第9話「三者の断絶 ― 理想の崩壊」
越後・春日山城。
秋の風が吹き、山の木々が色づき始めていた。
だが、その美しさとは裏腹に、謙信の心は深い闇に沈んでいた。
清胤からの書状には、焼ける村と泣き叫ぶ少女の姿が記されていた。
前久からの書状には、関東制圧を急ぐよう命じる言葉が並んでいた。
二人の言葉は、どちらも正しい。
だが、どちらも現実を救ってはいない。
謙信は拳を握りしめた。
「義を掲げても……民は救われぬのか」
そのとき、家臣が駆け込んできた。
「謙信公! 京より急使です!」
謙信は書状を受け取り、封を切った。
――関白殿、朝廷内で孤立。
――公界構想、反発強し。
――謙信公の義挙こそ、唯一の希望。
謙信は目を閉じた。
(前久殿……そなたも苦しんでいるのか)
だが、同時に思う。
(なぜ……なぜ私にばかり重荷を背負わせる)
謙信は立ち上がり、外に出た。
越後の風が吹き、衣を揺らす。
「義の剣は……どこへ向かうのだ」
***
同じ頃、京・近衛邸。
前久は一人、暗い部屋で文箱を開いていた。
中には、清胤と謙信からの書状がある。
――義の戦、民を救えず。
――仏法、現実に届かず。
――公界の道、闇深し。
前久は書状を握りしめた。
「清胤……謙信……
そなたらまで迷い始めたのか」
そのとき、扉が開き、三条西公条が現れた。
「関白殿……そなたの“公界”は、もはや誰も支持しておらぬ」
前久は振り返らずに言った。
「支持などいらぬ。
私は、この国を救うために動く」
公条は冷たく笑った。
「その理想が、そなたを滅ぼす」
前久は扇子を握りしめた。
「滅びても構わぬ。
だが、民を救う道を捨てることはできぬ」
公条は去り際に言った。
「そなたは孤立した。
そして……その孤立は、いずれ清胤と謙信にも及ぶ」
前久の胸に、冷たい痛みが走った。
(清胤……謙信……
そなたらを巻き込んでしまったのか)
***
関東・武蔵国。
清胤は、焼け跡に立ち尽くしていた。
少女は安全な村に預けたが、心の傷は深い。
(仏法は……民を救えぬのか)
そのとき、謙信からの書状が届いた。
――義の迷い、深し。
――民を救えず、心折れそうなり。
――清胤殿、私は何を信じればよいのだ。
清胤は震える手で書状を握りしめた。
「謙信公……
あなたまで……」
清胤は空を見上げた。
雲が厚く、月は見えない。
(私は……何を信じればよいのだ)
***
三者は、それぞれの場所で同じ空を見上げていた。
越後で、謙信は義に迷い。
京で、前久は政治に孤立し。
関東で、清胤は仏法に絶望する。
三者の誓いは、まだ折れてはいない。
だが――
その絆には、深い亀裂が走り始めていた。
そして、誰も気づいていなかった。
**この亀裂こそが、公界の崩壊の始まりだった。**




