たかが恋〜異邦からの魔術師
ポーカーフェイスの残り香
恩がある、かつての職場の先輩緒方さんには、当初はさほど良い印象はなかった。初対面の際は、ハンサムな顔と官能的なまなざしに、恋愛に奥手な私は気後れした。しかも彼はポーカーフェイス。何を考えているのか、全く見当がつかない。人も食物も学問も小説も、分かりやすいものを好む私にとって、当初は苦手な男性だった。
そんな食わず嫌いな自分が変わり、緒方さんと打ち解け合えたのが、入社して一週間後のこと。職場で窃盗事件が勃発したのだ。現行犯を目撃したのは、私だけ。随分見下されたものだ。窃盗犯はTという女性先輩。トイレの汚れが酷く、慌ただしく掃除をしている私の目の前で、備品室から水色でMサイズと印刷された、使い捨てのゴム手袋一箱を持ち出し、近くに設置されている自分のロッカーを開け、黒いバッグに仕舞い込んだ。終始何食わぬ顔で、犯行をやらかした。
私はすぐ、その日現場を監督する立場であった緒方さんに報告した。ところがこちらが真剣に訴えているというのに、反応が鈍い。パソコン作業をする手を休めずに「あー、それはいかんなー」と言うだけ。「ダメだ、こりゃ」と肩透かしを食らった私は、トイレ掃除に戻った。
翌日、緒方さんと初めてマンツーマンで日中の業務を任された。お互い、必要最低限な会話しかしなかったが、昼休憩の際、向こうからおもむろに話しかけてきた。
「桂さん、昨日の話だけど…。俺はああいうのは絶対に許さん。桂さんが教えてくれたから、俺はあの後すぐに自分のロッカーを施錠して、入居者の小遣いを全部金庫に仕舞ったんだ」
嬉しかった。緒方さんは、新入社員の私の方を信用してくれたのだ。窃盗事件はショックだったが、彼に心を開いた契機になった点だけが、唯一の幸運だった。彼からの信用は、別れの日まで続いた。
この泥棒事件は、会社の非常識な面を露呈した。管理者や先輩たちから、「どこの馬の骨か分からない新人は、信用できない。大ごとにしたくない」と残酷な言葉を投げつけられ、口止めされた。納得がいかないと憤る私に、「桂さんのせいで現場がわちゃわちゃ混乱したから、黙っていて」と、非情な指示をされた。ショックを受け、困り果てている私を見かねて、緒方さんは本部に助けを乞うてくれた。しかし、さすがは生粋のブラック企業。せっかく彼が助け舟を出してくれたのに、本部からも無視され、梨のつぶてに終わった。今まで勤めてきた会社の中で、最も悪質だ。
緒方さんは会社に幻滅した私を励ますためか、デートに誘ってくれた。二人で菅田将暉主演の映画を観に行った。映画館の次に立ち寄った雑貨屋で、私が綺麗と口走った、季節外れの美しい風鈴をプレゼントしてくれた。
雑貨屋を出た後、車中で結ばれた。正真正銘大人の彼は、積極的に私の身体をまさぐり、終始リードしてくれた。愛のテクニックにそつがなく、女性の身体は知り尽くしていると推測できた。
家族以外で、初めて手料理を振るった記念すべき相手は、緒方さんだ。風鈴が控えめに鳴り響く、ワンルームアパートに招待し、日頃の感謝として、得意料理の鶏とカラフル野菜の揚げ浸しを振る舞った。国内外の名の知れた政治家の笑い話に花を咲かせ、二人でガツガツ頬張った。肝心の手料理のことは褒めてくれなかったが、完食してくれた。
緒方さんは、私を信用してくれていたのだと確信している。彼が事務作業に追われている時間は、調理もオムツ交換も入浴介助も任せてもらっていた。入居者全員の近況を把握した上で、夜勤者に必要事項を伝える申し送りという難易度の高い仕事まで任せてもらっていた。非常にありがたかった。
しかし緒方さんが不在の日は、極端に対極で、仕事を一切与えてもらえなかった。元々仕事量が少ない会社だと事前に聞いていたのだが、それにしても、洗い物や洗濯や掃除の手伝いすらさせてもらえなかった。泥棒事件の影響もあると思う。与えられた役割はただ一つ。先輩たちの話し相手、しかも会社の悪口のオンパレードを聞くのを強いられた。そんなおかしな業務で給与をもらう日々が何カ月も、緒方さんが休みの日は当たり前のように続いていた。一人の人間として認めてもらいたいという、承認欲求が満たされるどころか、人格否定のように感じた。
一週間続けて仕事らしい仕事を与えてもらえず、ついに堪忍袋の緒が切れて、出て行くと啖呵を切った。雷を落とした相手は、よりによって最も親しい緒方さん。あとから振り返ると、彼に甘えていたのだと思う。彼個人に配慮をしなかった点は、申し訳なかった。私のマグマが噴火した際、彼は入居者の入浴介助を終え、風呂掃除をしていたのだが、私が一方的に退職を宣言すると、掃除をしていた手を止め、左手にモップを持ったまま、風呂場の壁にもたれかかり、困ったように「えぇー」と苦笑した。
