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第十二章「brave new home」7

 一人、冷静に寛ぐ前田吾郎は俺たちの反応を見て自嘲気味に笑うと、段々とぬるくなっていく珈琲を飲み干して、カップをテーブルに戻した。


 ここまで来てしまった以上、後悔しても遅い。

 この父親も覚悟の上のことだろう。

 俺は大丈夫と細々とした声を絞り出す隣の郁恵に寄り添うことだけを考えた。


 もしも、郁恵が父親のことを許せなくなったなら、寄り添っていられるのは俺だけだ。


 そこまで考えを巡らせ、俺は事の真相が語られるのを待った。

 心配そうにフェロッソが郁恵の横にやってくる中、静かに深呼吸をして、父親は口を開く。

 俺は真昼間の寮室で目を閉じて、郁恵の心境に近づけて話を聞くことにした。



「私がカトリック教会に所属して神父をしていることはもしかしたら往人君はご存じないかもしれないが、オーストラリアでは国民の多くがキリスト教徒だ。信仰深い人も多く、休日になれば多くの人が教会を訪れる。


 そんなオーストラリアでのことだよ、まだ小さかった郁恵を引き取ったのは。


 夫を自殺で亡くして心神喪失状態に陥った信者の女性がいてね。突然のことで目の前が真っ黒になったことだろう。

 その人は私と同じ日本人女性でオーストラリアで結婚した外国人男性との間に子どもが出来ていたんだ。

 腕にまだ小さな子どもを抱えたままシングルマザーになったその女性は周りの視線も気にせずずっと泣いていたよ。

 

 女性は途方に暮れていたんだね、無理もないことだ。

 自責の念があるということだけではない。

 夫が自殺であったため生命保険に入っていたにもかかわらず死亡保険金は支払われず、子どもを育てるお金はおろか、自分が生きていくことさえ精一杯だったようだ。


 途方に暮れて生きる気力さえ失っている女性に対して酷な仕打ちは出来ない。


 神父の立場である以上、信者と深く関わってしまうことを快く思ったことはないが、私は子どもだけでも引き取って欲しいという女性の願いを聞き入れることにした。


 もちろん、それは一生というわけではない。

 女性が重荷から解放され、心身ともに快方へと向かっていき、社会的な自立を迎えれば再び母親の下に子どもを返すつもりでいた。

 女性がお腹を痛めて産んだ子だ。そうすることが、親子にとって幸せであると心から思っていた」



 非情な告白。戦時中であればもっと残酷な形だってよくある話しかもしれないが、福祉が発達した今の時代において、ここまでの無責任はそう多くない。

 

 母親が日本人であるなら、もっと頼るべき相手がいるのではないかと考えてしまう。だが、それはもう後の祭りだ。

 

 郁恵が立派な形で成長してくれた幸運を噛み締めるしかないだろう。


「お父さんは……私が目が見えないことを知っていて引き取ったの?」


 今の話しを信じたくはないと思うが、郁恵は話し途中に聞いた。


「あぁそうだ、働きながら育てるにしても施設を利用することになる。

 それなら、私のところで一旦引き取って欲しいと言われた。

 その後、その女性の消息は見失ったがな……考えたくないことだが、自分の子どもが目が見えないという現実を受け入れたくなかったのかもしれない。

 自分の手で育てるには手が掛かりすぎると考えてしまったのかもしれない」


 酷く残酷な回答に胸が苦しくなる。

 察するに郁恵は今、酷く心を乱されていることだろう。


「そっか……お父さんは酷い貧乏くじを引かされたんだ」


 誰よりも目が見えないという障がいの意味を知っている郁恵が言葉を絞り出す。

 自分が捨て子であることなど、受け入れがたい。

 いつもの笑顔は、今の郁恵にはなかった。


「どんな子であっても人権は保障される。施設に引き取ってもらう選択肢も最後まであった。

 だが、結婚相手が見つかったことで私は郁恵を自分の子どもとして育てていくことに決めた。それが可能であると当時は心から思った」


「もういいよ……お父さんは十分に親としての役目を果たしてる。私はそう思うよ」


 郁恵は自分の口で話を断ち切った。

 これ以上はもう、耐えられないという合図だったのかもしれない。

 父親は返す言葉がない様子で下を向いた。

 

