第10話「義の断罪 ― 謙信、決断の夜」
越後・春日山城、深夜。
秋の風が山を渡り、城の障子を揺らしていた。
謙信は一人、灯火の下で刀を磨いていた。
その刃には、戦場の泥と血がまだ残っている。
(義の剣は……民を救えぬ)
清胤からの書状には、焼ける村と泣き叫ぶ少女の姿が記されていた。
前久からの書状には、関東制圧を急ぐよう命じる言葉が並んでいた。
二人の言葉は、どちらも正しい。
だが、どちらも現実を救ってはいない。
謙信は刀を置き、深く息を吐いた。
「義とは……何だ」
そのとき、扉が静かに開いた。
「謙信公」
清胤が立っていた。
その顔には、深い疲労と悲しみが刻まれている。
「清胤殿……」
清胤は謙信の前に座り、静かに言った。
「謙信公……私は、仏法を信じています。
だが……現実は、仏法を嘲笑っています」
謙信は目を閉じた。
「私も同じだ。
義を掲げて戦ったが……民は救われぬ」
清胤は震える声で言った。
「謙信公……あなたは、義を信じていますか」
謙信は答えられなかった。
清胤は続けた。
「私は……仏法を信じています。
だが、信じるだけでは……民は救えぬのです」
謙信は拳を握りしめた。
「義も……同じだ。
信じるだけでは、何も変わらぬ」
二人は沈黙した。
灯火が揺れ、影が壁に伸びる。
そのとき、使者が駆け込んできた。
「謙信公! 京より急使です!」
謙信は書状を受け取り、封を切った。
――関白殿、朝廷内で孤立。
――公界構想、反発強し。
――謙信公の義挙こそ、唯一の希望。
――退くな。進め。
謙信は書状を握りしめた。
(前久殿……そなたは、現実を知らぬ)
清胤は謙信の表情を見て、静かに言った。
「謙信公……あなたは、どこへ向かうのですか」
謙信は立ち上がり、障子を開けた。
夜風が吹き込み、灯火が揺れる。
「……わからぬ。
義の道は、闇に沈んでいる」
清胤は目を閉じた。
「公界の道も……闇に沈みつつあります」
謙信は空を見上げた。
雲が厚く、月は見えない。
「清胤殿……
私は、義を貫くべきなのか。
それとも……義を捨てるべきなのか」
清胤は震える声で言った。
「謙信公……
あなたが迷えば、公界は崩れます。
あなたが進めば、公界は続きます」
謙信は拳を握りしめた。
「私は……進むべきなのか」
清胤は答えられなかった。
そのとき、遠くで雷鳴が響いた。
清胤が呟いた。
「嵐が来ます……
義も、仏法も、政治も……
すべてを試す嵐が」
謙信は刀を手に取り、静かに言った。
「清胤殿……
私は決めた」
清胤は息を呑んだ。
「……何を、ですか」
謙信は刀を鞘に収め、背を向けた。
「義を……断罪する」
清胤は震えた。
「断罪……?」
謙信は振り返らずに言った。
「義を掲げても民は救われぬ。
義を捨てても民は救われぬ。
ならば――
義そのものを、問い直すしかない」
清胤は言葉を失った。
謙信は続けた。
「私は、義を捨てるのではない。
義を……裁くのだ。
義が民を救うものか、
それとも……ただの空虚な言葉か」
清胤は震える声で言った。
「謙信公……
その道は……危険です」
謙信は静かに頷いた。
「わかっている。
だが、進まねばならぬ。
義の真実を見つけるために」
清胤は深く頭を下げた。
「……ならば、私はあなたに従います。
義の断罪が、民を救う道であることを……祈ります」
謙信は夜空を見上げた。
雲が裂け、わずかに月が覗いた。
「義の断罪は……
公界の最後の希望だ」
その言葉は、夜風に消えていった。
そして、三者の理想は――
ついに崩壊の淵へと向かい始めた。