数日後、ほとぼりが冷めた私は、緒方さんだけに別れの挨拶をしに行った。緊張して職場へ赴くと、彼は玄関まで出て出迎えてくれた。
「バイクの音がしたかと思ったら、やっぱり」
その職場でバイク通勤は私だけだった。緒方さんは以前と変わらず、穏やかに迎え、個室で話しをしてくれた。
「あまり力添えできなかったのは悪かった」
またまた意外だった。元々体裁振るきらいがある人なのに、謝ってくれた。しかも、礼儀知らずなはずなのに、見送りまでしてくれた。
帰り道、温かな涙がこぼれた。ブラック企業で、唯一彼だけが最後まで私を信用してくれた。
だがその後、複数の管理者から慰留され、私は留まることになった。
私の復職は、ポーカーフェイスな彼でも、驚きを隠せなかった。
「どういうことだ?」
珍しく色気を封印した真剣なまなざしで、個室に私を連れて行き、復職になった経緯を問いただした。私の長い説明が終わると、彼は普段どおりの穏やかな顔つきに戻った。
二人だけになった瞬間、慌ただしくも、黙って抱きしめてくれた。彼が懸命に働いた証の汗が、首筋に伝わった。
ところが四日後、急転直下かつ前代未聞の事態が起きた。管理者から慰留の件を、唐突かつ一方的に反故にされた。
「桂さんの後釜が、桂さんを慰留する前日に実は決まっていた。やっぱり辞めて。退職の言い出しっぺは桂さんなんだから」
こんなおかしな話は聞いたことがないと、当然激昂した私は、管理者と大喧嘩になり、こちらから「お前らとは絶縁だ」と怒鳴りつけ、その場でこの上なく汚い字で退職願を書いて、デスクに叩きつけた。以来、その管理者とは、挨拶もしていないし、目を合わせてもいない。
管理者と殴り合い寸前の怒鳴り合いを繰り広げた後、私は愕然とし、二十四時間経過しないと現実を受け止められなかった。管理者から「誰にも口外するな」という、くどく理解しがたい指示をされていたが、無視し、緒方さんに会いに行った。緒方さんに伝えても、一ミリも解決できないことは百も承知だったが、当時の私は混乱していた。
緒方さんはその夜、一人夜勤を押し付けられていたが、仕事の手を休めずに、混乱している私の話を全て聴いてくれた。彼はみるみる不機嫌になった。
「忙しいですねー、忙しいですねー」
様々な理不尽さに日々耐え続け、憤る彼を、おもんぱかる余裕はなかった。当時の私を許してほしい。
数日後、風の便りで緒方さんのその後の様子を知った。別の職員が私の慰留の件を話した際、彼はうつむいて、ため息をついたらしい。
「桂さんはもう来ないと思う」
やはり私の気持ちを汲んでくれたように感じた。胸が痛かった。
最後の出勤日の退勤間際に、彼に声をかけると、けんもほろろな言葉を投げつけられた。
「俺のことはもう忘れて」
そんな薄情な言葉をぶつけた後、色気ある目を細めて「へへ」と笑った。意地悪の極みだ。
「転職がうまくいけたら、会いに行きたい」
どういうわけか、この申し出には、二つ返事で了承してくれた。全く心が読めないのが徹底されていて、あきれた。
退職した翌日に転職したのだが、これが幸運なことに大当たり。落ち込むことも多々あるが、四十歳で天職に出会えた。仕事に馴染んだ頃、予告どおりに緒方さんに会いに行った。
「うまくいってるんだ」
私が一カ月振りに姿を現した途端、彼が発した第一声を聴いて、私は自分自身を褒めたくなった。おそらく前職では消えていた朗らかさが、表出していたのだろう。
彼はスマートフォンをいじりつつも、親密だった頃と変わらぬ官能的なまなざしで、ちらちらと私と目を合わせて、元気はなかったが、私の近況を尋ねたり、自分の近況をベラベラと喋ってくれた。やはり相変わらず礼儀知らずだが、彼への信頼が盤石な私には、もう充分だった。
「俺はケアマネに受かるまで、辞めることができない」
ブラック企業で嫌々働く彼からすると、転職が大成功した私の明朗な笑顔と近況報告は、鬱陶しかったのだと思う。しかし私は彼には遠慮がない。小さな復讐を果たした。
「あなたのことを忘れるくらい、キャリアウーマンみたいに働いてます」
その際、彼は笑わずに、かすかに眼を大きくして、にらんだような目つきで、私を二秒ほど見つめた。
今度は私から別れを告げた。最後の最後で、恍惚するほどに美しいまなざしを、私の目に焼き付けてくれた。
ポーカーフェイスゆえ、内心を察しづらい彼のお陰で、わずかながら想像力を鍛えられた。苦手なタイプだった彼に恋焦がれたのは、何らかの縁だったと思う。彼は私にとって全てが高嶺の花だったで、最終的には諦めたが、私は未だに心の片隅で、彼に魅了されている。彼から純な信頼と恋という魔法をかけられて、私は今日も彼との甘く切ない記憶に捕らわれている。