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第八章「桜の木の下で」6

 一人では叶えられない願いでも、支援があれば叶えられる。

 私は恵まれている。だって、私のそばに寄り添ってくれる人は嫌な顔一つせず、手を差し伸べてくれるから。

 それは当たり前ことじゃない、特別なことだって分かってる。

 だから私は、この差し伸べてくれる手を無駄にしないために、立派な人にならなければならない。

 

「少しついておいで、いい物を見せてあげるよ」


 往人さんのお師匠さんはそう言って、スポーツを終えて休憩している私を誘った。

 声は往人さんに比べて低くてダンディーだから聞き間違えることはない。

 私は差し伸べられたお師匠さんの肘を掴んで坂道を登っていった。

 そして、辿り着いた場所は桜の木の下だった。


「何が見せてくれるんですか?」

「さっきまでここのしだれ桜を描いたんだ、郁恵君に見て欲しくてね」

「でも……私は……」

「まぁ、騙された思って、絵に触れてみるといい」

 

 そこにあるのに想像することしか出来ないしぐれ桜。

 それはキャンバスに閉じ込めたくなるほど、美しいのだろう。


 いつにも増して優しい声色でキャンバスを渡してくれる。

 キャンバスは重量感があり今日一日で作り上げたと思えないほど立派なものだった。


「えっ……これって、お師匠さんはこれを一日で描き上げたのですか?」


 キャンバスには無数の桜の花びら達が貼り付けてあった。

 固まった水彩絵の具の凹凸(おうとつ)と花びらが私の頭の中で想像の扉を開かせる。

 花の甘い香りと一緒にしだれ桜の輪郭が触れている感触で鮮明に伝わって来る。

 それは砂絵に触れた時に似た感動だった。


「乾くのに時間もかかるから、ほとんど合流する前に描き上げていたよ。

 君たちがボール遊びをしている間にちょっと仕上げをして完成させただけさ。せっかくプレゼントするんだ。しだれ桜もしっかり描き込んでおきたかったからね。

 陰ながら君には感謝している。喜んで受け取ってくれるかい?」


 何が待っているのかと付いてきたが、あまりにも衝撃的な出来事だった。

 絵画というものは見て楽しむだけではない。

 それは一つの魔法を掛けられたように、私の心に響いた。

 私にも絵画を楽しめることが出来るのだと。


「こんな立派な作品を私に……ありがとうございます」

 

 私は感銘を受けた心境のまま、感謝を伝えた。

 きっと時価総額にすると数百万はする作品を手に持っていると思うと手が震えそうになる。

 寮室に飾っている、父から貰った砂絵の隣に飾ろうと、私は密かに思い付いた。


「いい表情だ、時間をかけて描いた甲斐があるというものだ。


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 それは思わぬ誘いだった。

 私は往人さんの気持ちも考えて迷ったが、少しだけ挑戦してみることにした。


 そして、往人さんに見つからないよう、少し離れたところに移動してお師匠さんからレクチャーを受けた。

 色鉛筆やクレヨンでラクガキ程度に描くくらいなら、画用紙に描いたことは何度もあるが、パレットと筆を手に水彩絵の具を使うのはほぼ初めてのことだった。


 触れてみた感触を思い出し、しだれ桜を思い思いに私は描いた。

 始めた使った道具で描いた絵だ、酷い出来であることは間違いない。

 でも30分ほどしか集中は続かなかったが、完成することが出来た。

 納得できるほど美しいしだれ桜には程遠いが私はお師匠さんに渡した。


「ありがとう。今はまだ秘密にしておくが、タイミングを見て往人に見せるとしよう」


「はい、よろしくお願いします」


 私は頷いて、往人さんの意見も聞かず取り返しのつかないことをしてしまったかもしれないと罪の意識を感じて心が揺らいだ。

 往人さんは……私の描いた絵に何を感じるのだろう。何を思うのだろう。

 お師匠さんも私に感想を言ってくれないのでとても不安になった。


「そんな顔をするな。綺麗な顔が台無しだ」

「すみません……私は往人さんのお母さんの代わりにはなれないって分かってしまって……」


 私は天才でも凡人でもない、目の見えない全盲の人間だ。

 プロに見せる絵を描くにはあまりにも相応しくない。

 それを嫌というほど自分で分かっている。


「誰もそんなことまで期待していない。

 目が見えなくても、君は存在するだけで価値がある。

 君は私が望んだ通りに描いただけだ。

 もし往人のためにならなくても、悔やむことはない」


 背中を軽く叩き勇気づけてくれるお師匠さん。

 往人さんは色を取り戻したいと話していた。

 それがどれだけ達成できているのか私程度には分からない。

 これ以上、何をしてあげられるのかも分からなかったのだ。


「それは……私が往人さんを好きだとしても……ですか?」


 往人さんにとって私の最大の価値は色が見えること。

 そんなことが頭の中を支配していき、私は思わず言うつもりのなかったことを口走っていた。


 往人さんのことばかり考えすぎたせいだ。

 

 その後のことは頭が真っ白になってよく覚えていない。

 

 でも、それから私は自分の本当の気持ちに気付いていくことになった。


 往人さんの力になりたいという気持ちと一緒に、往人さんのことを、誤魔化しきれないほどに男性として興味を抱き、好きになっていたことに。

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