は、義を断罪した。
だが……義は死ななかった。
義は、形ではなく“心”に宿るものだと知った」
清胤は頷いた。
「公界も同じです。
形ではなく、心に宿るものです」
謙信は少女を見つめた。
「この子が生きている。
それだけで……義も仏法も、まだ死んではいない」
清胤は微笑んだ。
「はい。
民の心に残る限り、理想は消えません」
謙信は立ち上げ、山の向こうを見つめた。
「前久殿は……どうしている」
清胤は答えた。
「孤立しています。
だが……折れてはいません。
彼もまた、心に公界を抱いています」
謙信は深く息を吸った。
「ならば……我ら三者の誓いは、まだ生きている」
清胤は静かに言った。
「形にはならずとも……
その理想は、必ず未来に残ります」
謙信は空を見上げた。
春の光が、雪の残る山々を照らしている。
「公界の夢は……
我らの代では叶わぬかもしれぬ」
清胤は頷いた。
「ですが……
夢は、誰かが継ぎます。
民の心に、必ず残ります」
謙信は少女の方へ歩き、そっと頭を撫でた。
少女は笑った。
その笑顔は、戦乱の中で生まれた小さな光だった。
謙信は呟いた。
「この光が……未来を照らすのだろう」
清胤は深く頭を下げた。
「公界の黎明は……
すでに始まっています」
風が吹き、雪解けの匂いが漂った。
三者の理想は、形にはならなかった。
だが、その残響は――
確かに未来へと続いていた。




