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第九章「プリンセスハーモニー」3

 ――2025年12月25日。


 朝食の片づけを終えて、部屋に戻ろうとするところで俺は珍しくスーツ姿をしている師匠に呼び止められた。

 明日から始まる絵画展のために今日、関西国際空港からパリまで向かう予定だと話していた忙しい師匠が、何の用だろうと俺は思った。


「往人、午後になったら出掛けるからな、先にプレゼントを渡しておこう。

 これは、クリスマスプレゼントかそれとも誕生日プレゼントか……」


「どっちでもいいって。毎年同じやり取りするのはやめろって」


 去年にも聞いた言い回しでプレゼントを渡そうとする師匠。

 俺は毎年用意していないのに、こういうところは律儀な人だった。


「そうか、ならとりあえず受け取っていけ。

 本当は今日を迎える前に渡すべきだったのだろうが、俺もどうにも決心がつかなくてな。先送りにしていたものだ」


「引っ掛かる言い方だな。決心って……一体なんだよ……」


 訳が分からないまま新聞紙に包まれた物体を受け取る。

 両手で受け取った瞬間、その中身が額縁に入れられた絵画であることはすぐに分かった。

 師匠がわざわざこんなタイミングで渡したい絵……。

 まるで見当が付かないまま、俺は早速答えに辿り着こうと中身を開いた。


「まさかこれって……」


 白黒に見えてしまうのは致し方ないが、デッサン力まで含めて決して芸術として優れているとは言えないが、どこか柔らかい線で描かれているのが印象的だ。

 これを描き上げた人物の姿が頭に浮かび、驚きのあまり手が止まってしまう。


 いや、何故師匠がこんなものを持っているのか。

 恐らくだが、しだれ桜を描いたであろう水彩画を目の前に、その疑問が最初に浮かんだ。

 

 じっと見つめていると、師匠が自分の口から答えを教えてくれた。


「あぁ、見ての通りだ。これは花見をしたあの日に彼女が描いたものだよ。

 お前はずっと、チャンスを伺っていたのに彼女に描いてもらっていなかっただろう?

 色の使い方まで俺が手塩にかけて丁寧に教えた。まぁ、時間にすれば30分程度の短時間だが。

 間違ってはいないはず、これは切にお前が欲しかったものだ。

 どうだ? 喜んで受け取ってくれるかか、往人?」


 師匠の話しを聞き、必死に心を静めようと深呼吸をする。

 水彩画を選んだのは、アクリル絵の具に比べて服や顔に付着しても汚れが取れやすいから。

 油絵具にしなかったのは匂いもきつく、完成させるには時間もかかり短時間で教えるには労力がかかりすぎるから。

 それは分かる……しかし、考えている間にも身体の方が異常をきたしていくのが嫌というほど分かった。


「いや……これは。そういうことか……」


 ……()()()()()()()()()()()()


 それは、水彩絵の具で描かれた白黒のウサギのような形状をした不安定な姿をしているしだれ桜とキャンバス左上に付着している真っ赤な色をしている何かだった。


 いや、大体のコントラストで分かる、正確にはしだれ桜は薄ピンク色をしていて、真っ赤な色をしているのは絵の具ではなく、郁恵の血痕なのだろう。

 指を切って付着したくらいの小さな血の痕だが、俺にとってそれは唯一色を帯びて身体が見える郁恵のものであるという証明だった。


「おい、どうした?!」


 キャンバスを握る手が震え始め、眩暈を起こし始めた俺を見ている師匠は大きく声を荒げた。


「ダメなんだ師匠……覚えているか……あの時、貧血を起こした理由(わけ)を……」

 

 段々と意識が薄れていく中で、遠ざかっていく声を聞きながら、俺は師匠に過去の記憶を思い出してもらうため訴えかけた。


「くっ……あの時と同じだっていうのか、往人……」


 身体から血の気が抜けていき、そのまま師匠の身体にもたれかかる。

 見てはいけないものを見てしまった俺は、そこで意識を失った。



 目を覚ますと、そこはベッドの上ですぐそばに師匠の顔があった。


「起きたか、具合はどうだ?」


 言葉を掛けてくれる師匠の心配そうな声が耳元にまで響いた。

 時間にすれば数時間、まだ正午を迎えたばかり。

 時計を確認した限り、意識を失っていたのはそれほど長い時間ではなかったようだ。


「目覚めは最悪だな……しかし、どうだろうな……少しずつ楽になっている気がするが、まだ意識が朦朧とする感じだ。

 なかなか力が入らないが、単なる貧血だからすぐに動けるようになると思う」


 指は動かせるが、身体は重く、足はまだ痺れが残っているようだ。

 身体を少し起こして、ペットボトルの水を少量口に含む。

 このくそ寒い時期に汗は搔いているが、吐き気がするほどの身体の不調ではなかった。


「そうか、無理する必要はない。

 仕事に行きたいだろうが、今日は大人しくここで休んでいろ。

 事情は店の人に伝えておく。

 四年前のようなことをぶり返しては困るからな……」


 母が亡くなった直後の体調不良は長引いたが今はそれほどの不調ではない。

 しばらくすれば体調は戻るだろう。


「あれはよっぽどなことがあったからだよ。

 でも、少し怖いな……赤い血を見るのは苦手だ」


 俺は正直に弱音を吐いた。認めたくないが、そういう気分だった。


「一応、確認しておくが、彼女の描いた絵に色はなかったのか」


 きっと、師匠は確かめたかったのだろう。

 郁恵に俺の母親のような魔性じみた絵描きとしての才能があるのか。

 そしてもう一つ、俺が郁恵の描いた絵を見た時、母の絵のように色が宿っているのか。


「あぁ、なかったよ。色があったのはあいつの血液だけだ。

 馬鹿みたいだ……あんな少量の赤い血を見ただけで貧血を起こすなんてな。

 久々に真っ赤な血を見たから、身体が過敏に反応したらしい」

 

 情けなさでいっぱいになって嫌気が差し、俺は投げやりな感情に師匠に言った。

 師匠は何とも複雑な表情を浮かべ、今よりも身体が弱かった昔のことを思い出している様子に見えた。


「そうか、それは残念なことだな。

 だが致し方ない。四年ぶりのことだが再発したことを受け入れて乗り越えていくしかないだろうな。

 前田郁恵と離れたくはないだろう?」


 返事をせずに横を向いて、俺は顔を見られないよう隠した。

 俺がそっぽを向くと、師匠は事情が分かったからか、それ以上の言葉はなく部屋からいなくなった。


 クリスマス演奏会が喫茶さきがけでは待っているというのに、情けない気持ちでいっぱいになった。


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