 俺は親子の関係に口出しするわけにも行かず、歯を食いしばり、握り拳を作って押し黙った。


「すまないね……少しだけ、外で煙草を吸って来るよ」


 この居たたまれない空気の重さに耐えきれなくなったのか、昔の出来事を思い出して感傷的になったのか、父親は静かに席を立った。


 肌寒さを感じる程に静寂に包まれる寮室。

 冷めた珈琲の香りが立ち込める中、郁恵はほっと一息付けるはずもなく、口を開いた。


「ごめんね、私もこんなことになるとは思わなくって」

 

 俺に対して謝罪の言葉を口にする郁恵。

 血の気が引き、痛々しいまでに表情を凍らせた姿を見ているだけで辛くなった。


「俺のことは気にしなくていいよ。それより本当に大丈夫なのか?」

「うん、さすがに少し堪えたけど、お母さんのことはずっと知りたいと思っていたことだから。秘密にしてるからには意味があるって分かってはいたんだ。

 それにしても、お父さんには苦労をさせ過ぎたなって思うけど」


 瞳を潤ませることなく、乾いた苦笑いを浮かべる郁恵。

 ずっと座ったまま、ショックが大きく立ち上げられない様子だった。


「そうか……受け入れるにしても、ゆっくり受け入れていくしかないな」

「そうだね、本当のことが知れただけでもよかった。

 往人さんが隣にいるからお父さんも信頼して話してくれたんだよ、ありがとうね、往人さん」


 俺の方を向いて無理に微笑む。

 そこまで気を遣わせてしまっていることを俺は申し訳なく思った。


「俺は何もしてねぇよ……」

「そんなことない……そんなことないよ」


 そう言葉を漏らし、脱力した様子でもたれかかってくる郁恵。

 俺は郁恵の身体を支え、次の瞬間には柔らかく肉付きの良い身体を抱き締めていた。



「あぁ……お寿司を注文しておいたよ。

 流石にこの空気のまま帰るのも悪いと思ってね。

 一緒に食べ終わったら私はまたオーストラリアに帰ることにするよ」


 日本の四季も風情があっていいが、私もオーストラリアの生活に慣れてしまったとさらに言葉を続けて帰る言い訳を口にした。


 俺たちは父親の言葉通り、一緒に出前でやって来た豪勢なお寿司を食べた。

 それからした話の中で知ったことだが、日本に戻って来た俺の父親とも再会して飲み屋で話しをしたらしい。

 詳細は教えてもらわなかったが、同窓会のような語らいだろうと察することが出来た。

 親同士の話し合い、そこにはまた歳を重ねた別の楽しみがあるのかもしれない。

 そんな風に思いながら、三人で過ごす時間は過ぎ去って行った。


「それじゃあ、私はこれでお(いとま)するよ。

 改めてあの砂絵を見たが、やはり立派なものだな。

 往人君のお母さんと会えたことは幸運なことだった。

 これは心から思うよ」


「そうですか……母も喜んでくれていると思います。

 また、お会いしましょう、僕はいつでもお待ちしています」


「そう言ってくれると来た甲斐があるというものだ。

 それでは郁恵のことを頼むよ。

 郁恵の生活費を送ることに変わりはないから、私は親代わりを続けていくに変わりはない。

 いつでも頼ってくれたまえ」


「はい、ご足労感謝します。これからもよろしくお願いします」


 俺は丁寧に言葉を返し、感謝を込めてお辞儀をした。

 漢気を出して生活費は全額自分が支払うと言いたいところだが、郁恵自身もそういう言葉を望んでいない。

 これから始まる郁恵との共同生活はお互いに生活費を出し合って暮らしていくと決めている。

 身の袖をわきまえたまま俺はこの場を乗り切った。

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